文化・芸術

2019年2月20日 (水)

蹴上疏水公園について

蹴上疏水公園について


明治になって、東京が首都となり、天皇が東京にお移りになった。

 京都は、「<天皇はん>がおられなくならはった!」ということで、騒然となった。
明治政府はそれを鎮めるため、わが国近代化の先駆けをまず京都で行うこととした。すなわち、かの有名な疎水運河と、そしてそれに関連し、わが国最初の発電所と電気鉄道、この三大プロジェクトの建設である。私は,明治政府に天皇ゆかりの人たちが多かったので,こういう世紀のプロジェクトが行い得たのだと思う。明治政府にはまさに心のこもった人たちがいたのである。

天皇が京都から東京に行かれたことで、京都は大騒ぎになった。それを抑えるために明治政府は、世紀の大事業をやらざるをえなかった。 琵琶湖疏水によって、今まで荷馬車による運搬が舟運に変わったこと、ついで発電により個人の家に電灯がつき始めたこと、三つ目にチンチン電車が走り始めたこと、これらの世紀の大事業によって、京の人たちは、明治政府の誠意を見て、やっと納得したのである。

それら大事業の要となる琵琶湖疏水は、非常な難工事で、当時の土木技術では到底成し遂げられない筈のものであるが、それを成し遂げたが田辺朔郎である。田辺朔郎と言っても知らぬ人がほとんどだと思うが、誠に偉大な人物で、明治維新の大功労者の一人である。その銅像が南禅寺の蹴上疏水公園にある。蹴上疏水公園では、蹴上の発電所の発電用水の取り入れ口やかの有名なインクライを見ることができるし、近くの疏水記念館に行けば、琵琶湖疏水がいかに難工事であったか、またそれを田辺朔郎がいかに取り組んだかを知ることができる。

明治維新を理解するため、何はともあれ蹴上疏水公園に是非一度は出かけて欲しい。では、蹴上疏水公園の詳しい説明をしたいと思う。

蹴上疏水公園: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sosuikouen.pdf


火祭り考2(その2)

火祭り考2(その2)

まず最初に、玉垂宮の鬼夜の様子を見ていただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=bK6dNAHS6AM

玉垂宮の鬼夜は、1月7日に福岡県久留米市大善寺玉垂宮で行われる。国の重要無形民族文化財で、日本三大火祭りの一つである。新年の邪気を払う追儺(ついな)の夜祭りとして知られる鬼夜は、大晦日の夜から1月7日までの鬼会神事の最終日の夜に行われる。
そもそも追儺(ついな)とは、どんな祭りであろうか。現在、全国的にどのような神社やお寺で行われているのか、それをまず見てみよう。代表的なものは次のようなものである。

勝福寺の追儺式(追儺会式):http://seiyo39.exblog.jp/17565792/

長田神社で追儺式:http://nagatajinja.jp/html/tsuina.htm

興福寺の追儺会:https://narashikanko.or.jp/event/tsuinae_2018/

豊中市春日神社の追儺式:https://togetter.com/li/935036

その他、全国的に、至る所で行われている

追儺の儀式は、論語にも記述があり、中国の行事がルーツである。平安時代、日本においては天皇や親王が行う宮廷の年中行事となった。その儀式の内容は次の通りである。
方相氏(ほうそうし)と呼ばれる鬼を払う役目を負った役人(大舎人)と、方相氏の脇に仕える侲子(しんし)と呼ばれる役人が20人で、大内裏の中を掛け声をかけつつ回った。方相氏(ほうそうし) は玄衣朱裳の袍(ほう)を着て、金色の目4つもった面をつけて、右手に矛、左手に大きな楯をもった。方相氏が大内裏を回るとき、公家は清涼殿の階(きざはし)から弓矢をもって方相氏に対して援護としての弓をひき、殿上人(でんじょうびと)らは振り鼓(でんでん太鼓)をふって厄を払った。
ところが9世紀中頃に入ると、鬼を追う側であった方相氏が逆に鬼として追われるようになる。古代史家の三宅和朗はこの変化について、平安初期における触穢信仰の高まりが、葬送儀礼にも深く関わっていた方相氏に対する忌避感を強め、穢れとして追われる側に変化させたのではないかとしている。
すなわち、 方相氏=鬼となった平安中期以降、追儺式に混乱があり、現在行われている追儺式の鬼には、二系統があって、追い払わなければならない鬼とそうでもない鬼とがいる。

