経済・政治・国際

2015年7月17日 (金)

小笠原諸島について

小笠原諸島について

小笠原諸島は邪馬台国の時代から日本である。ペリーが捕鯨の基地にするため小笠原諸島に拠点を設けた頃、小笠原諸島がユートピアとして欧米から多くの移民がやって来たが、日本と小笠原諸島との繋がりは魏志倭人伝の時代、つまり卑弥呼の時代に遡るのである。

私の論文「邪馬台国と古代史の最新」において述べたが、卑弥呼の時代から小笠原諸島は日本であったのだ。

魏志倭人伝に曰く「 日本の南にある朱儒国があって、その南東方面に裸国や黒歯国がある。」と。

その裸国や黒歯国に行くには、一年ぐらいの船旅が必要で、それらの島々をぐるっと廻ると約450km。日本列島の南にあるそういう島々は、小笠原諸島しかない。したがって、私は、魏志倭人伝にいう朱儒国を伊豆七島、裸国や黒歯国を小笠原諸島に比定している。こういう判断をするには、正しい歴史認識が必要である。是非、皆さんにも知ってもらいたいのでが、旧石器時代から、日本の造船技術と航海技術は凄いものがあり、そのような海の民の本拠地は熱海であった。
熱海が旧石器時代から鎌倉時代までずっと日本の海上輸送の大拠点であったことについては、私の論考があるのでまずそれを紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/atamiaas.pdf
また、「円筒石斧がボニン(小笠原諸島)から、マリアナ、カロリン諸島を経てメラネシア、ポリネシア方面に広がった」・・・そのことについても、私の論考があるのでそれも紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sekihiro.html

 

以上の通り、朱儒国が伊豆七島、裸国や黒歯国が小笠原諸島であることは間違いないと思う。

なお、魏志倭人伝には、「朱儒国という背丈三、四尺の人々が住む国」と書いてあるので、 この点に触れておきたい。朱儒という言葉は、身体が小さいという意味もあるが、ここでは人びとを蔑んだ言葉であると思う。陳寿は、使節団が彼らのことを蔑んだ言い方で説明したので、彼らを三四尺の「チビ」だと書いたのであろう。
また次に、マリアナ諸島のサイパンなどの島々は裸の人が多いのはまったくうなづける話であるが、問題として考えねばならないのは、これらの島を黒歯国と名付けたことである。最近、最近と言っても、数百年前のことだが、サイパンでお歯黒の歯が出土したらしい(「データで考える日本の源流」中尾靖之、2005年12月、郁朋社)。このことは、卑弥呼の時代においても、サイパンでお歯黒の習慣があったということにはならない。しかし、習俗の連続性というものを考えると、古代からサイパンではお歯黒の風習があった可能性がある。だから、私は、きっと使節団がお歯黒の話をしたのだろうと考えている。

2014年7月 5日 (土)

時事問題4(日中歴史認識問題)

時事問題4・・日中歴史認識問題

中国の習近平国家主席は2014年7月4日、ソウル大で演説し「日本軍国主義は中韓両国に対し野蛮な侵略戦争を行った」と述べ、歴史認識問題に絡めて日本を批判した。習主席は、日本に抵抗した独立運動家らが上海で樹立した大韓民国臨時政府の活動など歴史的な事例を取り上げ、中韓両国が過去に日本に対して共闘したことを強調。現在の日中、日韓関係の対立も念頭に中韓両国民の共感意識に訴えた。
習近平は、2014年3月28日にも、ドイツの首都ベルリンにおける財団において、日本の歴史認識問題に関連して稀に見る激しい対日非難 の演説を行ったことは皆さんもご存知の通り。稀に見るとは、これまで中国の歴代の首脳が行った対日非難の発言および習近平主席の日本に関する公式発言に比べて、類にないほど具体的且包括的な日本の歴史認識に関する非難であることに加えて、わざわざドイツの首都ベルリンを選んで行われたことにある。中国側の意図と しては、歴史認識問題については十分な反省を示したとされるドイツに比べて、日本は遅れているとの国際的な世論工作を狙ったものであろう。
    習近平主席は、「日本の軍国主義が始めた侵略戦争により中国人3500万人が犠牲になった」として具体的数字を挙げるとともに、「この悲惨な歴史 は中国人の心に深く記憶として残っている」と述べ、また、いわゆる「南京事件」についても具体的な数字を挙げて「約70年前、日本軍は中国・南京に侵略 し、30万人以上の中国人を殺すという残虐な犯罪を行った」と語り、当時、中国人避難民の保護に努め、「ラーベの日記」で知られるドイツ人ジョン・ラーベ 氏について「中国でとりわけ愛され、尊敬されているドイツ人である」と称賛した。
   このような習近平主席の言辞は、中国側として、いわゆる歴史認識問題については、日本に一歩も譲る意志がないこと、および今後中国の立場について 国際的宣伝活動を一層強化していくことを示したものと言えよう。日中関係がここまで悪化している現状を改めて思い知らされたような気がする。
   習近平演説に対する日本政府の反応は、比較的抑制されたものであったが、奇妙な印象を与えた。すなわち、習近平演説の二日後の30日、菅官房長官は記者団の質問に答え る形で、「第三国で中国の指導者があのような発言をされたことは、極めて非生産的だ」と遺憾の意を表した。また、「南京事件」で殺害された人数を習主席が30万人とした ことについても、菅氏は「人数などについては様々な意見がある」と反論したとされている。
そこで思い出すのは、2006年に、当時の安倍晋三首相が訪中したさいに、胡錦濤国家主席の間に合意されて形成された、日中それぞれ十人の有識者 からなる「日中歴史共同研究会」が2009年に完成した報告書の内容である。同報告書において、日中それぞれの専門家は、日中関係の歴史、とくに日中戦争 の経緯や各過程を詳細に検証した。
  日中戦争全体の中国側の犠牲者の数については、中国側の報告者陶文剣によれば、「不完全な統計によれば、戦争期間中、中国軍民の被殺傷者は 3500万人以上」とされた。また、「南京事件」での中国側犠牲者の数については、日本側報告者波多野澄雄・庄司潤一郎によれば、「日本軍による虐殺行為 の犠牲者数は、1947年の南京戦犯軍事法廷で30万人以上とされ、中国の見解はこれに依拠する。一方、極東国際軍事裁判の判決では20万人以上(松井石根司令官に対する判決文では10万人以上)とされた。日本側の研究は20万人を上限とし、4万人、2万人などがある。諸説ある背景には、「虐殺」の定義、 対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計などの資料に対する検証の相違が存在している。」と指摘された。
  しかしながら、このせっかくの「日中歴史共同研究」の成果は、その後両国政府によって活用されていない。したがって、目下日中間で最大の懸案問題となっている日中戦争をめぐる歴史認識の違いを解消するには、改めて日中両国間で「歴史共同研究」作業を 行い、その結果に基づき、日中首脳同士で未来志向の観点から、妥当な決着をつけるほか道がないと思われる。それが、菅官房長官のいう日中関係打開のための 「生産的な」方法であろう。

日中に関する歴史問題は、何も「南京虐殺問題」だけではなく、当時の日本における軍部の内閣を無視した独走を許したのは日本政治のどこに問題があったのか、なども含めて日中戦争全体を総合して議論しなければならない。それは日中間でというより、日本国内でだ。日本国内でそういう総合的な議論はほとんどなされていないのではないか。私は未熟ながらも、一応、日中戦争について総合的に検討したことがある。それを以下に紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sina123.pdf

2013年3月23日 (土)

政治家よ!関係子(メディオン)たれ!

