文化・芸術

2018年2月18日 (日)

三国志(その6)

その6、左将軍宜城亭侯・劉備玄徳


三国時代、中国全土には10数箇所の州があった。その下に郡があり、その郡の下に県があった。州は一つの国であり、太守というのはその領土を支配するいわば領主のことである。劉備は遂に徐州という国の領主に上り詰めるのである。徐州は、本来、曹操の勢力範囲であり、曹操と良好な関係にないとやっていけない。この頃は劉備は曹操の覚えもよく良好な関係にあった。そのことは「その4」で述べた。そしてまた「その5」では、曹操の密書により、共に兵を挙げ、遂に呂布が殺される、それまでの経緯を述べた。

「その6」は、曹操と劉備は呂布を討伐して、許都に凱旋するところから始まる。曹操は、例によって、功ある武士に恩賞をわかち、都民には三日の祝祭を行わせた。朝門街角ともその数日は、挙げてよろこびの声に賑わった。玄徳の旅舎は丞相府のひだりに定められた。特に一館を彼のために与えて、曹操は礼遇の意を示した。のみならず、翌日、朝服に改めて参内するにも、玄徳を誘って、ひとつ車に乗って出かけた。市民は軒ごとに、香を焚いて道を浄め、ふたりの車を拝跪した。そして、ひそかに、「これはまた、異例なことだ」と、眼をみはった。

劉備は曹操に連れられて曹操の根拠地で献帝のいる許昌へ入り、左将軍に任命された。ここでの劉備に対する曹操の歓待振りは、車を出す時には常に同じ車を使い、席に座る時には席を同格にすると言う異例のものであった。曹操と歓談していた時に曹操から「今、この天下に英雄と申せる者は、おぬしとこのわしのみだ」と評されている。

そのあと徐州に帰った玄徳はまず、老母の室へ行って、老母の膝下にひざまずき、「母上、あなたの息子は、今帰って来ました。こんど都に上って、天子に謁し、その折、ご下問によって、初めて、わが家の家系をお耳に達しましたところ、天子には直ちに、朝廷の系譜をお調べになり、まぎれもなく、劉玄徳が祖先は、わが漢室の支れた者の裔である――玄徳は朕が外叔にあたるものぞと、勿体ない仰せをこうむりました。」と報告した。
かくして劉備玄徳は、献帝の劉皇叔と呼ばれるようになったのである。

この頃、宮中では献帝よりの密詔を受けた董承による曹操討伐計画が練られており、劉備はその同志に引き込まれた。その後、討伐計画が実行に移される前に朱霊・路招らと共に袁術討伐に赴き、都から徐州に逃げ出す名分を得たという。

その6、左将軍宜城亭侯・劉備玄徳:  http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/ryuukousyuku.pdf



2018年2月13日 (火)

三国志(その5)

その5、呂布が殺害される

董卓殺害後、王允と呂布は共に朝政を一時掌握したが、董卓の軍事力の基礎であった郭汜・李傕らにはぶれ、数百騎を率いて武関から逃亡した。董卓の死から60日後のことであったという。『後漢書』呂布伝では袁術、張楊、袁紹、張邈、張楊の順に身を寄せたという。前回の「その4」では、流浪の人・呂布は流浪の挙句、劉備を頼って身を寄せ、劉備は呂布を手厚く処遇した。

その後の話が今回の「その5、呂布が殺害される」である。呂布が劉備のところに身を寄せまもなく、徐州を巡って劉備が袁術と戦うようになると、その隙を突いて呂布は劉備の本拠下邳を奪い取った。行き場を無くした劉備が呂布に降伏すると、呂布は劉備を豫州刺史にし自らは徐州刺史を名乗った。
ところで、下邳は徐州にあり徐州には劉邦の故郷、小沛があるが、徐州は中国史を語る上で欠かせないところで、徐州は項羽の本拠地でもあるし、小沛は劉邦の故郷であり下邳は劉邦の軍師忠良の隠れ住んだ所でもある。
その後、袁術が紀霊らに歩・騎兵あわせて3万を率いさせ、再び劉備を攻撃しようとしたため、劉備は呂布に救援を求めた。呂布は袁術と泰山諸将(臧覇ら)による包囲を警戒し、呂布軍の諸将の諌めを遮って歩・騎兵1千人余りで劉備・袁術を調停。陣中で戟を射て両軍を撤退させた。その後、呂布は1万の兵を集めた劉備を攻め、小沛を陥落させた。劉備は逃走し、曹操を頼った。