方相氏(ほうそうし)とは、もともとは古代中国の伝承に登場する鬼神である。そのような鬼神がどのように日本に取り入れてきたかは、鬼神について書いた「日本古代における呪術的宗教文化受容の一考察・・・土公信仰を手がかり と して・・・」という論文が参考になる。 鬼神は崇り神として中国古代民間でひろく信仰され、また陰陽五行思想を基礎とする占いなどの呪術的な宗教体系に取り入れられたが、それらの宗教文化が陰陽師や神祇官或いは呪禁師(じゅごんし)などによっ て日本社会に導入されたのである。

以上のより詳しい内容は、次の論考・第2章「玉垂宮の鬼夜」をご覧いただきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hima02.pdf

沖縄の歴史(その20)

沖縄の歴史(その20)

第5章 琉球が日本国に併合されるまでの経緯(その6)
第2節 琉球藩の廃藩置県


1871年(明治4年)に締結された日清修好条規において、琉球の帰属問題は触れられておらず、琉球は明の時代からずっと中国の朝貢国であり、日本国のものではないというのが清朝の認識であった。琉球王国自体は、琉球人はもともと日本民族であり、琉球王国の国王の出自も日本であるという認識であったが、中国への朝貢を続けていたし、中国の認識も日本の認識とはまったく違っていたのである。1874年の互換条約以降、それが原因で日清両国は外交上にらみ合うことになる。清朝にしてみれば、1874年の互換条約は屈辱の条約であったようだ。日本軍の台湾出兵は、清朝は日本が日清修好条規に違反したと解釈して清朝に日本への強い警戒心と猜疑心を抱かせ、その後、日本を仮想敵国に北洋水師(艦隊)の建設が始まるなど、清に海軍増強と積極的な対外政策を執らせた。
874年の互換条約は、琉球の帰属問題で日本に有利に働くが、清は琉球の日本帰属を正式に承認したわけではなかった。明治政府は翌1875年、琉球に対して清との冊封と朝貢関係の廃止、ならびに明治年号の使用などを命令するが、琉球は清との朝貢関係を継続する意向を表明。清は琉球の朝貢禁止に抗議するなど、外交上の決着はつかなかった。
琉球王尚泰はその後も清への朝貢を続けたが、1879年(明治12年)、明治政府は琉球王尚泰を東京へ連行、内務官僚・警察隊・熊本鎮台分遣隊を派遣して鹿児島県へ編入し、沖縄県を設置、同年中に沖縄県を設置した。これが琉球における廃藩置県である。


1874年の互換条約は屈辱の条約であったようだ。日本軍の台湾出兵は、清朝は日本が日清修好条規に違反したと解釈して清朝に日本への強い警戒心と猜疑心を抱かせ、その後、日本を仮想敵国に北洋水師(艦隊)の建設が始まるなど、清に海軍増強と積極的な対外政策を執らせた のである。それに呼応して日本も軍備拡張を促進させ、遂に、1894年、日清戦争が勃発するに至る。その結果、日本の圧勝になり、台湾を日本の領土とすることになる。すなわち、日本と中国の国境が確定したのである。それにより自動的に、琉球の帰属もはっきりした。沖縄県が日本であることがはっきりしたのである。


第5章第2節の全体:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/okireki52.pdf

日本林業のあり方(その1)

日本林業のあり方(その1)
はじめに(1)


