文化・芸術

2017年6月21日 (水)

知られざる清水寺(その3)

知られざる清水寺(その3)

なお、清水寺の境内には、「阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)の碑」がある。これも清水寺の聖性を示すひとつの記念碑であるので、この際、それを紹介しておきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/ateruinohi.pdf






2017年6月19日 (月)

知られざる清水寺(その2)

知られざる清水寺(その2)

清水寺は「聖地」と「魔界」の交錯する「場所」である。

清水寺は法相宗系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺、長谷寺などと並び、日本でも有数の観音霊場となっている。

778年、大和国興福寺の僧で子島寺で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。
年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。

その2年後の780年、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年 - 811年)は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。805年には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、810年には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。『枕草子』は「さわがしきもの」の例として清水観音の縁日を挙げ、『源氏物語』「夕顔」の巻や『今昔物語集』にも清水観音への言及があるなど、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる。



2017年6月17日 (土)

知られざる清水寺(その1)

知られざる清水寺(その1)
アースダイバー地図

縄文時代は現在の海水面が3mほど高かった時期がある。いわゆる約6000年前の縄文海進であり、関東平野は栗橋まで海であったと言われているが、京都盆地でも淀川から海水が入り込んでいた。その海岸線を想定して当時の地形を示したのが「アースダイバー地図」である。地質学的には平野部には洪積層の上に沖積層が重なっているが、その辺の様子を明らかにした「日本第4紀地図(日本第4紀学会編)」というのがあるので、中沢新一は、それをもとに縄文時代の地形図を作っている。それが「アースダイバー地図」である。平野部に岬のように突き出した尾根筋が問題で、中沢新一は次のように言っている。すなわち、

『 古墳時代までの古代神道は、死穢(しえ)を嫌わない。いやそれどころか死者儀礼こそが信仰の中核を占めていたのだから、そこで繰り広げられていた信仰には、必ずや死の要素が深く組み込まれており、そのことが中世の仏教と習合して死の要素を取り入れた独特の神仏習合の形態を生み出している。中世においてそのような宗教の中心となっていた寺院や神社の所在場所を「アースダイバー地図」で確かめてみると、そういう場所の多くが、古代の「岬」やそこにうがたれた渓谷であったことに、私たちは気づくことになる。
「アースダイバー」はこのような仮説を出発点に、これまで得られた人文科学の知識を書き換えていこうとする試みである。』・・・と。

中沢新一は、その著「野生の科学」(2012年8月、講談社)の中でそのように述べ、稲荷山の「アースダイバー地図」を示している。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/aasutizu.pdf

2017年6月14日 (水)

北条泰時について

北条泰時について

北条泰時は確かに日本史における最も興味深い人物であり、また梅棹忠夫氏が評されたように「日本で最初の政治家(ステイツマン)」であり、あらゆる意味で重要な人物である。
泰時は、まず幕府の移転を行ない人心の一新を行なった。同じ鎌倉の中ではあるが、大蔵から宇都宮辻に役所を移転したのである。政子の死後半年のことである。そして間髪を入れず、将軍予定者の三寅の元服と将軍就任である。
泰時は派手派手しさがないから、義時急死・鎌倉帰還・伊賀氏の陰謀の制圧と処理・政子の死・幕府の移転・三寅の元服と将軍任命・新体制の整備が驚くべき速さで進んで行ったことに人は案外気づかない。さまざまな意味でその見通し、計画、処置は的確であった。

まず彼は京都・鎌倉をはじめとする全国の富者から、泰時が保証人となって米を借り、それを郡・郷・村の餓死しかかっている人に貸し与えた。彼は、来年平年作にもどれば元金だけ返納せよ、利息は自分が負担しようといってその借用証を手許に置いた。 
しかし泰時は結局資力のない者には返済を免除し、それはすべて自分で負担したので、大変な貧乏をした。

