文化・芸術

2017年5月30日 (火)

天山(その5)

天山(その5)
はじめに(その5)

トルファンは、カレーズのお陰でいたるところで葡萄棚がある。しかし、葡萄については、トルファンに「葡萄溝」というところがあり、素晴らしい観光名所となっている。しかし、「葡萄溝」の水は、カレーズの水というより、谷川の水である。「葡萄溝」は灼熱の山「火焔山」の峡谷にあるが、その峡谷になぜ清冽な水の流れる谷川が存在するのか?
第5章「葡萄溝」では、「葡萄溝」という観光スポットを紹介すると同時に「葡萄溝」の谷川の謎の説明をすることとした。



2017年5月29日 (月)

天山(その4)

天山(その4)
はじめに(その4)

天山山脈の氷河は、「氷河マリモ」に力で猛烈な勢いで溶けて伏流水となって地下を流れていく。それをトルファンではカレーズという地下トンネルで町に導いている。その数と総延長は半端な数ではない。そのような歴史的な知恵によって、トルファンは素晴らしい「水と緑」の町になっている。第4章は「トルファンとカレーズ」とし、それらの紹介をした。



2017年5月28日 (日)

天山(その3)

天山(その3)
はじめに(その3)

2016年2月に放送されたBSフジの特別番組は、『日中共同制作 天山を往く~氷河の恵み シルクロード物語~』というテーマだったが、その核心部分「天山」とはどのような山脈なのか? また、氷河の恵みとは何なのか? それらのことを放送にしたがって勉強することにし、その成果を第3章「天山について」で紹介することとした。放送では、天山第一氷河を取り上げ、そこに生息する「氷河マリモ」という不思議な微生物のことを取り上げているが、そもそも天山第一氷河は天山山脈の何処にあり、そもそも「氷河マリモ」とはどのような微生物なのか、第3章「天山について」ではその点を詳しく説明することとした。さらに、天山山脈には 世界遺産「新疆天山」があるので、その説明をすることとした。第3章を読んでいただければ「天山」について詳しく理解することができるであろう。



天山(その2)

天山(その2)
はじめに(その2)

第1章で書いたシルクロードは、全体の中の一部分であり、新疆ウィグル自治区に限ったものであるが、そもそも新疆ウィグル自治区とはどういうところなのか? 中国の最西部に位置しているが、産業はどうなっており、交通はどうなっているのか、また首府であるウルムチという大都市はどのような都市であるのか? それら勉強し、第2章は「新疆ウィグル自治区について」とした。



2017年5月26日 (金)

天山(その1)

天山(その1)
はじめに(その1)

この「シルクロードと天山について」というエッセイは、 2016年2月に放送されたBSフジの特別番組の放送が契機となって書いたものである。放送はウルムチの紹介から始まったが、私は、まずウルムチという都市が高層ビルの立ち並ぶ近代的な大都市であることに驚いた。

そして、放送では、「シルクロードは、天山山脈がなければ存在し得なかった」と言っていたが、私は、天山山脈付近のシルクロードについては詳しいことはほとんど知らなかったので、このエッセイを書くについてその辺の勉強から始めることとした。シルクロードと天山山脈との位置関係、シルクロードと日本との文化的関係を勉強し、明治というやっと日本が近代的な道を歩み始めたその時期に、大谷探検隊がこの地を探検していること知っていたので、それも含めて第1章は「シルロードについて」とした。

2017年5月24日 (水)

火祭り公2(その5)

火祭り考2(その5)

「現在、全国さまざまな地域で「火祭り」が行われているが、日本の三大火祭りといえば、通常、玉垂宮の鬼夜(福岡)と野沢の火祭り(長野)と那智の火祭り(和歌山)であろう。」と今回の論考「火祭り行2」の冒頭に書き、これまで、それら三大火祭りについての論考を進めてきたが、その補筆として第5章で「嵯峨釈迦堂の火祭り」を紹介することとしたい。嵯峨釈迦堂の火祭りを日本三大火祭りに挙げる人もいるからだ。