 東大名誉教授に清水博という生命学の大先生がおられ、『場の思想』(2003年・東京大学出版会)という本を出された。清水先生は1932年生れで、私より6つ歳上である。 東京大学の薬学部を出られた薬学博士であるから、薬の先生かと思っていたらとんでもない。大学院時代は化学物理学を学ばれ、ハーバード大学やスタンフォード大学でも研究生活をされた生命学の大家である。
 生命に関する学問をバイオホロニスというが、先生の研究は、生命というものを分子のレベルから解明しようとするもので、世界最先端の研究である。
 先生は、九州大学理学部教授をされた後、東京大学薬学部の教授を務められ、定年後は金沢工業大学で「場の研究所」なるものを始められた。この生命学の権威である清水先生が、哲学を学ぶものの必読の書といえるような前記の本を出されたのである。

 清水の著『生命を捉えなおす』(中公新書)の初版は1978年だが、その後研究が進み、増補版が出たのが1990年である。とくに注目すべきは「関係子」という考え方であろう。中村雄二郎は「メディオン」と呼んだらどうかとアドバイスしたようだが、中村のリズム論とも関係が深く、関係子が発生するリズムの「相互引き込み現象」は清水博の画期的な発見である。関係子に関する研究はこれからどんどん進み、生命の神秘がもっと明らかにされるであろう。関係子の着想は実に素晴らしいのだが、近著『場の思想』に、その話が出てこないのは誠に残念である。
 清水博のイメージする「関係子」の概念について、要点を説明しておきたい。
 私は今まで、生命学という言葉を使ってきたが、清水博は、生命学とは言わないで、「生命関係学」と呼んでいる。関係性というものの重要性を充分認識したうえでのことである。生命システムには、多様な複雑性とそこに自己組織される秩序があるというのが清水博の考え方であるが、この秩序は一義的なものではなく多義性に富んだものである。

 では、秩序の多義性というものはどこからくるのか? 清水は、生命の働きを生成的、関係的にとらえない限り、この問題は解けないと考えている。関係性の重視である。その粒子がたくさん集まったとき、その状態によってグループとしてのさまざまな機能が出現してくるのだそうだ。もちろん粒子ごとに特定の機能というものはあるのだが、グループとしての機能はそれら個々の機能の合計ではなくて、全く別の新たな機能が出現してくる。それはなぜか? 多くの粒子がどのような状態になっているか、それら粒子と粒子の間の関係性により、いろいろな機能が出現する。よって関係性というものが重要となり、それに着目して研究を進める必要がある……というのが清水の考えである。
 劇場で役者が即興劇を演じる。観客がそれを見ている。そこには照明装置や音響装置など劇場としてのシステムがある。即興劇を演じる役者は、あらかじめ劇場主、シナリオ作家、演出家から必要な情報を与えられているが、いったん幕が上がると、あとはもう観客と一体になってその場の雰囲気で臨機応変に演じる。それが即興劇であるが、清水は『生命を捉えなおす』のなかでこう言っている。 「役者の演技は、大まかな筋という拘束条件のもとで、大ざっぱに決められますが、具体的には役者同士の演技の相互関係によって、選択されたり、つくられたりしながら劇を進行させていくのです。その演技は、全体として一つの筋を生成的に自己組織しながら展開していく必要があり、場違いな演技をすることはできません。」
 そこには環境とシステムは出てくるが、活動主体が記述されていない。そこでは操作情報という言葉が使われており、情報を自己組織する活動主体というものを念頭に置いて、清水はそれを関係子と呼んでいる。すなわち関係子とは、システムや環境から発せられるさまざまな情報を受け取って、臨機応変に自らの活動に役立つ操作情報を自己生産するものである。つまり自己組織するとは、自己生産しながら自分の組織に組み込んでいくということである。要するに、関係子というのは、意味のある操作情報を自己組織するのである。

 関係子(メディオン。名付け親は中村雄二郎。)は舞台の役者、意味ある操作情報は観客。政治で言えば、関係子は政治家、意味ある情報は大衆である。政治家にとって意味ある情報を大衆が発している。それを捉えて政治家は自己組織化するのである。ちょっと判りにくいですかね。ざっくり言ってしまえば、政治家と大衆とが互いに響き合う、それはとりもなおさず清水博のいう「生命原理」なのである。ポピュリズムというのはそういう「生命原理」に合っている。ポピュリズム(大衆主義)における政治家というのは、大衆を相手に「即興劇」を演ずれば良いのである。ポピュリズム(大衆主義)における政治家というのは、大衆を相手に一生懸命「即興劇」を演じて、もし大衆から、大根役者と罵倒が浴びせられたら、舞台から引っ込めば良い。そういう覚悟を以て、政治家という役者は、大衆と響き合えるよう、一生懸命政治をやればいいのである。それがポピュリズムというものだ。

市場経済について

 市場経済は、ポピュリズムを生み出す。ポピュリズムは、現在のところ、「民意!民意!」と言いながら、本当に民意が反映しているのか? 以下、そのことを説明しよう。

 市場経済社会とは、すべての生産者と消費者との関係で成り立っている。この場合、生産者とは企業だけではなく、個人的に、物やサービスや芸などを売っている人を含んでいるが、経済社会に与える影響力は企業の力が圧倒的に大きい。プロシューマという面白い言葉がある。生産消費者 (せいさんしょうひしゃ、prosumer) もしくは生産=消費者、プロシューマーとは、未来学者アルビン・トフラーが1980年に発表した著書『第三の波』の中で示した概念だが、生産者 (producer) と消費者 (consumer) とを組み合わせた造語であって、生産活動を行う消費者のことをさす。清水博の関係子(メディオン)もそうだが、両者が「響き合い」の関係にある。そういう響き合いというものはあるのだが、第一
次的に主体をなすのは、関係子(メディオン)であり、生産者(プロデューサー)である。

 さて、企業は、生産物を売ってより多くの利潤を追求しようとする。そのために企業はさまざまな戦略をたてる。企業の存続と成長は、現在から将来にわたる市場の動きと変化の中で、それらの背後に ある基本的原則を踏まえて対応し、長期的に安定した利益をできる限り多く確保できる状態を、自らの働きかけを通じていかにして造りだせるかにかかっている。このような存続と成長の基盤を競争企業より優位なものとして造りだそうとすることを、「差別的優位性の追及」などと呼ばれたりする。企業経営の本質は、「差別的優位性」の追求であるといって も過言ではないだろう。