彼は常に質素で飾らず、館の造作なども殆ど気にかけなかった。 
さらに無欲な者を愛するとともに、作為的に何かを得ようとする者、いわば「奸智の者」を嫌った。 
裁判になった場合でも、敗訴した者が率直に自分の非を認めれば、泰時は決してそれ以上追及しなかった。 
下総の地頭と領家が相論したとき領家の言い分を聞いた地頭が即座に「敗けました」といった。泰時はその率直さに感心して、相手の正直さをほめたという話が「沙石集」にある。一方この逆の場合、すなわち裁判に不服なものが実力で抵抗すると脅迫しても、彼は少しも屈しなかった。北条氏は絶対的権威でないし、相手は武力をもっているからそのような抵抗が起って不思議ではない。そういう場合の泰時は実に毅然としていた。いわば怨を恐れて「理」を曲げれば、それが逆に、権威なき政権の破滅になることを知っていたのである。いわば彼の一生は、「ただ道理の推すところ」を貫き通し、この「道理を推すこと」を貫き通すことだけを権威としていたわけである。
これが「日本最初の政治家(ステイツマン)」といわれる理由であろう。
この論文は、そういう偉大な政治家・北条泰時について書いたものである。北条泰時の生い立ちについて書いたものはネット上存在しない思われるので、多分、この論文は貴重な資料になるであろう。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yasutokini.pdf



2017年6月12日 (月)

中国伝来文化

中国からの伝来文化

文化とは、人間が生きていく上で必要な教養の総体である。その文化の形成過程において技術、宗教、政治、芸術の専門的な活動というもが当然あるしまた必要であるが、最終的には多くの人びとの共通感覚として日常生活に生かされなければならない。したがって、私は、文化のうち生活文化に特に重大な関心を持って中国伝来文化を見ていきたいと考えている。

文化というものは、それぞれの時代で然るべき変形を受けてはいるが、前の時代の影響を受けている。したがって、現在の生活文化についても、相当古い時代の影響を受けている。

縄文時代に中国からどのような文化が伝来してきたのかはよくわかっていない。しかし、弥生時代以降は、わかっている。弥生時代から古墳時代にかけての中国伝来文化は、次の通りである。

紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。

宮本常一は、「アタ族」という海洋民族の技術の中に製鉄技術があることをを推定された。それらの技術は、広東省「広州」からの渡来民・アタ族によって日本にもたらされたと見なされている。

日本が縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていたとき,秦の時代の中国に徐福(じょふく)という人物がいた。中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し、その子孫が「秦」(は た)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在するのである。

丹後地方では、すでに弥生時代前期末から中期初頭の峰山町扇谷(おうぎだに)遺跡から鉄器生産に伴う鍛冶滓(かじさい)が出土しており、鉄器の生産が行われていたことが知られている。

邪馬台国の時代より前、後漢後期の鏡「三段式神仙鏡」が日本に入ってきていたらしい。

邪馬台国の時代に、中国から多くの文化が日本に入ってきて、日本文化の形成に計り知れない影響を与えた。

漢字の伝来は西暦285年、応神天皇の御代16年に百済の王仁によって「論語」と「千字文」が伝えられた。そのように「古事記」には書名が、「日本書紀」には年代が記されている。

日本へ儒教が伝わったのは仏教よりも早く、継体天皇の時代の513年、百済より五経博士が渡日して以降のことである。

高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島を経て日本に伝えられた。

秦氏は、新羅系の渡来人であるが、新羅系に限らず、さらには渡来系や在来の人たちに限らず、また鉱山や鍛冶に限らず、土木や養蚕や機織りの技術集団を束ねて全国の殖産に力を発揮した一族である。

仏教が政治的公的に「公伝」が行われたのは、6世紀半ば、継体天皇没後から欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられたのをはじめとする。しかし、仏教の受け入れについては、蘇我氏と物部氏の崇仏・廃仏論争があって、意見が二分されたのを見た欽明天皇は仏教への帰依を断念し、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可した。