まず、嵯峨釈迦堂の火祭り「お松明」の様子をご覧いただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=wquPOfPowdc

嵯峨釈迦堂というのは、通称の呼び名であって、正式には清涼寺という。

 この寺の歴史には、阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺という2つの寺院が関係している。この地には、もともと、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822年 - 895年)の別荘・栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる寛平8年(896年)、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。その後天慶8年(945年)に、重明親王妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。一説では、「釈迦堂」の名の起こりはこの時であるという。

 棲霞寺草創から数十年後、当時の中国・宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然(ちょうねん)という東大寺出身の僧がいた。奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教の都における中心地としようとしたものと思われる。すなわち、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとした、という意図が込められていたとされる。しかし、延暦寺の反対にあい、その願いを達しないまま長和5年(1016年)、奝然は没した。かれの遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺である。

嵯峨釈迦堂の「お松明」は涅槃会として行われる。涅槃会(ねはんえ)は、涅槃講や涅槃忌とも称し、陰暦2月15日、釈迦の入滅(にゅうめつ)の日に、日本や中国などで勤修される、釈迦の遺徳追慕と報恩のための法要である。通常、本堂に大きな涅槃図が掲げられる。
嵯峨釈迦堂の涅槃会でも本堂に大きな涅槃図が掲げられる。これは全国各地で行われている涅槃会と全く同じである。しかし、全国各地で行われている涅槃会で、嵯峨釈迦堂の「お松明」のような火祭りをやっているところはどこもない。嵯峨釈迦堂が特殊なのである。

では、なぜ嵯峨釈迦堂だけが「お松明」というような火祭りをやるようになったのだろうか?

嵯峨釈迦堂を建立した盛算(じょうさん)が考えたとして、当時すでに近くに嵯峨薬師堂や福生寺があったので、それらにおける行事に火祭りを思いつく何か要素があったのだろうか? いろいろ調べたが嵯峨薬師堂や福生寺の行事には、何ら「たいまつ」の要素はないのである。

したがって、盛算(じょうさん)が「お松明」という火祭りを思いついた、そのヒントとなるものは、中国での見聞にしかないのではなかろうか。 奝然(ちょうねん)と弟子の盛算(じょうさん)らは、 台州に到着後、 天台山を巡礼したあと、蘇州・楊州などの大都会を経て、宋の首都・開封に到着した。しかし、それらの地方に「たいまつ」を燃やすような祭はなかった。もしあったとしたれ、何らかの形で現在に伝わっているはずであるが、現在、そのような名残はまったく見られない。
彼らは、3年間、中国に滞在し、仏教の四大聖地を巡礼した筈である。中国の仏教の四大聖地とは、 五台山(文殊菩薩)、 峨眉山(普賢菩薩)、 九華山(地蔵菩薩)、 普陀山(観音菩薩)である。そのうち峨眉山は四川省にあり、四川省では、いくつかの都市で、現在、「たいまつ祭」が行われている

奝然(ちょうねん)と弟子の 盛算(じょうさん)らは、中国の滞在期間中に、四川省の峨眉山にも巡礼し、その途中でどこかの都市で「たいまつ祭」を見聞し、 盛算(じょうさん)は、嵯峨釈迦堂を建立したときに、「お松明」を通常の涅槃会に付け加えたのではなかろうか。

私は、 嵯峨釈迦堂の「お松明」の起源は、中国四川省の少数民族の「たいまつ祭」にあると思う

以上のより詳しい内容は、次の論考・ 第5章『嵯峨釈迦堂の「お松明」』 をご覧いただきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hima05.pdf


2017年5月21日 (日)

火祭り考2(その4)

火祭り考2(その4)