 「差別的優位性」を追求する企業の経営戦略において中心的役割を果たすのが、マー ケティングである。マーケティングがその重要な役割を果たすには、現在から将来にわたる市場の動きと流れの中で、活動の基本的方向を定める戦略と、それにもとづいてヒト・モノ・カネという資源を用いて行う活動の仕組みを必要とする。  企業は現在から将来にわたって、財・サービスを商品として消費者に提供し、その見返りよりなる売上高から、それを開発・生産・流通・することに要した費用を差し引いた利益を最大になるよう行動する。売上高は数多くの企業が提供する商品の中から、消費者が選択し購 買することによって生み出される。企業が売上高を上げるには、商品そのものの質、価格、広告、それに販売促進である。
 このように企業が売上高を上げるために、消費者に対して働きかける活動がマーケテ ィングと呼ばれている。その働きかけは、上記の四つを基本的要素として組み合わせる ことによってなされ、その組み合わせをマーケティング・ミックスと呼んでいる。

 市場経済社会とは、すべての生産者と消費者との関係で成り立っているが、企業の力は絶大で、企業の論理で動いているといっても過言ではない。消費者は、それに飼いならされてしまっている。消費者は企業の生産したものを買うだけである。消費者は神さまなどということもあるけれど、消費者は結果を買うだけである。もちろん、結果として市場に出てくる商品を買って、使ってみて善し悪しを感じてはいるが、生産に消費者の論理が働く訳ではない。プロシューマとしての消費者は、生産にも携わるけれど、会社の中で働いているだけで、おおよそ消費者の論理が使われている訳ではない。消費者というものは、弱いものである。生産者のあてがいぶちを生きているのである。それが市場経済社会の本質だ。
 市場経済社会で、消費者は、 結果として市場に出てくる商品を買って、使ってみて良し悪しを感じるだけである。このことは、政治も言えることで、政治家が作る政治的な物や事をただ受け取って、その良し悪しをいうだけである。かかる観点から、政治家が作る政治的な物や事は政治商品と言い代えてもいい。一般大衆は、生活用品をスーパーマーケットで買うがごとく、政治商品を買っているのである。したがって、一般大衆は、難しい事
は何も考えなくていい。とにかく気に入った物を買っておればいい。そして、後で、良い
とか悪いと言っておれば良いのである。こういう情けない状態も、結局は、市場経済のなせる技である。市場経済社会である以上、それでしかたがない。

 政治家は、企業がそうであるのと同じように、良い政治商品を一般大衆に提供していけば良いのである。それがポピュリズムの本質だ。

ポピュリズム

 衆愚政治とポピュリズムは違う。衆愚政治とは、政治家の大半が知的訓練を仮に受けていても適切なリーダーシップが欠けていたり、判断力が乏しい人間に参政権が与えられている状況である。その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな政策が実行される状況をさす。また、政治家がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。エゴイズムは自己の積極的利益の追及とは限らず、恐怖からの逃避、困難や不快さの回避や意図的な無視、他人まかせの機会主義、課題の先延ばしなどを含む。それに対し、ポピュリズムとは、ラテン語の「populus(民衆)」に由来し、民衆の利益が政治に反映されるべきという政治的立場を指す。大衆主義。ノーラン・チャートによる定義では、個人的自由の拡大および経済的自由の拡大のどちらについても慎重ないし消極的な立場を採る政治理念を指し、権威主義や全体主義と同義。個人的自由の拡大および経済的自由の拡大のどちらについても積極的な立場を採る政治理念である自由至上主義(リバタリアニズム)とは対極の概念である。
 私は、ポピュリズムを、ニーチェのいう大衆のルサンチマンが生み出す大衆主義だと考えており、プラトンの「哲人政治」とは対極のものであると思う。すなわち、ポピュリズムは(大衆主義)は、弱者の論理であって、強者の論理ではない。
 報道において「衆愚政治」という意味で用いられることもあるが、その場合は、「今日では、複雑な政治的争点を単純化して、いたずらに民衆の人気取りに終始し、真の政治的解決を回避するもの」として、ポピュリズムは批判的に言及されることが多い。民意を離れてデモクラシー(民主主義)は運用できないとしても、民衆全体の利益を安易に想定することは、少数者への抑圧などにつながり、危険であるからである。しかし、そういう行き過ぎがあると、これからの時代、そういうマイナス面をできるだけ速やかに是正していかないと大衆受けしないのも事実であろう。

 私は、日本の政治はようやくポピュリズム(大衆主義)になってきたとおもう。ポピュリズムは(大衆主義)は、弱者の論理であって、強者の論理ではない。民意を尊重する政治、おおいに結構なことではないか。
 なお、ポピュリズムは、得てして衆遇政治に陥りやすい危険性を常に持っているので、衆愚的な政治家を引っ張って、速やかに「民意」に落ち着かせる、そのような大リーダーが必要であることはいうまでもない。大リ−ダーは、人柄がよく、先行きが見えて決断が早く、そして結果について責任の取れる人である。今西錦司が言うように、人柄、洞察力、責任が大リーダの条件だ。国民の目から見て決めるべきはさっさと決めてほしいのである。小田原評議をしていても始まらない。そして失敗したときは責任を取ってほしい。

2012年11月19日 (月)

英国発PFI最前線

英国発PFI最前線

去る10月に行われたIMF東京会議で、日本の国内銀行の国債保有高が増えていることで、金融が不安定になる恐れが日本で高まっていると警告を発し た。この点に関して、私は、建設国債の日銀引き受けを断行することと、PFIを財務省所管のもとで積極的に推進することが肝要だと考えているが、前者はすでに自民党安倍総裁が覚悟を決めておられるようなので、ここで多くを語る必要はあるまい。後者は、多少時間を要する課題だと思われるが、本来は成長戦略と連動した問題であるので、英国発PFI最前線を紹介しておきたい。PFIの問題は今私がいちばん気がかりな問題である。というのも日本における今のPFIはまがい物で、本来あるべきPFIではないからだ。日本は急いで英国に学ぶべきだ。

安倍総裁は、震災復興も含め、経済の立て直しを今回の総選挙の最大の争点にするようだ。安倍総裁は、長引くデフレ不況に終止符を打つためあらゆる政策を動員するという。その中に建設国債の日銀引き受けを含んでいるようだ。いわゆるインフレターゲティングを断行するという訳だ。財政法では、財政規律を維持するために、 原則的に国債の日銀引き受けを禁止している。しかし、現状では、むしろ財政規律を維持するために、建設国債の日銀引き受けを断行すべきなのである。なぜなら、景気を良くして税収を上げない限り、赤字国債を乱発しなければならない。先のブログにも書いたように、今は財政規律がまったく乱れていて、赤字国債を乱発しなければ国の財政が成り立たない状況になっているが、赤字国債を乱発しなければならないという状態こそ、財政規律の乱れている証拠であり、財政規律の乱れすなわち赤字国債の乱発だと考えるべきだ。
先のブログに書いたように、建設国債は良い国債で、赤字国債は悪い国債である。では、どうすれば赤字国債の乱発を止めることができるか? 理想的なことを言えば、これも前のブログに書いたが、中曽根内閣のときの財政運営のまねをすれば良い。しかし、民主党政権のバラマキ政策という悪弊をそう簡単に是正することはできないであろうし、社会福祉政策の縮小は大変難しいことであろうから、結局は、景気対策ということになる。思い切った景気対策とは、これも前にブログに書いたが、公共事業を中心に景気の押上をやることだ。ケインズはまだ死んでいない。あらゆる政策の中で、やはり公共事業がいちばん経済波及効果が高い。それも東日本大震災の復興事業を思い切ってやることだ。エネルギ政策もある。水力発電を中心として、地熱発電、温度差発電などに思い切った投資をやるべきである。また、都市部ではコージェネとか地域冷暖房を本格的に手がけるべきだ。国民の生命と財産を守るべき災害対策は遅れに遅れている。これらの公共事業をやる原資は建設国債だが、これが市中に流れれば国債金利の上昇、すなわち国債の大暴落のリスクも心配しなければならない。したがって、この際は、建設国債の日銀引き受けがいちばん良いのである。