建安3年(198年)呂布はまた袁術と通じ、部下の高順を派遣して小沛の劉備を陥落させ、臧覇等が呂布に従った。そこで曹操は自ら大軍を率いて徐州に攻め込んだ。10月曹操軍が彭城を落とすと陳宮は献策したが呂布は聞かず、しばしば下邳に到着した曹操と戦うも皆大敗し、下邳に籠城した。包囲して後、下邳を攻め落とせず疲弊した軍を憂え撤退を計る曹操に対し、曹操軍の荀攸・郭嘉は水計を考案し実行に移されると、侯成等は陳宮達を捕えて呂布を裏切り、呂布は後に部下と投降。この時呂布は部下に自分を売って曹操に降るよう命じたが、部下達は遂行出来なかったとも言う。
呂布が「(曹操)殿が悩みとしていたのは私一人でしょう。それが降伏したなら天下に心配事はもう有りますまい。殿が歩兵を率い、私が騎兵を率いれば、天下の平定は容易なことです」と語ると、曹操は顔に疑惑の色を浮かべた。劉備が進み出て呂布が過去に丁原・董卓を裏切った例を挙げて曹操を諫めると、曹操もそれに頷いた。呂布は「こいつ(劉備)こそが一番信用できない者だ」と主張したが、縛り首にされ、重臣の陳宮・高順らも斬首された。呂布・陳宮・高順らの首は許に送られ、後に埋葬されたという。

呂布が殺害されるに至るその陰には、陳大夫陳登父子の謀み事がある。陳大夫父子は、呂布にとっては裏切り者であるが、劉備や曹操にとっては大の功労者である。

その5、呂布が殺害される: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/ryohusatu.pdf



2018年2月11日 (日)

三国志(その4)

その4、劉備玄徳、徐州の太守となる

董卓殺害後、王允と呂布は共に朝政を掌握し、呂布は奮武将軍に任じられ、温侯・儀同三司となり、仮節を与えられた。しかしその後呂布が涼州軍を憎んだ為に董卓の軍事力の基礎であった郭汜・李傕ら涼州の軍勢が長安を襲撃してくると、呂布は郭汜を一騎討ちで破るも防ぎきれず、李傕らに長安を奪われた。呂布と王允の統治はそれなりに良かったようである。

呂布は王允を助けようとしたが叶わず、董卓の首を馬の鞍にぶら下げ、数百騎を率いて武関から逃亡した。董卓の死から60日後のことであったという。

呂布はまず荊州に赴き、袁術に手厚くもてなされたが受け入れられず、次に袁紹を頼った。袁紹は黒山賊の張燕と戦っているときであったので、呂布を迎え入れ、共に常山の張燕を攻撃した。張燕は精兵1万と騎馬数千匹を率いて勢威を振るっていたが、赤兎馬に乗った呂布と、呂布配下の勇将・成廉、魏越率いる数十騎が1日に3, 4度も突撃して次々に張燕軍を討ち取ったため、数十日後に遂に敗れ、以後黒山賊は離散した。この戦いの後愛馬である赤兎とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されたという。

『後漢書』呂布伝では『三国志』と異なり、袁術、張楊、袁紹、張邈、張楊の順に身を寄せたという。その後、徐州の太守・劉備玄徳を頼る。吉川三国志を私なりに紹介する「その3」は、劉備が平原県の令を経て平原郡の相となる話であった。 董卓と反董卓軍との激烈な戦いが始まり、劉備らは大いに戦功をあげ、その功績によって平原郡の相となるのである。 今回の「その4」は、何か戦功をあげるというのではなく、彼の人徳により徐州の太守となる話である。正義の人、劉備。彼の面目躍如たる物語、それがこの「その4」である。