「現在、全国さまざまな地域で「火祭り」が行われているが、日本の三大火祭りといえば、通常、玉垂宮の鬼夜(福岡)と野沢の火祭り(長野)と那智の火祭り(和歌山)であろう。」と今回の論考「火祭り行2」の冒頭に書き、これまで、それら三大火祭りについての論考を進めてきたが、その補筆として第4章として「向田の火祭」を紹介することとしたい。「向田の火祭」を日本三大火祭りに挙げる人もいるからだ。



まず、その様子をご覧いただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=0rU97CEnYcQ

能登半島の七尾湾に浮かぶ緑の島・能登島は、夢の架け橋であった美しい能登島大橋の実現によって、長い間の離島の生活とともに、不便な僻地とも異なる新しい生活が始まった。その島の向田の150戸の人々にとって、毎年7月の最終土曜日の夜に行われる延喜式内社・伊夜比咩神社の火祭は、村人挙げて大行事である。

能登島は、供述したように、古くは良質の材木が産する地で、 伊夜比咩神社の大屋津姫命(オオヤツヒメ) が、船材を伐り出すことを教えたと言われている。万葉集には、越中の国司として在職した大作家持の歌「とぶさ立て舟木伐るという能登の島山今日みれば木立繁しも幾代神びそ」があり、能登島の様子が歌われているが、当時は確かに能登島で船材が伐り出されたようだ。

日本海に翡翠の道があり、朝鮮半島との交易があり、能登島がその拠点になっていたものと思われる。事実、縄文時代の遺跡のほか能登島には多くの古墳がある。

伊夜比咩神社の創建は時代が不明とされているが、古墳時代もしくは大友家持の時代(奈良時代)に建立されたに違いない。神社は神に祈るところである。必ず祭神が祀られ、それなりの神事が行われる。いつとはなしに現在のような火祭りが神事の一つとして行われるようになった。「柱松」という神事である。

「柱松」については、小畑紘一という人の研究がある。それが始まった時期については触れられていないが、その論文を読むと、「柱松」についてはいろいろな種類のものがあり、修験道由来のものもあるが日本古来のものもあるようだ。

向田の火祭りは、「柱松」の神事であり、日本古来のものである。

小畑紘一さんは、『  柱の素となる材料は俗の存在であるが、 これが清めの儀礼などを経て神霊が憑依した霊力のある聖なる柱に変化すると人々は信じ る。この結果柱は、天と地を結ぶ道となり、供養、祈願、感謝などと言った祭りの目的を天 に届けることが出来る存在になったと見做されるのである。柱は、祭り後燃やされ、或は倒 されて「俗」に戻る。』・・・と言っているが、私は、確かに、「柱松」の柱は、天の神と地の神とを繋ぐ通い道であると思う。

以上のより詳しい内容は、次の論考・ 第4章「能登島向田の火祭り」 をご覧いただきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hima04.pdf




2017年5月18日 (木)

火祭り考2(その3)

火祭り考2(その3)

まず最初に、那智の火祭りの様子を見ていただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=E1K1XY1topQ

那智の火祭りは、熊野の12の神々が第一から第十二の扇神輿に乗って、年に一度、那智の滝に里帰りする神事。日本一の落差(133m)を誇る那智の滝の前で、燃え盛るたいまつを手に練り歩く、勇壮な火祭である。

扇神輿とは、一般的な神輿とはまったく違って、縦長の大きな旗のようなものである。扇神輿の特徴である扇は金地に朱で日の丸が描かれたもので、一体につき30面が取り付けられ、それら30面の他に半開きの2面を取り付ける。なぜこのような神輿が使われるのか、その謂れを知るには熊野信仰のことを深く理解せねばならない。

現在の熊野信仰は、熊野三所権現に対する信仰であって、始まったのは飛鳥時代の後だが、平安時代に盛んになった。しかし、熊野三所権現の名は、すべて記紀の神であり、記紀の神は後年の後付けだから、結局、熊野三所権現の元宮の様子は判らない。