さて、英国発PFI最前線の話である。ご承知のように、現キャメロン保守党政権は、この9月に、成長戦略に舵を切ったが、実は、成長戦略の柱にPFIが考えられているのだ。PFIは労働党政権時にブラウンが強力に推進したが、キャメロンは、これをさらに改 善を加え、あらたな発展を期している。PFIがリスクの低い事業であることが証明されつつあるからだ。建設と経営のリスクを民間側負担するの原則だが、そ の原則がしっかり守られるようであれば、国のバランスシート(貸借対照表)にオフバランスにしても良いというのが国債財務報告基準の基本的な考えで、英国 大蔵省との間で合意がなされている。
ということで、英国では、大蔵省がPFIを積極的に推進しようとしている。その場合、PFIの効率性とか公益性というものが問題になるので、すべて100%を民間にまかせるのではなく、然るべき大蔵省の関与が必要であろう。
特 にメインテナンスの効率化なり高度化の問題は国が民間企業を支援する必要がある。この場合のメンテナンスとは、単なる維持管理だけでなく、省エネの技術や 部品の交換技術を含む。そういうメンテナンス専門の大企業が、ここのPFI事業主体からアウトソーシングでメインテナンスの仕事を引き受けるのである。こ れからの公共施設は新たな建設というよりメインテナンスに重点が移るであろう。
日本における現在のPFIは、議員立法のとき、大蔵省は、多分、PFIの国費負担分はやはり長期の債務であるという考えが強かったのだろう、PFI に消極的であり自分のところが所管省になることを嫌がっていた。それも判らんではない。しかし、英国で進められているように、バランスシートでオフバラン スということになれば、今後、積極的に取り組むべきではないか。私はそう思う。いずれにしろ、財務省の役人や関係の政治家は英国の出かけていって、英国発 PFI最前線を見てくる必要がある。

日本経済長期低迷の原因と財政悪化の原因

日本経済長期低迷の原因と財政悪化の原因

以下の記事は、10年前に書いたものではあるが、現在のなお参考になる部分も少なくないと思われるので、ここに改めて掲載しておく。 

 日本経済長期低迷の原因と財政悪化の原因
     ・・・・そして 公共事業に対する正しい認識について・・・・

                         平成14年10月15日
                         参議院議員  岩井國臣

1、 日本経済長期低迷の原因
 ・ 87年から90年にかけての日本の経済成長率は平均で5.4%だった。バブル景気の時代である。92年から95年の成長率は平均で1.0%であった。バブ ル崩壊である。そのバブル崩壊不況の中で92年と93年に政府投資の伸びが高くなっている。政府投資で景気の底割れを防いだのである。最も重要なのは96 年であって、96年に日本経済は理想の景気回復を実現したのである。このことは決して忘れてはならない。
・ しかしながら、97年にこともあろうに橋本内閣は緊縮財政政策を実施したのである。13兆円規模のデフレ・インパクトを与える施策が実施されたのである。 橋本会長は、2001年4月の自民党総裁選において97年度の政策失敗を正式に認められたが、私はこの橋本会長の勇気には心からの敬意を表したい。自分の 間違いを率直に認めることはなかなかできないことである。失敗は成功の母である。失敗を恐れてはならない。失敗が悪いのではない。それを教訓として活かさ ないことが悪いのだ。だから、97年の政策失敗はせっかく橋本会長が勇気をもって認められたのだから、私たちはそれを活かさなければならないのである。
 日本経済長期低迷のひとつの原因は、97年の緊縮財政政策であったのである。97年の緊縮財政政策の結果、日本経済は文字通り撃墜されたのである。理想的な景気回復軌道は粉砕され、日本経済は戦後最悪の不況に突入したのである。
・ 98年7月に発足した小渕内閣は、まさに私などの思いを政策に移していただいて、「二頭を追うものは一頭も得ず」のキャッチフレーズの下、積極財政を展開 されたのである。景気回復を優先させ、その中で構造回復を思い切って進める方針を明確にされたのである。99年の政府投資はプラスに転じた。そして日本経 済はゆるやかながら浮上を開始した。日経平均株価は2万円を回復し、日本経済の先行きにほのかな光が見えたのである。このことは決して忘れてはならない。 小渕元会長はおっしゃっていた。「もう少しだ。もう少しで車は坂道の上にたどり着く。ここで手を抜けばまたぞろ車は坂道を転げ落ちていく。もう少しだ。」 平成研究会の人間はこのことをしっかりと覚えている。小渕内閣の積極財政がもう少し続けられていれば景気は回復していたと思う。
・ ところが、2000年4月に発足した森内閣はマクロ経済の方向をまたぞろ緊縮財政政策に転じてしまったのである。一般に森内閣は小渕内閣の政策路線を引き 継いで政府投資を拡大させたと理解されているが、これは完全に間違いである。97年以降で政府投資が増えたのは99年の1年だけである。2000年の政府 投資は7%減少した。これはものすごいブレーキだ。小渕元会長が亡くならなければこんなことにはならなかったと思う。 
 景気回復の兆しのあった97年と2000年に緊縮方向に政策が転換され、事態の悪化を招いているのである。典型的なストップ・アンド・ゴーの施策こそ、日本経済長期低迷の真の原因である。

(注1):森内閣の後、小泉内閣、安倍内閣、福田内閣と続くが、緊縮財政が続く。福田内閣のあと麻生内閣が誕生し、麻生内閣は経済成長路線に舵を切るが、残念ながら一年も立たないうちに解散に追い込まれ、自民党は民主党に政権の座を譲らざるを得なかった。民主党政権は「コンクリートから人へ」の合い言葉のもと、緊縮財政を続けて今日にいたっている。小渕内閣と麻生内閣のときに経済成長路線に舵を切るが、その他の内閣はおおむね緊縮財政を続けたと言ってよい。ストップの期間が長いのだが、まあ典型的なストップ・アンド・ゴーの施策が続いたと言ってよく、このことが日本経済長期低迷の原因である。今だに深刻なデフレ経済が続いている。

