文化・芸術

2018年4月20日 (金)

中国観光(その5)

中国観光(その5)

紀元前11世紀の西周に始まり、中国を統一した秦、そして唐まで11の王朝が都を置いた西安。長安と呼ばれた唐の時代はシルクロードの東の拠点として、遥かヨーロッパと、東西の文物が行き交いました。

西安: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/seian.pdf

2018年4月16日 (月)

中国観光(その4)

中国観光(その4)

北京は、中国の代表的な観光都市として知られ、50万年前からの人類が生活してきた歴史、3000余年の街造りの歴史、700余年も全国的な政権が都をこの地に置いた歴史があり、中国の七大古都の1つである。北京は古都にふさわしい第一級の名勝史跡に恵まれており、外国人観光客数、観光外貨収入は国内第1位である。紫禁城や天安門広場、庭園、古くから市民の居住する街並みである衚衕などがあり海外からの観光客も多く訪れる都市である。

北京: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/pekikan.pdf

2018年4月13日 (金)

中国観光(その3)

中国観光(その3)

四川省中部に位置する成都。四川省は平原と丘陵、山地が多くを占めており、九寨溝、黄龍、楽山大仏などの有名な世界遺産も多く存在するため、成都は四川省の観光の基点となっています。日本でも多くのファンがいる三国志の「蜀」の舞台でもある成都は、世界中から多くの観光客が訪れます。

また、成都がある四川省は辛い料理が有名で、麻婆豆腐や担担麺の発祥地でもあります。そして成都はパンダが見れることでも人気のスポット。昔から「天府の国」と呼ばれており、気候にも恵まれています。

成都市: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/seitosi.pdf

2018年4月10日 (火)

中国観光(その2)

中国観光(その2)

紹興市、旧名は越州。南宋の紹興元年(1131年)、会稽・山陰方面を治める事を目的として越州に府が置かれたために元号に因んで命名された。以後、府・路名として行政区分に用いられて都市名として定着した。

日本では紹興酒の産地としてよく知られており、また近代中国の文豪魯迅の生家がある。

紹興市: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/syoukousi.pdf

2018年4月 5日 (木)

中国観光(その1)

中国観光(その1)

朱家角鎮(しゅかかく-ちん)は中華人民共和国上海市青浦区に位置する鎮。典型的な江南水郷古鎮であり、「上海第一大鎮」と称される。

朱家角には北大街、東井街、西井街、大新街、東市街、勝利街、漕河街、東湖街、西湖街など幾条もの古い街がある。その中の北大街は2005年11月に上海市の「上海市十大休閒街」の一つとして選出された。

同里、甪直などに見られる、「運河―水門―茶館―市」の商業施設の相関関係を示す構造や、鎮の求心的場所としての廟や寺も残されている。また、放生橋(高位の僧侶が魚を放した場所)の上からは、百数十年経た茶館(外部と鎮内部の取引の場)も見られ、古典的商業の仕組みも散見できる。鎮内では鶏肉入りの粽が名物で随所で売られている。

朱家角: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/syukakaku.pdf








2018年4月 1日 (日)

四季吉村について

四季吉村について

既に呼べたように、秦末の乱を避け、妻子をひきつれて秘境にきたまま、外界との交渉がなく、子々孫々ここで平和に暮らしている人たちがいる。それが六朝「捜神後記」で言うところの桃源境である。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tenkuuno.pdf

しかし、これは秦末のことであり、実は、秦の始皇帝が中国を統一する前にも、揚子江の中流に揚子江文明を作った古代王国があって、それが秦の始皇帝に滅ぼされたこと、そしてその末裔が成都の近くの秘境に逃げ延びて、現在、その子孫が今なお生き続けていることが最近わかった。その王国は古蜀国といい、その子孫が今なお生き続けている村は四季吉村という。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sikikitimura.pdf


2018年3月28日 (水)

三国志その9(再掲)