しかし、熊野速玉大社の磐座信仰ははっきりしているし、熊野本宮大社についても、その奥の院・玉置神社の元は十津川村の磐座だというので、磐座信仰があったことは確かである。その時期ははっきりしないが、磐座信仰というのは、庶民の信仰というより、集落の長など権力者の信仰であると思われるので、弥生時代か古墳時代の頃ではなかろうかと思われる。おそらく縄文時代までは遡らない。 そう思うのは、縄文時代は、石棒信仰の時代と思われるからだ。

磐座信仰に続いてシラ信仰がある。シラ信仰とは、磐座信仰の変身である。神の名はない。熊野にはシラ信仰の痕跡は残っていないが、全国的な研究からシラ信仰があったと言われている

その後、固有名詞を持った神が出てくる。その名は、その土地の生活に基づく信仰の実態からくる。熊野三山では八咫烏である。その時期は飛鳥時代より古いと思われるが、おそらく磐座信仰の時代より遡らない。

石棒信仰、磐座信仰、シラ信仰、八咫烏信仰、熊野信仰と並べたとき、それらはおおむね縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良時代、平安時代と時代区分できればいいのだが、そうはいかない。石棒信仰、磐座信仰、シラ信仰、八咫烏信仰、熊野信仰の歴史的時期については、ほとんど判らないのである。これは何も熊野に限ってのことではない。全国どこでもそうなのだ。

この第3章は、那智の火祭りについて、その主役である松明の火のルーツを探ろうとするものである。ひょっとしたら、そのルーツは、那智の火祭りの前の信仰、八咫烏信仰、シラ信仰、磐座信仰にあるのかもしれないと思い、熊野信仰の歴史を調べてきた。しかし、それら熊野の古代信仰の中に火の要素はなかった。したがって、那智の火祭りの松明は、那智の火祭りが始めた人たちが考え出したものに違いない。その人たちというのは、修験行者である。すなわち、那智の火祭りの松明の起源は、修験道の儀式の中にあるに違いない。

那智の火祭りを考え出した修験者がどの系統の修験者であったにしろ、護摩供養の儀式が身についていたと考えて良い。

那智の滝のハイライトは、扇神輿が大門坂(飛龍参道)を下るところにある。すなわち、神々はその扇神輿に乗って那智の滝のところまで渡御されるのである。その渡御の道は清められなければならない。どうすればいいか? 修験者は考えたと思う。火だ!清めの火だ。その参道で護摩供養をするわけにはいかない。だとすれば松明を使おう。修験者はきっとそう考えたに違いない。これは私の推理にしか過ぎないが、いろいろと調べた挙句、他に、修験者と松明を結びつける根拠が見つからないので、そう考えざるをえない。

那智の火祭りの松明の起源は、修験道の護摩供養にある。言うなれば、修験道の護摩供養の変形が那智の火祭りだ。

以上のより詳しい内容は、次の論考・ 第3章「那智の火祭り」 をご覧いただきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hima03.pdf



2017年5月15日 (月)

火祭り考2(その2)

火祭り考2(その2)

まず最初に、玉垂宮の鬼夜の様子を見ていただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=bK6dNAHS6AM

玉垂宮の鬼夜は、1月7日に福岡県久留米市大善寺玉垂宮で行われる。国の重要無形民族文化財で、日本三大火祭りの一つである。新年の邪気を払う追儺(ついな)の夜祭りとして知られる鬼夜は、大晦日の夜から1月7日までの鬼会神事の最終日の夜に行われる。
そもそも追儺(ついな)とは、どんな祭りであろうか。現在、全国的にどのような神社やお寺で行われているのか、それをまず見てみよう。代表的なものは次のようなものである。