2、 財政悪化の原因
・ 現在の財政法には、いわゆる赤字国債の規定がない。つまり、現在の財政法にもとづいて建設国債は発行できるけれど、財政法にもとづいては赤字国債は発行で きない。財政法に規定されていない赤字国債というものは財政法の趣旨からいくと好ましくない。財政法に規定されていない赤字国債すら発行せざるをえない事 情というものは当然ある。ニーズのないところにやみくもに赤字公債を発行しているのではない。やむを終えない事情というものがある。しかし、赤字国債とい うものを発行するということは、財政法にのっとっていないという意味でやはり財政規律が乱れている証拠であるといわざるを得ない。国の財政運営というもの はやはり財政法という法律にもとづいてやるべきであり、私たちはこのことをしっかり認識しておく必要がある。さて、その赤字国債というものがはじめて発行 されたのは、昭和50年、三木内閣のときである。
・ 赤字国債の発行は三木内閣のときに始まり、福田内閣、大平内閣、鈴木内閣と赤字国債の発行が続いた。それら内閣の財政規律は、むちゃくちゃとは言わないけれど、やはり乱れていたと言わざるを得ない。
中曽根内閣になってやっと財政再建に取り組むことになる。 ここで大事なことは、中曽根内閣以降の財政再建は、赤字国債発行額の削減に焦点が当てら れており、ともかく赤字国債の累積拡大を食い止めようとしたのであって、建設国債は対象になっていなかったということである。竹下内閣のときも赤字国債の 大幅縮減がつづき、平成元年にはおおよそ財政再建のめどがたったのであるが、当時建設国債発行額の削減はほとんど行なわれていない。財政法にのっとった財 政再建が行われたということである。
・ 平成2年の予算というものは、一連の財政再建によって初めて赤字国債の発行がゼロになった特筆すべき予算であった。そして、平成2年からしばらく赤字国債 の発行額はゼロがつづく。つまりしばらくは財政規律が保たれていたのである。そして、再び財政規律が乱れて赤字国債の発行が始まるのは村山内閣のときであ る。村山内閣が誕生するのが平成5年6月。そのあと平成6年の概算要求が8月に始まるのだが、減税特例公債とか震災特例公債とか何とか理由をつけて、いわ ゆる赤字国債を再び発行することになる。
・ 赤字国債の発行が始まると財政規律は乱れっぱなしになる、それが歴史的教訓だ。歴史的教訓というのちょっとオーバーかもしれないが、私はまあそんなもんだ と思う。財政規律が乱れっぱなしで、ドンドン赤字国債の発行額が増えていく。平成6年、平成7年、平成8年、平成9年、平成10年、平成11年、ずっと赤 字公債はとめどなく増えていく。そしていよいよ平成11年度だ。平成11年度は赤字国債24兆3000億円。これは過去最高である。建設国債の倍近い額 だ。小渕内閣以降、平成10年度から平成14年度までの間、国債の発行額は約165兆円であるが、そのうち建設国債は約50兆円、赤字国債が約115兆円 である。建設国債の2倍以上の赤字国債が発行されている。平成14年度は遂に3倍を超えた。

(注2):平成24年度は、国債の発行額は約44兆円、そのうち建設国債が約6兆円、赤字国債が約38兆円である。建設国債は財政法で認められた国債であり、住宅ローンで家が財産として残るように、建設国債によって国の財産が殖える。若いうちに思い切って住宅ローンを借りてマイホームを建てた方が良いのとおなじように、国債金利の安いときには、おおいに建設国債を発行して国の財産を殖やした方が良い。建設国債は財政法で認められた良い国債なのである。一方、赤字国債は、財政法でも認められていないし、財産として何も残らない悪い国債である。今や、その良い国債である建設国債の6倍以上が、悪い国債である赤字国債になっている。これは由々しきことであって、もはや放置できないのではないか。

3、 公共事業に対する正しい認識
 日本経済が長期的低迷を続けている真の原因は、財政出動に効果がなくなったからではなく、財政政策が中途半端であったからである。ストップ・アンド・ゴーという財政運営の無節操ぶりが示すように、財政運営の混乱がここまで不況を長引かせているのである。
 また、財政再建に対する考え方にも混乱がある。歴史的な教訓として・・・中曽根内閣の財政再建に学ぶべきである。赤字体質をなおすためにはまず赤 字国債の削減を目指すべきである。国の累積債務が拡大する真の原因は、近年、社会保障予算が拡大を続けているからである。したがって、社会保障関係予算に 本格的なメスを入れないで公共事業の削減を真っ先に取り上げるのは間違っている。
 以上の問題については、財政上の問題であり、先に述べたとおりである。先に述べたように私はまずは財政運営について現状を承服できないのだが、実は、私の専門とする公共事業そのものについても、世の中の公共事業に対する誤解がはなはだしく、私はとても承服できない。
 公共事業というものは、本来、長期的視野にたって、国土政策との関係で進められるべきものである。ひとことで国土政策との関連といっても、社会政 策的な視点、経済的な視点、環境的な視点等々総合的に考えねばならないので、なかなかむつかしいのだが、公共事業というものは、本来、長期的視野にたっ て、国土政策との関係で進められなければならない。したがって、当初予算でそういう長期的視野にたっての予算が組まれるべきは当然として、公共事業に関す る抜本的な見直しには国民的な議論が必要であるし、それなりの時間がかかる。もちろん時間がかかってもそれをやらないといけないのだが、補正予算について は到底間に合わない。したがって、補正予算では、いわゆる乗数効果の観点から公共事業の中味にある程度の注文はつけるとしても、極端なことを言えば、無駄 があってもやれるところをやればいい。ケインズの経済学はまだ死んでいないと思う。次にこの点をとり上げる。
  今私は、いわゆる乗数効果の観点から公共事業の中味にある程度の注文はつけるとしても・・云々・・と述べたが、確かに、いわゆる従来型の公共事業を中心と した景気対策には反対論者が多い。しかし、問題は、その反対論者が財政出動による需要創出そのものを否定しているのか・・・・・それとも財政出動による需 要創出は必要だが公共事業はダメと考えているのか・・・・ということだ。前者の問題について先に述べた。多くの人が財政出動は必要だが公共事業はダメだと 考えているようなので、ここでは、ケインズ経済学の再確認みたいなことになるかもしれないが、後者の問題について触れておきたい。以下は植草一秀著の「現 代日本経済政策論(岩波書店、2001年9月)」からの抜粋である。
 日本経済長期低迷について真の責めを負うべき、誤った政策を提唱した人びとが、その自らの失敗の責任を隠蔽するために、事実とかけ離れた「風説」 を流布している。「景気対策は短期では有効だが中期では効果は乏しく、財政収支悪化と資源配分上のロスを拡大させるから有害である」と唱える。景気抑制策 の実行によって生じた2000年から2001年にかけての株価下落、景気悪化について、「森政権が積極財政、バラマキ財政を進めたために生じた事態」との 主張が登場するにおよんでは、経済分析を専門としている同分野の研究者として、開いた口がふさがらない思いを持つ。
 財政支出の効率化は無論のこと重要な課題だ。だが、これと財政の景気安定化機能とは切り離して考える必要がある。(中略)・・・極端なことを言えば、若干の無駄に目をつぶってでも景気安定化を優先しなければならないケースも考えうる。
 経済が安定成長軌道に移行した段階で、5年程度の時間をかけて財政支出構造改革を進めていくべきである。どのような状態を経済が安定成長軌道に移 行した段階と捉えるべきか。筆者は、2000年代初頭の日本経済を対称として考えるなら、「2%以上の経済成長を2年連続で達成したことが確認できた段 階」と判断している。この状況が確保された段階で、第二段階、すなわち抜本的な支出構造改革に移行すべきと考える。
 (中略)・・・安定的な経済成長軌道が確保できた段階では、支出構造の全面的な見直しを強力に推進すべきだ。無論、可能であるなら支出内容の見直 しはそれ以前から進めるべきだ。だが、支出内容の見直しが、傾向として緊縮財政につながりやすかった過去の経緯を踏まえ、第一段階はあくまでも、景気回復 実現に高い優先順位を付与すべきことを強調しておきたい。支出構造の見直しにおいて、筆者はとりわけ四分野の徹底見直しが重要と考える。一般行政経費、公 共事業経費、特殊法人・公益法人改革、社会保障財政の四分野だ。
 以上は植草一秀の主張だが、ほとんど私の考えと同じだ。提言(案)では、短期的課題として「公共事業の優先順位の見直し」を謳っているが、短期的にはやはり小渕元総理の路線に早く戻るべきである。
 補正予算では、いわゆる乗数効果の観点から公共事業の中味にある程度の注文はつけるとしても、極端なことを言えば、無駄があってもやれるところをやればいい。
 もちろん、中長期的には公共事業の抜本的な見直しが必要である。しかし、公共事業に関する抜本的な見直しには国民的な議論が必要であるし、それな りの時間がかかる。国土のグランドデザインはもちろんのこと社会保障関係予算や公共事業の新しい分野PFIなども当然視野に入れての・・・総合的な検討作 業になるはずである。まずは国土政策の議論から始めなければなるまい。