以上の通り、邪馬台国の時代以降、応神天皇を初代とする大和朝廷の時代に入ると、誰がどのような文化を中国からもたらしのかがかなり具体的にわかってくる。その中で特に特筆すべきものとして、道教と医心方がある。そこで、この論文では、第1章は「道教に思いを馳せて!」とし、第2章では「中国伝来の医療・・医心方とその周辺」とし、道教の思想が我が国に及ぼした影響を詳しく書くとともに、医心方に寄せる私の思いを相当詳しく紹介した。この第1章と第2章がこの論文のハイライトである。

しかし、その他にも特筆すべき事柄が多い。遣隋使や遣唐使によって留学生らが持ち帰ってきた中国の文化のほか、誰がもたらしたかわからないけれど中国伝来文化が日本の文化の根底にあるものが実に多い。それらを全て紹介しきったわけではないけれど、私のわかる範囲で紹介した。それが第3章「その他の特筆事項」である。

この論文の全体は次の通りである。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tyuudenrai.pdf

2017年6月10日 (土)

天山(その12)

天山(その12)
第6章 キジル石窟について

1、第6章の要点:

第1章で述べたように、第一次探検は、長らく謎の地の山であった霊鷲山を発見し、また、タクラマカン砂漠に入り、ホータン・クチャなどを調査した。霊鷲山は釈迦が最後の説教をしたところとして知られている。

インドのガンジス川流域で生まれた仏教は、天山山脈の南を通るシルクロードのオアシス都市、ホータン、クチャ、トルファンに伝わった。

ホータンは仏教が隆盛した所としてとりわけ名高い。また、クチャは、西域最大の仏教石窟キジルがあり、華麗な仏教壁画で知られる。

「般若経」や「法華経」、「阿弥陀経」を翻訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)はクチャ出身である。鳩摩羅什の漢字に翻訳した「法華経」は、智顗の法華経を中心とした天台宗を生み出し、それが最澄に伝わり、やがて日蓮を生み出す。シルクロードがあってはじめて今の日本がある。

また、クチャは音楽の町で、踊って楽しそう。わが国邦楽の故郷みたいなところでもある。

2、第6章のキーワード:

霊鷲山(場所):http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/ryoujyusen.pdf
釈迦の最後の説教(法華経の霊性):http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hokerei.pdf

3、第6章の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/siruten6.pdf

2017年6月 8日 (木)

天山(その11)

天山(その11)
第5章 葡萄溝

1、第5章の要点:

人を魅惑する葡萄溝は火焔山地方の「ユートピア」である。

葡萄溝(ぶどうこう)中国語で葡萄沟と書き、英語ではGrape Valleyという。葡萄溝は、トルファンにおけるブドウや他の果物を育てている地域である。市内から東へ約10キロメートルのところにあり、幅約600~2000m、長さは約8キロメートルに及ぶ。トルファンは本来灼熱地帯であるが、天山山脈からの川や地下のカレーズなどを水源として使ってブドウやその他の果物を育ててきた長い歴史がある。葡萄溝は火焔山の西側の峡谷で、布依魯克川が雪解け水を運んでいる。マーナイツ(馬奶子)というタネなしブドウでも知られる。また、レーズンやその他の干し果物も売っている。

2、第5章のキーワード:

火焔山の水:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kaenzanno.pdf

3、第5章の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/siruten5.pdf


2017年6月 6日 (火)

天山(その10)

天山(その10)
第4章 トルファンとカレーズ

1、第4章の要点

トルファンは、古代におけるシルクロード、天山北路と天山南路の一大拠点であり、歴史的な観光として

雅爾湖(ヤールホト)古墳群(交河故城)
アスターナ古墓群
洋海墓群(火焔山)
高昌故城
ベゼクリク石窟寺院
蘇公塔
ベゼクリク千仏洞
トルファン博物館

などがあるが、何と言っても観光の見所は、カレーズと市内の葡萄棚ならびに葡萄溝その他点在する葡萄畑である。

現在なおカレーズは生きていて、トルファンの人々は、そのお陰で、大変豊かな生活をしている。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mizutorufan.pdf