曹操は次第に力をつけ、兗州を支配するようになっていた。人材を集め、兗州が彼の本拠地となっていたのである。その頃、すでに述べたように、 曹操の父が殺される。父の住んでいたところは、兗州に近く、大いに親孝行をしようと父を兗州に呼び寄せる、その途中で父が殺されるのである。曹操は殺された亡父の仇討ちとして、徐州の陶謙を攻める。徐州の陶謙は正義の人であり、曹操の父を殺す気など全くなかったのだが、よからぬ部下が曹操の父を殺害する。もちろん部下の仕業とはいえ、その責任は主人にあるので、曹操は陶謙を仇とするのである。曹操は、10余城を陥落させるも、陶謙は籠城して出てこなかったため、翌年の春には兗州へと帰還。青州平原から陶謙の救援のためにやってきた劉備は、勢い、曹操と戦うことになる。陶謙の評価はいろいろあるようであるが、吉川三国志では陶謙は正義の人として描かれている。陶謙は病で重篤に陥り、子の陶商・陶応が揃って不出来であるという理由から、糜竺に徐州を劉備に譲るよう遺言を託し、間もなく死去した。劉備はその申し出を断り続けるのであるが、住民からも領主になってもらいたいとの声が巻き起こり、遂に、劉備は徐州の太守になることを引き受ける。

三国時代、中国全土には10数箇所の州があった。その下に郡があり、その郡の下に県があった。州は一つの国であり、太守というのはその領土を支配するいわば領主のことである。劉備は遂に徐州という国の領主に上り詰めるのである。徐州は、本来、曹操の勢力範囲であり、いずれ劉備は徐州を離れることになるが、それは後ほどのことである。
今回の「その4」では、流浪の人・呂布は流浪の挙句、劉備を頼って身を寄せる。劉備は呂布を手厚く処遇するのである。

その4、劉備玄徳、徐州の太守となる: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyosyuuno.pdf



2018年2月 8日 (木)

三国志(その3)

その3、劉備玄徳、平原の相となる

董卓は、辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。霊帝死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、少帝弁(霊帝の崩御に伴い、何太后とその兄である何進により擁立された。)を廃して献帝(後漢最後の皇帝)を擁立し、一時は宮廷で権勢をほしいままにした。

献帝(けんてい)は、後漢の最後の皇帝。諱は協。霊帝(劉宏)の次子で、少帝弁(劉弁)の異母弟。生母の王栄は豊満な女性、聡明で算数が得意である。霊帝の寵愛を受けて、劉協を産むと、何皇后の嫉妬を受けて毒殺されたという。母を失った劉協は、霊帝の生母の董太后が住む宮殿で養育されたため、董侯と呼ばれた。

中平5年(189年)4月、霊帝が崩御すると劉弁が即位し、劉協は渤海王に封じられた。
同年秋7月、陳留王に移封される。 当時、朝廷では外戚であった何進の派閥と十常侍ら宦官の勢力が対立していたが、8月に何進が嘉徳殿の前で十常侍に暗殺されると、袁紹らが挙兵して押し寄せ、混乱に陥った。数日で宦官勢力は敗れた。しかし、その際に陳留王は少帝とともに張譲・段珪によって、雒陽(洛陽)から連れ去られた。変を知り軍を率いて上洛してきた董卓は宦官勢力を一掃、少帝と陳留王は董卓に保護され都に戻ることが出来た。その後、朝廷の実権は、董卓によって握られた。

董卓は曹操を仲間に引き入れようとするが、董卓の暴虐ぶりを見た曹操は妻子も連れずに洛陽から脱出し、故郷に逃げ帰った。

董卓暗殺を謀り賞金首となった曹操は中牟県で兵士に捕らえられてしまう。しかし、曹操の志を知った役所の役人陳宮は曹操を英雄と崇め、曹操に付き従い脱走する。逃避行中、曹操の内に秘めた恐ろしさにより、陳宮から見捨てられるものの、故郷に戻った曹操は全国に檄文を送り、袁紹を盟主とする董卓討伐軍を編成し、董卓軍と対決することとなった。

しかし、董卓軍には華雄という猛将がいた。董卓討伐軍の数々の武将が討たれる中、討伐軍に参加していた劉備の部下関羽が名乗りを挙げ、見事華雄を討ち取る。勝利に乗じて攻め込む討伐軍に、今度は呂布が立ちはだかる。これを、劉備、関羽、張飛の3人で退け、虎牢関まで攻め込んだ。
討伐軍の曹操と袁紹は董卓軍の壊滅をさせるため、王允に密書を送り、朝廷内外から董卓軍の挟み撃ちを謀る。その動きが董卓のしるところとなり、王允は取り調べられるが、黄巾の乱の折、王允の養女となった美しい娘・貂蝉の気転により、窮地を脱する。