                                                   以上

 

2011年1月16日 (日)

ヘーゲルの「ネーション」について

ヘーゲルの「ネーション」について

私は、先に、『ところで、「ネーション」とは何か? 「ネーション」そのものについての分析は、ヘーゲルも柄谷行人も不充分である。』と言った。私は、柄谷行人とは異なって、リアリズムの立場から、ヘーゲルの資本=国家=ネーションというトリニティ構造は、世界において未来永劫変わらない姿だと考えている。カントの「超越論的仮象」(世界共和国)を否定する訳ではないし、「諸国家間連邦」という具体的な理想も否定する訳ではない。また、柄谷行人のいう労働者を中心とした「アソシエーション運動」を否定する気もさらさらない。しかし、現実の政治を考えた時、リアリズムの立場から、何よりも大事なのは、ヘーゲルの「ネーション」の再生を図ることだと考えている。つまり、今、急がなければならないのは、「コミュニタリズム」の完成である。私の尊敬するマイケル・サンデルを意識し私なりの提案をしたいのである。私の提案をヒントにし、サンデルには是非「コミュニタリズム」の完成を図ってもらいたい・・・と願うばかりである。

柄谷行人の著書「トランスクリティーク」や「世界史の構造」を見てもヘーゲルの「ネーション」は、国民のことを言っているのか、農業共同体のようなものを言っているのか、はたまた民族のことを言っているのか、判然としない。「トランスクリティーク」から関係部分をピックアップしておきたい、
『国家、資本、ネーションは、封建時代においては、明瞭に区別されていた。すなわち、封建国家(領主、王、皇帝)、都市、農業共同体である。それらは異なった「交換」の原理に基づいている。(p30)』(私のメモ:国家、資本、ネーションを「交換」の原理から説明したのは柄谷行人の功績である。これこそこれからあるべき世界構造を解く鍵である。)
『それまで、自律的に自給自足的であった各農業共同体は、貨幣経済の浸透によって解体されるとともに、その共同性(相互扶助や互酬性)を、ネーション(民族)の中に想像的に回復したのである。ネーションは、悟性的な(ホッブス的)国家と違って、農業共同体に根ざす相互扶助的「感情」に基盤をおいている。(p31)』
『近代国家は、資本=ネーション=ステートと呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。たとえば、各人が経済的に自由勝手に振る舞い、そのことが経済的な不平等と階級的対立に帰着すれば、それをネーション(国民)としての相互扶助的な感情によって打ち消し、国家によって規制し富を再配分する。』
『資本主義のグローバリゼーション(新自由主義)によって、各国の経済が圧迫されると、国家による保護(再分配)を求め、またナショナルな文化的同一性や地域経済の保護といったものに向かう。資本への対抗が、同時に国家とネーション(共同体)への対抗でなければならない理由がここにある。』

その時の文脈でネーションを農業共同体のようなものとして使ったり、民族という意味で使ったり、はたまた国民や共同体という意味で使ったりするのはやむを得ないと思う。それはそれで良いのだが、「ネーション」の定義が柄谷行人の著書ではかならずしも明確ではない。それでは、コミュニタリズムを完成するのに、誠に不便であるので、私は「ネーション」を次のように定義しておきたい。
「ネーション」:心の繋がりを基盤として互酬的交換が行なわれている地域社会。

心の繋がりを基盤にしているということは、トリニティ構造の「第3の軸」(心の軸)に関係しているということを明確しておきたいということである。
互酬的交換が行なわれているということは、ただ単に、盆暮れの贈与やチョコレートやり取りや宗教団体に対するお布施、あるいは現在見られる「手間返しのような地域通貨」が行なわれているというだけでなく、最低限の生活ができる「地域通貨」が普及していることを意図している。ミヒャエル・エンデの「エンデの遺言」が出版されてから雨後のタケノコのように出てきた「地域通貨」は、「手間返しのような地域通貨」であって、ほんまものの「通貨」にはほど遠い。ほんまものの「地域通貨」は、野菜などの生活用品が買えて、それで最低限の生活ができるものでなければならない。
また、地域社会ということは、日常生活圏ということであって、そこにはいろんな人が合理と非合理の中で、つまり日常的な矛盾システムの中で人々が生きていることを私は想像している。人間というものは、理性的な動物ではなく、理性も含むが、複雑な関係性の中で、基本的には「感性」に生きているのである。人々の生き様というものはそういうものである。そして、人々の生き様がしみ込んだものが「風土」であって、「風土」とは「場所」にくっついており、歴史的なおもむきと自然のおもむきから出来上がっている。理性とは直接関係がない。「地域」とは「場所」であり「風土」である。「地域社会」にはそういう含意があり、これを忘れてはならない。