したがって、人々はそれぞれ地域に関係するカレーズの維持管理を自主的にやっているようだ。 トルファンでは、市民に対して、技術的指導をする専門家が何人かいるらしい。
BSフジの特別番組『日中共同制作 天山を往く~氷河の恵み シルクロード物語~』では、 その様子を放映していたが、残念ながらその写真はネットで見つけることができなかった。
したがって、私たち一般の人間は、「カレーズ博物館」で地下水路の中に入って、その様子を想像するほかはない。カレーズ博物館は、中国語で吐魯番坎儿井乐园または吐魯番坎児井博物館というが、英語でTurpan Karez Paradiseというので、ウィキペディアでは「 トルファン・カレーズ楽園」と言っている。トルファンの地下水利施設であるカレーズをパノラマ展示で理解し、カレーズも実際に見ることができる。

2、第4章のキーワード:

火焔山:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%84%94%E5%B1%B1

カレーズ博物館:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/karehaku.pdf


3、第4章の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/siruten4.pdf

2017年6月 4日 (日)

天山(その9)

天山(その9)
第3章 天山について

1、第3章の要旨:

2016年2月21日(日)の(19:00~20:55)に、BSフジの特別番組の放送があった。素晴らしい番組で、私は、深い感動を思えたので、このホームページを作ることとした。

放送のあらすじは次の通りである。

『 日本から約4600キロ、中国の最西端、ユーラシア大陸の中央に鎮座する天山山脈。標高7000メトールを超える峰々が、天を突くように聳えている。
  2014年6月、シルクロードは世界文化遺産に登録された。そして、シルクロードは、天山山脈がなければ存在し得なかったのではないかと言われている。タ クラマカン砂漠やゴビ砂漠が広がる中国西部は、天山の頂から流れ出る雪解け水があったからこそ、動物や草木、そして人類も生きることができた。』

  番組は、中国の新疆ウイグル自治区にある天山第一氷河から始まる。長年にわたりここの氷河を研究している千葉大学・竹内望教授。竹内教授の専門は、氷上に 生きる生物の研究。カメラは竹内教授の現地研究に同行した。するとなんとも不思議な黒い氷河が目に入る。この黒色の正体は、氷河の表面に生息している微生物のクリオコナイト。28億年前、地球上で最初に酸素を生み出したと言われる微生物だ。そのクリオコナイトは、太陽光を吸収しその熱で、氷を溶かしている ことが竹内教授らの研究で分かってきた。

この番組で言っていたが、 千葉大学・竹内望教授は、「シルクロードは、天山山脈がなければ存在し得なかったのではないか」と考えておられるようだ。

2、第3章のキーワード:

天山第一氷河:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tenzandaiiti.pdf

クリオコナイト:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kuriokonaito.pdf

3、第3章の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/siruten3.pdf

2017年6月 2日 (金)

天山(その8)

天山(その8)
第2章 新疆ウィグル自治区について

1、第2章の要点:

新疆ウイグル自治区は中国の最西部に位置しており、東部から南部にかけて、それぞれ甘粛省、青海省、西蔵自治区と省界を接している。また、インド、パキスタン、アフガニスタン、タジキスタン、キルギス、カザフスタン、ロシア連邦、モンゴル国の8カ国と国境を接し、国境線の総延長は約5,700kmに達する。国境を接する国の数は、中国の行政区分で最大である。

烏魯木斉(ウルムチ)は、新疆ウィグル自治区に位置する地級市、自治区首府である。自治区人民政府が設置される中国西部最大の都市である。市区人口は135万人、都市圏人口は183万人。言語・文化・経済の面などにおいて、中国の東部よりもタシュケントのようなはるか西方の各地とより強く結びついている。ウルムチは、天山山脈の東に位置する大都市である。

2、第2章のキーワード:
ウルムチ:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/urumuti.pdf

3、第3章の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/siruten2.pdf


より以前の記事一覧

その他のカテゴリー