討伐軍と朝廷内からの反乱を恐れた董卓は、都を洛陽から長安に遷都することを強引に決定する。何進と十常侍が共に滅び、董卓が朝廷の実権を握ると、橋瑁は三公の公文書を偽造し、董卓に対する挙兵を呼びかける檄文を作った(『後漢書』)。小説『三国志演義』では、檄文を作ったのは橋瑁ではなく曹操ということにされている。

かくして、董卓と反董卓軍との激烈な戦いが始まり、劉備らは大いに戦功をあげ、その功績によって平原郡の相となるのである。

三国時代、中国全土には10数箇所の州があった。その下に郡があり、その郡の下に県があった。 劉備は、県の令から郡の相に昇進する。何人かの県令を束ねる立場である。平原郡は、現在の山東省あたりの地域で、当時は青洲といった。いずれこの地域は曹操の支配する地域となる。

曹操は豫州の沛国譙県(現在の安徽省亳州市。徐州の西隣り。)生まれであり、その生誕地・沛国には沛国曹氏・沛国夏侯氏と優秀な親族が揃っており、この地方は曹操一族の勢力下にあった。 安徽省亳州市は、劉備が相を務めた平原郡に近い。
劉備は自ずと曹操一族ならびに曹操の勢力を意識せざるを得なく、曹操とは争いたくなかったに違いないが、平原相の時代に争っている。そのことについては、「その4」で詳しく説明するが、曹操は殺された亡父の仇討ちとして、徐州の陶謙を攻める。徐州の陶謙は正義の人であり、曹操の父を殺す気など全くなかったのだが、よからぬ部下が曹操の父を殺害する。もちろん部下の仕業とはいえ、その責任は主人にあるので、曹操は陶謙を仇とするのである。曹操は、10余城を陥落させるも、陶謙は籠城して出てこなかったため、翌年の春には兗州へと帰還。青州平原から陶謙の救援のためにやってきた劉備は、勢い、曹操と戦うことになるのである。

この当時、劉備の拠点は清州であり、曹操の拠点は豫州であった。そして、陶謙の拠点は徐州であった。劉備は陶謙の拠点城に居続けて、曹操と争うのである。

その3、劉備玄徳、平原の相となる :http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/heigennosyou.pdf


2018年2月 6日 (火)

三国志(その2)

その2、劉備玄徳、平原県(山東省・平原)の令となる

劉 恢(りゅう かい)は、歴史上、劉邦の第5子のほか何人かいるようであるが、吉川英治の三国志では、代州の富豪として登場する。芙蓉姫と親戚関係にあり、張飛とも面識がある設定となっている・・・まったくの架空の人物である。
「はじめに」でも述べたが、吉川は「序」で
三国志には詩がある。(中略)三国志から詩を除いてしまったら、世界的といわれる大構想の価値もよほど無味乾燥なものとなろう。故に、三国志は、強いて簡略にしたり抄訳したものでは、大事な詩味も逸してしまうし、もっと重要な人の胸底を搏つものを失くしてしまう惧れがある。で私は簡訳や抄略を敢てせずに、(中略)主要人物などには、自分の解釈や創意をも加えて書いたと記しており、原作や訳書にこだわらずに、吉川英治流の味付けで日本人向けに物語を描くことを宣言している。そして、「その2」においてもまったくの架空の人物・芙蓉姫が「その1」に引き続いて登場している。
劉 恢と 芙蓉姫とは親戚関係にあり、劉備らが 劉 恢の屋敷に匿われた時、芙蓉姫も劉 恢の屋敷に身を寄せており、二人は逢瀬を楽しむこととなる。この場面はまったく吉川英治流の味付けで、吉川英治の三国志を潤いのある物語にしている。
劉 恢は、浪人を愛し、常に多くの食客を養う悠々自適の風流人である。 そのような劉 恢は、劉備が出世の糸口をつかむ大恩人として描かれている。つまり、劉備は、親友・劉虞(りゅうぐ)を紹介し、その人のお陰で劉備が出世の糸口をつかむのである。劉虞はちょうど、中央の命令で、漁陽に起った乱賊を誅伐にゆく出陣の折であったから、大いによろこんで、劉備らを自分の軍隊に編入して、戦場へつれて行った。劉備らは大いに戦功をあげ、劉備はその功績により、 平原県(山東省・平原)の令になるのである。劉虞は 劉備の大功を上表して、かつて安喜県で督郵を鞭打った罪が赦されるように取り計らった。