勝福寺の追儺式(追儺会式):http://seiyo39.exblog.jp/17565792/

長田神社で追儺式:https://www.youtube.com/watch?v=BBQO0wcgK2M

興福寺の追儺会:http://www.kasugano.com/kankou/tsuinae/

豊中市春日神社の追儺式:https://togetter.com/li/935036

その他、全国的に、至る所で行われている

追儺の儀式は、論語にも記述があり、中国の行事がルーツである。平安時代、日本においては天皇や親王が行う宮廷の年中行事となった。その儀式の内容は次の通りである。
方相氏(ほうそうし)と呼ばれる鬼を払う役目を負った役人(大舎人)と、方相氏の脇に仕える侲子(しんし)と呼ばれる役人が20人で、大内裏の中を掛け声をかけつつ回った。方相氏(ほうそうし) は玄衣朱裳の袍(ほう)を着て、金色の目4つもった面をつけて、右手に矛、左手に大きな楯をもった。方相氏が大内裏を回るとき、公家は清涼殿の階(きざはし)から弓矢をもって方相氏に対して援護としての弓をひき、殿上人(でんじょうびと)らは振り鼓(でんでん太鼓)をふって厄を払った。
ところが9世紀中頃に入ると、鬼を追う側であった方相氏が逆に鬼として追われるようになる。古代史家の三宅和朗はこの変化について、平安初期における触穢信仰の高まりが、葬送儀礼にも深く関わっていた方相氏に対する忌避感を強め、穢れとして追われる側に変化させたのではないかとしている。
すなわち、 方相氏=鬼となった平安中期以降、追儺式に混乱があり、現在行われている追儺式の鬼には、二系統があって、追い払わなければならない鬼とそうでもない鬼とがいる。

方相氏(ほうそうし)とは、もともとは古代中国の伝承に登場する鬼神である。そのような鬼神がどのように日本に取り入れてきたかは、鬼神について書いた「日本古代における呪術的宗教文化受容の一考察・・・土公信仰を手がかり と して・・・」という論文が参考になる。 鬼神は崇り神として中国古代民間でひろく信仰され、また陰陽五行思想を基礎とする占いなどの呪術的な宗教体系に取り入れられたが、それらの宗教文化が陰陽師や神祇官或いは呪禁師(じゅごんし)などによっ て日本社会に導入されたのである。

以上のより詳しい内容は、次の論考・第2章「玉垂宮の鬼夜」をご覧いただきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hima02.pdf

2017年5月13日 (土)

火祭り考2(その1)

火祭り考2(その1)

広河原の火祭りと 花背原地町の火祭りは、その論考の中で紹介してあるが、鞍馬の火祭と奈良のお水取りはあまりにも有名であるので、その論考の中では紹介しなかった。そこで、実忠が始めたというその一連の火祭りをここに紹介しておく。 広河原の火祭りと 花背原地町の火祭りは同じようなスタイルの火祭りだが、鞍馬の火祭と奈良のお水取りはは、それぞれ独特のものである。

広河原の火祭り: https://www.youtube.com/watch?v=NN4xlI3JV6k
花背原地町の火祭り:http://blogs.yahoo.co.jp/ken3m_kyoto/34666092.html
鞍馬の火祭り:https://www.youtube.com/watch?v=mHw-nCFcPrQ
奈良のお水取り:https://www.youtube.com/watch?v=mMsFwIIk8_A

なお、奈良のお水取りは、東大寺二月堂の修二会 であって、正しくは「祭り」ではない。

現在、全国さまざまな地域で「火祭り」が行われているが、日本の三大火祭りといえば、通常、玉垂宮の鬼夜(福岡)と野沢の火祭り(長野)と那智の火祭り(和歌山)であろう。
野沢の火祭りは、通常、「道祖神祭り」と呼ばれているが、その謂れも含めて詳細に説明した私の論文がある。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/doumaturi.pdf

その中で、「道祖神祭り」は左義長(どんど焼き)であると説明したが、左義長(どんど焼き)については、先に紹介したホームページが要領よく説明をしているので、それをまずここに紹介した上で、私の補足説明を加えることにしたい。

それが第1章「左義長(どんど焼き)の起源」である。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hima01.pdf




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