「日本林業はよみがえる」(2011年/1月、日本経済新聞出版社)という本があります。著者の梶山惠司は、内閣官房国家戦略室内閣審議官をやった人で、政府の高官でもあったのです。ドイツ・チュービンゲン大学留学、日興リサーチセンター・ロンドン、フランクフルト勤務、富士通総研を経て、2009年11月よりバイオエナジー・リサーチ&インベストメント(BERI)株式会社の代表取締役社長。2001年から2003年にかけて富士通総研より経済同友会に出向し、環境問題を担当。以降、欧州の気候変動政策に関する調査研究、森林・林業再生のための研究および実践を行うという経験もお持ちです。

山村地域では、林業の衰退と ともに、地域の活力も低下し、限界集落と呼ばれる問題まで起こっています。このままでは地域そのものが消滅してしまうでしょう。このことを政府はもっと真剣に考えるべきであります。政府の取り組みがいい加減なのか、林業復活の兆しはまだ見えていませんが、梶山惠司さんは日本林業再生の可能性を指摘しておられる。彼は次のように述べておられる。すなわち、

『 現在我々が目にする森林の大半は戦後に植林されたものである。専門家によれば日本の山々はこれほどの緑があふれるのは数百年ぶりのことである。このことは苦労してわれわれの祖父母、父母やわれわれが植林した成果である。拡大造林に対しては行き過ぎだったとか、広葉樹を伐採したなど批判も多い。しかし、苦労して築き上げた森林を将来につなげ得るか、それとも徒労に終わらせてしまうかは、われわれの努力次第である。』・・・と。


小唄嵐山

昨年の10月に開催された「宏芽会」の本会で歌わせていただいた小唄・嵐山です。

嵐山の歌詞
あらし山 千鳥の声に
梅かおる 思わぬ首尾に
きぬずれの とけて行燈の
薄明かり たった一夜の
さざめごと
そんな昔もあったのよ

https://www.youtube.com/watch?v=WL1soltt1rQ

2019年2月18日 (月)

iwaiwordの追加

私には、今まで書いた論文や紹介文など総てのものを「あいうえお順に整理したiwaiword」というページがありますが、今日、そのiwaiwordに「繋ぎの神」を追加しました。

iwaiword: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/iwaiword.pdf

ホームページの更新

私のホームページのWhat’sNewの更新について


浄蔵は、非常に呪力に長けた修験者であり、平安時代、京の人々にとっては、京を守り、自分たちを守ってくれる頼もしい人物であった。

平将門の反乱の折、浄蔵は、朝廷 から命ぜられて、比叡山は延暦寺で、大威徳法(だいいとくほう)という祈祷を行っている。将門の生き霊は四明岳(しめいがだけ)の将門岩に押し込められ、 将門の勢いは急速に衰えていく。京都では伝承としてそういう話が伝えられている。
京都では、浄蔵についていくつかの伝承が語られている。
文章(もんじょう)博士の三善清行が亡くなったのは918年だが、その死去の知らせを聞いたその子の浄蔵(じょうぞう)・・・、彼は天台の修験行者で大峰山で修行中であったのだが、その彼が京都に戻ってきたとき、偶然父の葬列に出会った。 そこで・・・祈祷上手の高僧・浄蔵が念じたところ、亡くなった三善清行が一瞬蘇生したと言われており、「戻り橋」の名がある。
宇治の平等院に「葉二(はふたつ)」という名笛が残っている。元は朱雀門の鬼の笛であったところから、別名「朱雀門の鬼の笛」という。その笛を吹ける者がいなかったので、天皇の命により、浄蔵という笛の名手が、月のあかるい夜、朱雀門にきてその「葉二」を吹いた。 そうすると、朱雀門の上から、鬼が大きな声、でそれを褒め称えたという。
平安時代の初め、この八坂の塔が西へ傾くということがあった。人々は凶事として恐れた。時の天皇は浄蔵を呼びつけ元通りにするのを命じた。浄蔵は、八坂の塔に向かって祈りはじめた。天空にわかにくもり、一陣の風が吹いたかと思うと塔はゆらゆらと揺れ、元の形におさまったという。