三国時代、中国全土には10数箇所の州があった。その下に郡があり、その郡の下に県があった。そして、「県令」という行政官が置かれていた。県知事みたいなものである。その部下に県尉がいる。

劉備は、かって安喜県の県尉になったことがあるが、 劉虞(りゅうぐ)のお陰で平原県(山東省・平原)の「県令」になるのである。 平原県は地味豊饒で銭粮の蓄えも官倉に満ちており、大いに武を練り兵を講じ、駿馬に燕麦を飼って、時節の到来を待つのである。

その頃、朝廷は大いにみだれ、再び大きな戦争が始まる予感があったのである。吉川英治の三国志はその朝廷のみだれを次のように書いている。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tyouteinomi.pdf

また、そのような朝廷のみだれの中、何進が死んで、次の権力者・董卓の登場となる。ウィキペディアでは次のように説明している。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kasin.pdf

次の「その3」では、いよいよ董卓と反董卓軍との激烈な戦いとなる。劉備にしてみれば、いよいよ時節の到来である。その前夜がこの「その2、 劉備玄徳、平原県(山東省・平原)の令となる」なのである。

その2、劉備玄徳、平原県(山東省・平原)の令となる: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/heigennorei.pdf

2018年2月 2日 (金)

桃源境

桃源境

私の愛読書の一つ駒田信二の著書「中国怪奇物語・神仙編」(昭和60年2月、講談社)には六朝「捜神後記」の桃源境が余韻をもった名文で訳されている。それをここに紹介しておきたい。

東晋の太元年間のことである。武陵に住む漁師が舟で谷川をのぼっていくうちに、どこまできたかわからなくなてしまった。ふと気がつくと、両岸いちめんに桃の花がひろがっていたのである。
桃の花は今を盛りと咲きみだれていた。ほかの木は一本もなく、桃林はどこまでもつづいているようであった。漁師はは不思議に思いながら、なおも川をさかのぼっていった。
奥ふかく進んでゆくと、るところに、川の水源のところで桃林は尽きていたが、その前面には山があって、山腹に小さい洞穴があいており、その奥からは光りがもれていた。漁師は舟をすてて岸にあがり、洞穴の中にはいってみた。はじめのうちは人ひとりがようやくくぐり抜けられるぐらいの狭い穴だったが、数十歩すすむと、ぱっと目先が広くなった。

人家があり、畑があり、池があり、桑や竹が茂っており縦横に道が通じていて、開けて、鶏や犬のなく声もきこえていた。人々の服装は、男も女も、異国人のようであったが、老人も子供たちも、みな楽しそうに働いたり遊んだりしていた。
その人たちは漁師を見るとびっくりして、どこからきたのかとたずねた。漁師はありのまま話すと、一軒の家に連れていって、 酒を出し、鳥を料理してもてなした。

漁師のことを伝えきいた村の人たちは、みんな物めずらしそうにその家にやってきて、いろいろと漁師にたずねた。村の人たちのいうところによると、彼らの先祖は秦末の乱を避け、妻子をひきつれてこの秘境にきたまま、外界との交渉がなく、子々孫々ここで平和に暮らしているという。彼らは秦の滅んだことも知らない。漢の興ったことも知らない。その漢が衰えて、魏となり、晋となったことも知らない。漁師が自分の知っている限りを話すと、彼らはみなよの変わりようにおどろいた。

漁師はあちこちの家にも招かれて、数日間この村で過ごしたが、別れを告げて帰ろうとすると、村人の一人がいった。
「この村のことは、外の人にはいわないでください。」

洞穴から出ると、水源のところに舟がもとのままあったので、漁師はそれに乗って川をくだった。途中、ところどころに目じるしをつけておき、武陵に帰ると太守に事の次第をつたえた。太守はさっそく部下を派遣し、漁師を案内役にして探索をさせたが、漁師がつけた目じるしは既にどこにもなくなっていた。以来、桃源境を訪ねあてたものは誰もいない。

この中にあるように、秦末の乱を避け、妻子をひきつれて秘境にきたまま、外界との交渉がなく、子々孫々ここで平和に暮らしている人たちがいる。それが六朝「捜神後記」で言うところの桃源境である。
そういう桃源境は、現在、「天空の村」として存在する。そこの人たちはすべて少数民族だが、その先祖伝来の文化を守り平和に暮らしているのである。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tenkuuno.pdf