これは柄谷行人の慧眼によるのだが、柄谷行人は、「ネーション」は互酬的交換が行なわれる前に出来上がっているのではなく、互酬的交換が行なわれることによって、「ネーション」が形成されていくのだと言っている。正にそうであろう。私は、今「資本」の力によって消滅しているようにみえる、ヘーゲルの「ネーション」を復活するためには、互酬的交換(交換様式D)である「地域通貨」の普及が不可欠だと考える次第である。これがないとコミュニタリズムとしての「正義論」は完成しない。
なお、コミュニタリズムとしての「正義論」を完成するためには、「ネーション」の他に、もう一つ大事な点がある。そもそも人間というものをどう見るかということである。既に述べたところであるが、「ネーション」について書いたこの際に、念のために再掲しておきたい。
・・・・・・・・・・
問題は、戦争に関する認識だ。ロールズは、戦争に関するいくつかの原理を導いて、地獄のような戦争を一刻でも早く終わらせるためならどんな手段でも選んでもよいとする考えに反対し、広島への原爆投下を厳しく批判した。「人間を合理的な動物」と考えるからこそ、そういう結論になるのであって、そもそも人間をどう認識するかが大問題である。人間は合理と非合理の間、つまり矛盾システムを生きており、合理的な社会を前提におくことに無理がある。
「人間を合理的な動物」と考えるのは間違いだと思う。新進気鋭の哲学者・マーク・ローランズもそう言っている(哲学者とオオカミ、2010年4月、白水社)が、私も、多くの人々は合理的な思考ができないと考えている。人々ができるのは、仲間を意識することぐらいのものだけだ。もちろん、 自分に敵対しない他者、自分にすり寄る他者、弱い他者に対する憐憫の情はある。しかし、中心は仲間意識である。
原爆投下の問題に関して、マイケル・サンデルも明確な答えはもっていない。当然だろう。コミュニタリアンとしては、原爆投下やむなしの結論しかでないだろうし、かといって、ロールズの「自由主義」に批判的である以上、ロールズの考えに従う訳にもいかない。この点、 マイケル・サンデルはどう考えているのだろうか? 是非、教えてもらいたいと思うが、 とりあえず私としては、「人間を合理的な動物」とするロールズの考えが間違いだと言っておきたい。

2011年1月11日 (火)

「ネーション」という第3の軸(心の軸)について

「ネーション」という第3の軸(心の軸)について

私は先に、『資本=国家=ネーションという「トリニティ構造」について』書いた。フランス革命のときに唱えられた自由=平等=友愛において、・・・・自由は資本に相当し第1の軸(過剰性の軸、人間の身体的欲望に関する軸)、・・・平等は国家に相当し第2の軸(放射性の軸、ロールズの格差原理に関係する軸)、・・・ネーションは友愛に相当し第3の軸「共和軸」(心の軸、精神軸、人間の生命的欲望に関する軸)のこと、つまり「魂の自由」に関する軸のことである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sekai05.html

短い文章であるので、以下に全文再掲しておきたい。

中沢新一は、先に紹介したように、「狩猟と編み籠」の中で、
『 人類の論理的に思考する能力は、<過剰性や放射性や増殖性をはらんだもの>を理解しようとするときには、必ずと言っていいほどに、「トリニティ=三位一体」的なモデルを利用しようとします。木を木と言い、山を山と言い、水を水と言い、この世界のあらゆるものを記号的な意味情報として伝えようとするときには、二元論のモデルで十分です。じっさい一切のものごとを情報化して記憶・計算・伝達するコンピューターは、0と1との二元論ですべての情報処理をすませています。
ところが、木がただの木ではなくなって、なにか詩的な意味を含蓄するようになるときには、それではすまなくなります。「意味」の平面から過剰しあふれ出してくる「価値」の問題が、発生するからです。意味平面を垂直的に横断していく第三の力を考えにいれなければ、価値の問題は思考不可能です。そのために、詩学は、言語学と違って、増殖を本質とする価値なるものを理解に組み込むためには、三元論のモデルを採用することになります。』・・・・と述べている。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sekai02.html

私は、ここで、過剰性とは人間の欲望によって「資本」が増えつづけて過剰となる状態を意味していると理解し、放射性とは資本の過剰からさまざまな「平等」の問題が発生してくる状態を意味していると理解している。そこで二元論的に、縦軸に「自由」と「不自由」をとり、横軸に「平等」と「不平等」をとれば通常の社会状態はその四つの象限上に表現できるであろう。かかる観点から、中沢新一はその平面を「意味平面」と名付けている。
しかし、中沢新一が言うように、「魂」の問題は扱えない。見田宗介が著書「社会学入門・・・人間と社会の未来」(2006年4月、岩波新書)で指摘しているように、政治哲学の上で、「魂の自由」は極めて重要な問題だ。「シーザーのものはシーザーに。」という訳だ。「魂の自由」を取り扱うためには、ネーション(民族)、私流に言えば「地域コミュニティ」ということになるのだが、それらに関わる「意味平面」に垂直な第三の軸を考えねばならない。すなわち、ヘーゲルの社会に関する「トリニティ構造」において、ネーション(民族)や「地域コミュニティ」の問題は、「魂の自由」に関する軸を考えないと問題を解くことは難しい。「魂の自由」の問題は「グノーシス」でないと解けないのである。
私は、ここに、「意味平面」に垂直な第三の軸、つまり「魂の自由」に関する軸に「恊和」と「不協和」をとることを提案したい。「音楽」というか「リズム」にちなみ、これを称して「恊和軸」という。「音楽」については中沢新一の「文化人類学」を頭に浮かべて欲しいし、「リズム」については中村雄二郎の「リズム論」を頭に浮かべて欲しい。



また、私は先に、「グノーシス」について書いた。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sekai03.html

これも短い文章であるので、以下に全文再掲しておきたい。

私は先に述べたように、

柄谷行人は、先に紹介した『トランスクリティーク…カントとマルクス』の「あとがき」において、
「私の考えでは,資本・ネーション・国家を相互連関的体系においてとらえたのは,『法の哲学』におけるヘーゲルである。それはまた,フランス革命で唱えられた自由・平等・友愛を統合するものでもある。ヘーゲルは,感性的段階として,市民社会あるいは市場経済の中に「自由」を見出すつぎに,悟性的段階として,そのような市場経済がもたらす富の不平等や諸矛盾を是正して「平等」を実現するものとして,国家=官僚を見出す。最後に理性的段階として,「友愛」をネーションに見出す.ヘーゲルはどの契機をも斥けることなく,資本=ネーション=国家を,三位一体的な体系として弁証法的に把握したのである。」・・・と述べているが、

理性的段階という言い方は適当でない。

私は、彼のいう「友愛」は、鳩山一郎や鳩山由紀夫のいう社会主義的な「友愛」ではなく・・・、ミヒャエル・エンデのいう自由主義的な「友愛」』と理解し、あえて『(ヘーゲルの)理性的段階という言い方は適当でない』ということだけを強調しているのだが、このことを説明するには、まず「グノーシス」ということについて十分な理解をしておく必要がある。

「グノーシス」については、中沢新一が著書「ミクロコスモス1」(2007年4月、四季社)の」中で詳しく述べているので、皆さんには是非それを読んでいただきたいが、話を続けるために、ここではそのよう点のみ紹介しておきたい。