なお、祇園祭における山伏山は、浄蔵が怨霊調伏の修行のために山伏となって金峰山や大峰山に立て籠もった時の姿である。これも誠に不思議な話である。

前回、「広隆寺の牛祭り」について詳しく説明した。今回は「浄蔵について」を紹介する。その内容については私のホームページのWhat’sNewをご覧いただきたい。
私のホームページのWhat’sNew:  http://www.kuniomi.gr.jp/geki/

広隆寺

広隆寺について

広隆寺は、平安遷都以前から存在した、京都最古の寺と考えられているものの一つである 。
現在の広隆寺は太秦にあり、太秦広隆寺とも呼ばれる。これは、 平安遷都にあたり、 損野(かどの)から移転したものであり、 元の広隆寺は損野広隆寺と呼ぶのがいい。 損野は現在の白梅町付近(北野神社の少し西)である。そこに秦河勝が建立したのである。

秦氏は山背(やましろ)の地方豪族として、平安遷都に尽力する。その際、損野広隆寺の敷地を平安遷都のために朝廷に提供し、寺を太秦に移転させるのである。そのあたりの経緯を説明する。

広隆寺について:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kouryuujini.pdf

火祭り考2(その1)

火祭り考2(その1)


広河原の火祭りと 花背原地町の火祭りは、その論考の中で紹介してあるが、鞍馬の火祭と奈良のお水取りはあまりにも有名であるので、その論考の中では紹介しなかった。そこで、実忠が始めたというその一連の火祭りをここに紹介しておく。 広河原の火祭りと 花背原地町の火祭りは同じようなスタイルの火祭りだが、鞍馬の火祭と奈良のお水取りはは、それぞれ独特のものである。

広河原の火祭り: https://www.youtube.com/watch?v=NN4xlI3JV6k
花背原地町の火祭り:http://blogs.yahoo.co.jp/ken3m_kyoto/34666092.html
鞍馬の火祭り:https://www.youtube.com/watch?v=mHw-nCFcPrQ
奈良のお水取り:https://www.youtube.com/watch?v=mMsFwIIk8_A

なお、奈良のお水取りは、東大寺二月堂の修二会 であって、正しくは「祭り」ではない。

現在、全国さまざまな地域で「火祭り」が行われているが、日本の三大火祭りといえば、通常、玉垂宮の鬼夜(福岡)と野沢の火祭り(長野)と那智の火祭り(和歌山)であろう。
野沢の火祭りは、通常、「道祖神祭り」と呼ばれているが、その謂れも含めて詳細に説明した私の論文がある。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/doumaturi.pdf

その中で、「道祖神祭り」は左義長(どんど焼き)であると説明したが、左義長(どんど焼き)については、先に紹介したホームページが要領よく説明をしているので、それをまずここに紹介した上で、私の補足説明を加えることにしたい。

それが第1章「左義長(どんど焼き)の起源」である。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hima01.pdf


沖縄の歴史(その19)

沖縄の歴史(その19)

第5章 琉球が日本国に併合されるまでの経緯(その4)
第1節 琉球藩の設置(その4)

1874年5月、西郷従道は、徴兵による鎮台兵と九州各地の士族などによる3658人で長崎から出兵した。
 日本軍は恒春近くに上陸し3方向から進軍し、圧倒的な兵器により次々と集落を焼き払い、族長ら12人を捕らえ、戦いは20日間余りで終わった。戦死者は12名だったが、マラリアにより561名が死んだ。


1874年9月、大久保は自ら北京に赴き、イギリス大使の仲介も得て、次の互換条約の締結に至った。

① 清は日本の台湾出兵を、日本国属民の保民の義挙と認める(琉球を日本のものであると認めたことになる)
② 清は賠償金50万両支払う(日本の戦費はその10倍だった)
③ 清は台湾の「生蕃」を検束し、今後害をなさないようにする
④ 日本軍は12月20日までに撤兵する

これにより、琉球王国を日本が併合することに大きく近づいたのである。この互換条約は、清朝から勝ち取った外交上の大きな成果であった。

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