2018年1月31日 (水)

「100匹目の猿現象」について

「100匹目の猿現象」について

「100匹目の猿現象」について、私は、「脳と波動の法則・宙との共鳴が意識を創る」(浜野恵一、1997年3月,PHP研究所)からの引用として、次のように書いた。すなわち、

『 「100匹目の猿効果」といわれている、奇妙な現象が生じたのは、サツマイモの餌になって6年目のことであった。この100匹目の猿の加入によって、あたかも臨界量を突破したかのように、その日の夕食時にはほとんど全部の猿が、イモを洗って食べるようになったのである。
さらに、もっと驚くべきことが同時に起った。海を隔てられている別の無人島の野生猿のコロニーにも、本州の高崎山のコロニーにも、このサツマイモを洗う食習慣が自然発生したのである。後にこれは「100匹目の猿効果」と呼ばれるようになり、いまでは猿以外のものにも、同様な現象例の認められることが、他の科学者によって指摘されている。』・・・と。

「100匹目の猿効果」という言葉は、イギリスの生物学者であるライアル・ワトソンがその著書(Lifetide-A Biology of theUnconscious)で言い出した言葉である。日本では、1981年、工作舎から「生命潮流」という訳本が出版されている。ワトソンの著書によって、「100匹目の猿効果」は一躍世界的に有名になり、今では「100匹目の猿現象」とも言われているが、そのいう現象が京大チームによって観察されたわけではない。ワトソンの創作である。
しかし、浜野恵一は、脳と波動の法則・宙との共鳴が意識を創る」(1997年3月,PHP研究所)のなかで、「100匹目の猿現象」が実際に発生したかのごとく書いている。

そこで問題になるのは、「100匹目の猿現象」と類似の現象が実際に発生しうるのかどうかである。浜野恵一は、同様な現象例の認められることが他の科学者によって指摘されていると、脳と波動の法則・宙との共鳴が意識を創る」(1997年3月,PHP研究所)のなかで書いているが、私も「100匹目の猿現象」と類似の現象が実際に発生しうると考えているので、以下にその説明をしたい。

「100匹目の猿現象」については、二つのポイントがある。

一つは、それまで芋を洗って食べるということを頑なに拒否していた大人の多くの猿が、ボスザルが芋を洗って食べるということを始めた途端、多くの猿がそれを真似しだしたということである。この第一の点は、私たち人間社会でよくあることである。まずそれを説明する。

群集心理(群集を構成する人々のさまざまな感情や観念が、同一の方向に収束していく心理的機制)にかかわる理論仮説として、アメリカの社会心理学者R・H・ターナーは「感染説」「収斂(しゅうれん)説」「創発規範説」をあげている。
創発規範説は、感染説、収斂説のいずれにも批判的であって、群集という集合現象の場において形成される固有の社会規範の成立とともに、その規範に適合する行動を容認、促進し、不適合な行動を抑制、禁止する社会的圧力が働くために、群集行動が全体として均質化すると主張する。
固有の社会規範というものは、ある程度の時間をかけて形成されてきたものであり、その間、リーダー的な人が存在しており、その人の影響が大きい。年寄りというのは、その地域固有の社会規範の中で人生を歩んできており、その地域固有の社会規範から外れた行動については拒否反応を示さざるを得ない。
しかし、若者はどちらかというと、新しいことをやりたがる傾向がある。古いものに縛られずに自由に何かをやりたいとうわけだ。それに対して年寄りは拒否反応を示す。
ところが、表現が悪いが地域のボス、つまり地域のリーダー的な年寄りが、その若者の行動を評価して、その若者を応援するとか、自分も一緒にやるとかすれば、他の年寄りも真似をするようになる。そして若者の新しい行動がその地域の新しい習俗となる、というようなことは私たちの日常生活によく生じている。
したがって、「100匹目の猿現象」において、それまで芋を洗って食べるということを頑なに拒否していた大人の多くの猿が、ボスザルが芋を洗って食べるということを始めた途端、多くの猿がそれを真似しだしたということは、群集心理の創発規範説で十分説できる。

「100匹目の猿現象」については、二つのポイントがある。

二つ目のポイントは、。海を隔てられている別の無人島の野生猿のコロニーにも、本州の高崎山のコロニーにも、このサツマイモを洗う食習慣が自然発生したという点である。果たしてこのようなことが科学的に起こるのだろうか。起こるのである。それをこれから説明する。