中沢新一は「ミクロコスモス」の中で次のように言っている。すなわち、

『 プラトンの哲学は、アジアから襲来した一神教の萌芽をはらんだディオニソス祭儀がもたらした衝撃を、内部に包み込み、吸収しつくすことによって、ギリシャ的な伝統に新しい形態の同質性を回復するものとして、創造されている。当時の言い方を使えば、「文明」の中枢部を直撃した「野蛮」のテロリズムを、自分の内部に呑み込み変質させることによって、「野蛮」の「文明化」を実現してみせたということになる。この思想的創造は「文明」と「野蛮」のフロンティアでおこなわれた。一時は「野蛮」の勢力がギリシャ世界深く食い込んできたのであるが、それを内部に深く取り入れて見えなくすることによって、プラトン哲学は両者のフロンティアを一瞬見えないものにさせる力を持っていた。フロンティアが見かけ上消失したのである。そして表面には「文明」しか見えなくなった。つまり、このとき一瞬、「文明」が普遍的であるかのような事態がつくりだされたわけであり、こののちプラトン哲学が「ヨーロッパ」の普遍性の哲学的表現のように扱われるようになった理由の一つは、そのあたりにもある。
しかし、現実に目を移せば、「文明」と「野蛮」のフロンティアのこちら側には「文明」の勢力が蟠踞しているが、向こう側には「野蛮」が対峙しているのである。となれば、「文明」的な社会集団にとっての有機的知識人が形成されるのと同じようにして、「野蛮」な社会集団の中からも、その社会集団の同質性と機能の意義を表現しようとする有機的知識人が生まれてもおかしくないはずである。そのときには、「野蛮」な社会集団出身の「有機的知識人」のつくりだす哲学や文学や芸術は、プラトンが「文明」の側から創造した哲学とは、根本的に異質な構造として構築されることになるのではないか。それは「野蛮」を「文明化」しようとする趨勢に対立して、「野蛮による文明」を構築しようと試みる筈であり、そこからはプラトンがつくりだそうとしたものとは異質な「魂の構造」が生み出されてくるに違いない…・そのような構造に対して与えられた名前、それが「グノーシス」である。』・・・と。

ここで注意すべきは「野蛮」という言葉である。中沢新一は、レビヴィ=ストロースの「野生の思考」を念頭において「野蛮」という言葉を使っている。彼は、「野生の思考」は、芸術と科学のたぐいまれな結合を可能にする「21世紀の知性」だと考えている。それを私流にいえば、「違いを認める文化」と「わび・さび文化」を支える日本人の感性ということになる。

以上で、私の言いたいことは、ヘーゲルの「ネーション」は、私の「共和軸」、すなわち「心にかかわる第3の軸」に関係する、すなわちそれは「感性」に関係し、『(ヘーゲルの)理性的段階という言い方は適当でない』・・・ということである。

では、ヘーゲルの「ネーション」は、具体的に、どのようなものを想定すればいいのか?  私は、政治哲学、すなわちリアリズムの上に立った「正義論」において、コミュニタリズムの「地域コミュニティ」こそヘーゲルの「ネーション」だと言いたいのである。それでは次回にそのことを説明したい。

2011年1月 1日 (土)

ヘーゲルの「カント批判」について

ヘーゲルの「カント批判」について

私は先に、「カントの交換的正義(交換様式D)の実現に向けて」という題でカントの「諸国家間連邦」に触れ、そこで次のように述べた。すなわち、
・・・・・・・・・・・・
『柄谷行人の説明によれば、カントの「世界共和国」は、交換様式Dが世界的に実現されるような「超越論的仮象」である。架空のものである。神の世界のようなものかもしれない。しかし、私たちは、それなくしてはやっていけないということらしい。
交換様式Dが世界的に実現されるような「世界共和国」を唱える声はたしかに小さい。「世界共和国」なんてものが実現されることは多分ないであろう。しかし、柄谷行人によれば、カントは、現実的な策として「諸国家連邦」というものを考えていたようで、「諸国家連邦」であれば、世界はその方向に動いていると考え得るかもしれないという訳だ。』
『私は思う。カントのが言うように、交換様式Dが世界的に実現されるような「諸国家間連邦」という理想を頭に描きながら、少しずつでもその方向に向かうべきかもしれない。しかし、その目的が、交換様式Dの実現にあるのなら、浜矩子がいうように、現実かつ緊急課題として「地域通貨」の実現を図るべきである。
私は「諸国家間連邦」というような大きな世界ではなく、「地域コミュニティ」というような小さな世界において、交換様式Dの実現を目指すべきと考える次第である。』・・・・と。

ここで私の考えを補強する意味で、ヘーゲルのカント批判を紹介しておきたい。
柄谷行人の「世界史の構造」(2010年6月、岩波書店)によれば(p452)、ヘーゲルはつぎのようにカントを批判した。
『カント構想の批判・・・・諸々の国家のあいだには最高法官などおらず、せいぜい調停者か仲介者がいるだけである。しかも、これすら、偶然の成り行きで、特殊な意思任せでしかない。カントは国家連盟による永遠の平和を表象した。国家連盟はあらゆる抗争を調停し、個々の諸国家それぞれから承認を受けた一権能として、すべての反目を鎮め、こうして戦争による決着を不可能にならしめる、というのである。だが、こうした表象は諸国家の合意を前提にしている。この合意は、宗教的、道徳的、あるいはその他のどんな根拠や側面においてにせよ、総じていつも特殊な主権的意思に基づいてきたし、まただからいつも偶然性がまとわりついているにも拘らず、である。
[原注]理想論として考えるかぎり、私たちはカントの構想などのほうにより大きな親近感を示すに相違ない。けれども、現代にいたるまでリアリスティックに考えるなら、こうした事態のほうが歴史の示した現実であった。そして、私たちはこうしたリアリズムを踏まえたうえで今後の世界を考えていかねばならないだろう。』・・・と。

私は、ヘーゲルの「リアリズム」についてはまったく同感である。私は、カントの「 超越論的仮象」(諸国家間連邦)を肯定しつつも、ヘーゲルの「リアリズム」に立たないと、現実の政治はやっていけないと思う。現実の政治を動かす「政治哲学」(正義論)は、リアリスティックでなければならない。私としては、ロールズを超えて、コミュニタリズムを完成しなければならない。その第一歩はヘーゲルのリアリズムに立つことである。
ヘーゲルは、資本=国家=ネーションというトリニティ構造を言い出した。これは彼の大きな功績である。しかし、これについては、やや足らぬところがあって、かって、私は中沢新一の考えに従って然るべき補強をしておいた。また、ヘーゲルは、資本と国家とネーションを交換様式によってその違いを明らかにできなかった。資本と国家とネーションを交換様式によってその違いを明らかにしたのは、柄谷行人の功績である。
ところで、「ネーション」とは何か? 「ネーション」そのものについての分析は、ヘーゲルも柄谷行人も不充分である。ヘーゲルも柄谷行人も、「心」の問題というか「感性」というものについての認識が不充分である。次に、この点について私の考えを述べることとしたい。


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