この点については、シェルドレイクの公開実験というのがあるので、まずそれを説明する。
1983年8月31日、イギリスのテレビ局テームズ・テレビによってシェルドレイクの仮説を調査する公開実験が行われた。一種のだまし絵を2つ用意し、一方の解答は公開しないものとし、もう一方の解答はテレビによって視聴者200万人に公開する。テレビ公開の前に、2つの絵を約1000人にテストする。テレビ公開の後におなじように別の約800人にテストをする。

いずれも、この番組が放映されない遠隔地に住む住人を対象とした。

その結果、テレビ公開されなかった問題の正解率は放映前9.2%に対し放映後10.0%であり、もう一方のテレビ公開された問題は放映前3.9%に対し放映後6.8%となったという。これにより『公開されなかった問題では正解率は余り変化しなかったが、公開された問題は大幅に正解率が上昇した』とされた。この公開実験によって、シェルドレイクの仮説は多くの人々に知られるところとなった。

そのテレビが放映された地域の人でテレビを見ておれば、答えはわかっているので、正解率100%になる。しかし、テレビが放映されない遠隔地の人は、ある確率で正解を示す人がいたとしても、その正解率は変化しないはずである。ところがテレビの放映によって、正解率が上昇したのである。あるところの現象が、そこと遠く離れたところに遠隔地にまで影響を及ぼしうることを示している。摩訶不思議な力が遠く離れたところまで及ぶのである。祈りの力が遠くまで及ぶことはアメリカの実験でも確かめられいる。

心臓病患者393人に対する実験で、「他人に祈られた患者」は、そうでない患者に比べて人口呼吸器、抗生物質、透析の使用率が少ない、ということが分かった。しかも驚くべきことに、西海岸にあるこの病院に近い場所にいたグループからの祈りはもちろんのこと、遠く離れた東海岸からの祈りでも、同様の効果があったのある。

そして、何よりも興味深いのは、患者さんたち本人は自分が祈られていることは、全く知らなかったということである。

2018年1月27日 (土)

三国志(その1)

その1、桃園の誓い
桃園の誓い(とうえんのちかい)は、桃園結義(とうえんけつぎ)とも称され、『三国志演義』や『通俗三国志』ならびに吉川英治の三国志の序盤に登場する劉備・関羽・張飛の3人が、宴会にて義兄弟(長兄・劉備、次兄・関羽、弟・張飛)となる誓いを結び、生死を共にする宣言を行ったという逸話のことである。
これは正史の『三国志』にない逸話であって創作上の話であるとされており、劉備が二人に兄弟のような恩愛をかけ、関羽・張飛は常に劉備の左右に侍して護り、蜀漢建国に際して大いに功績があった、という史実に基づいて作られた逸話である。

吉川英治は、その序文で

『 三国志には詩がある。(中略)三国志から詩を除いてしまったら、世界的といわれる大構想の価値もよほど無味乾燥なものとなろう。故に、三国志は、強いて簡略にしたり抄訳したものでは、大事な詩味も逸してしまうし、もっと重要な人の胸底を搏つものを失くしてしまう惧れがある。で私は簡訳や抄略を敢てせずに、(中略)主要人物などには、自分の解釈や創意をも加えて書いた。』・・・と記しており、原作や訳書にこだわらずに、吉川英治流の味付けで日本人向けに物語を描くことを宣言している。

『三国志演義』冒頭の劉備・関羽・張飛三人による桃園の誓いも、原作ではあっさりと三人が意気投合してすぐさま義兄弟となるのに対し、張飛との運命的な出会い、黄巾族にさらわれた美女芙蓉との恋心、張飛や関羽と劉備の母との出会いなど、大胆な改編を行って三兄弟の人物描写を読者に強烈に印象づけている。実際に三人が義兄弟の盟を結ぶのは、それらの話が終わってからである。冒頭の三兄弟に関しては完全に吉川独自の物語となっている。
三人が義兄弟の盟を結んでから、いよいよ旗揚げをして、義勇兵として黄巾族討伐に向かう。

その1、桃園の誓い:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/touennoti.pdf

2018年1月23日 (火)

白洲正子の「かくれ里」から

白洲正子「かくれ里」から

白洲正子の名著に「かくれ里」(1991年4月、講談社)がある。その中に「山国の火祭り」という随筆があって、次のように書いている。すなわち、

『 京都は花背原地町の峯定寺の前に、美山荘という料理旅館があって、おいしい山菜料理を食べさせてくれる。(中略)部屋のすぐ前を小川が流れているが、この辺では寺谷川と呼んでいるが、原地の部落で本流(嵐山を流れる桂川の上流)と一緒になり、今夜の火祭りはその二つの川が寄り添う「河内」で行われる。(中略)ドライブと山登りの後のお酒はおいしかった。十時頃にはいいご機嫌になって、暗闇の中を「河内」まで、どことどういったのかさっぱり記憶がない。突然、目の前が開けて夢のような光景が現れた。正面の山から、前の田圃へかけてまばゆいばかりの火の海である。その間を松明をかかげて、おそろしい勢いで火をつけて回る人影が、まるで火天か韋駄天のように見える。夢ではないか、狐につままれたんではないかと、私は何度も目をこすった。』

『 こうして書いていても、あの夢のような風景が、今もって現実のものとは思われない。私はまだあの夜の酔いがさめないのであろうか。それとも狐に化かされたのか。』

『 観光とはまったく関係のない自分たちだけのお祭り、太古のままの火の行事は、私が見た多くの祭りの中でもっとも感動に満ちた光景だった。大文字や、鞍馬の火祭りに失われたものが、ここには残っていた。いささかも仏教臭のない、健康な喜びと感謝の祈り、そこには人間が初めて火を得た時の感激がよみがえるかのように見えた。』

『 つい最近まで、同じような火祭りが、各部落で行われていたいうが、現在残っているのは、原地と広河原だけで、ついでのことにそちらの方へまわってみることにする。広河原は、原地からは上流にあり、着いた時は、ちょうど「松上げ」にかかったところであった。原地とはちょっと違った雰囲気で、山はないかわり、広い河原が見渡す限り地松で埋められ、炎が水にうつってきれいである。やがて、めでたく火がつき灯籠木が倒されて、すべてとどこりなく終わった。このような火祭りが、方々の部落で行われた頃は、さぞかし壮観だったことだろう。火の祭りは、同時に、水の祭りであることもよくわかった。してみると「拝火」より「火伏せ」の方に重きがおかれたに相違ない。二月堂のお水取りにも、火天と水天が出るが、その時用いられる籠松明が、灯籠木を模していることも注意していい。山国に発生した火祭りは、そういう風に形をととのえて、仏教に取り入れられ都会へ運ばれていったのであろう。』・・・と。

花背原地町の火祭りについては、次のYouTubeをご覧いただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=NN4xlI3JV6k



なお、花背原地町の火祭りについては、次のような私の論考があるので、是非、じっくりお読みください。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/himaturi.pdf

2018年1月21日 (日)

大久保一翁(その10)

大久保一翁(その10)

大久保一翁は勝海舟と計らい官軍の真の実力者である西郷隆盛へ陳情して和平交渉まで漕ぎ着け、3月14日の西郷・勝会談により官軍の総攻撃が中止される事になった。この時の会談は勝の残した記録では自分一人で西郷と会ったとしているが、『岩倉公実記』では大久保一翁も居合わせた事になっている。
4月4日、勅使・橋本実梁、柳原前光と西郷隆盛が江戸城に入り、大久保一翁ら若年寄・大目付・目付陣が応対。慶喜の死罪免除と謹慎、武器明け渡し、慶喜に助力した幕臣の処分などに関する勅命を受け、11日に江戸城の明け渡しが実施された。

こうして抗戦派の反感や暗殺の危険に遭いつつ、大久保一翁は勝海舟と共同で徳川家の敗戦処理を無事に全うする事ができたが、幕府瓦解と同時に所持していた書類を燃やしてしまったため実際にどのような活動をしていたのか良く分かっていない。ただ、勝海舟の記録 「幕府始末」 にその活動と評価の一端が窺える。

諸有司に棟梁として万事を総裁するものは大久保一翁なり。一翁はその質謹厳、識あり学あり、今日の難に当たりて方正を以て終に不撓。能く諸官の進退且つ諸般の処分、還納の順序において順々として条理を錯乱せしめず、誠にその区画よろしきを得しめたる者は、その力とその勤勉によってなり。(「幕府始末」)

8月初め、大久保は駿府に移住し、徳川家と家臣団の移住費用の問題に取り組んだ。


 

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