三国志の数々の場面の中で私の好きなもう一つの場面はその9の「関羽千里行」です。それをもう一度じっくり読んでいただきたく、再掲しました。

その9、関羽千里行

「その8」では、いよいよ劉備討伐の決意を固め、曹操軍・二十万の大軍が劉備討伐に向かった。下邳の関羽はなんとか持ちこたえていたが、小沛の張飛と劉備は、それぞれ別の道へと落ち延びていくのである。劉備は止むを得ず袁紹を頼って翼州へ奔(はし)る。「かねての約束、たごうべからず――」と袁紹はただちに一軍を迎えに差向けて、玄徳の身を引取る。「その8」はそういう話である。

「その9」は、日頃関羽の武勇と人柄に惚れ込んでいた曹操は、なんとか関羽を自分の居城のある許都に迎い入れようとする。関羽は、「劉皇叔の二夫人、御嫡子、そのほか奴婢どもにいたるまで、かならずその生命と生活の安全を確約していただきたい。」という条件を出し、「いまは劉皇叔の消息も知れぬが、一朝お行方の知れた時は、関羽は一日とて、曹操のもとに晏如と留まっておるものではござらん。千里万里もおろか、お暇も告げず、直ちに、故主のもとへ立ち帰り申すであろう。」という本音を申し述べる。曹操はその条件を飲み、関羽を賓客として都・許都に迎い入れる。数年が経ち、劉備が生きているという噂が伝わってき、さらに劉備の手紙が届けられる。そして関羽の千里行が始まるのである。「その9」はかの有名な関羽千里行の話である。

曹操は関羽を厚遇し、関羽はそれに恩を感じ、官渡の戦いにおいては敵将の顔良(がんりょう)を斬って捨てるなどの功績を挙げ、曹操のために働いていたが、劉備の消息がはっきりすると、関羽は感謝の手紙を残して曹操のもとを去る。追っ手を差し向けようとする部下を、曹操は止め、彼は、関羽を追い別れを告げる。曹操は関羽が劉備のもとへ戻っていくことを理解していたのだった。
関羽は次々と関所を突破し、そこを守る将を斬り捨てていく。これが関羽の五関突破である。東嶺関(とうれいかん)の孔秀(こうしゅう)、洛陽の韓福(かんふく)、沂水関(きすいかん)の卞喜(べんき)、滎陽(けいよう)の王稙(おうしょく)、黄河の秦琪(しんき)と、5人の将を次々と打ち破っていく。最後には魏の猛将:夏候惇(かこうとん)が待ち受けており、刃を交えますが、そこに張遼(ちょうりょう)が曹操の言葉を携えて駆け付け、戦いは中止となり、関羽は再び劉備のもとへ向かうことになります。
しかしそこで、汝南(じょなん)の古城に立てこもるで張飛の消息が判明し、関羽はそちらへ向かい、張飛と再会する。小沛で曹操に敗れ、劉備・関羽らとはぐれてしまった張飛だが劉備の消息を求めているうちに古城にたどりつくのである。張飛は力づくで県令を追い出し、その地域を治めるようになっていたのである。その噂を聞きつけて、劉備の部下が集まるようになり、遂に、その古城で劉備三兄弟が再会を果たすのである。

その9、関羽千里行: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kansenri.pdf

2018年3月25日 (日)

三国志その1(再掲)

三国志の数々の場面の中で私の好きなはなんといってもその1の「桃園の誓い」です。それをもう一度じっくり読んでいただきたく、再掲しました。

その1、桃園の誓い
桃園の誓い(とうえんのちかい)は、桃園結義(とうえんけつぎ)とも称され、『三国志演義』や『通俗三国志』ならびに吉川英治の三国志の序盤に登場する劉備・関羽・張飛の3人が、宴会にて義兄弟(長兄・劉備、次兄・関羽、弟・張飛)となる誓いを結び、生死を共にする宣言を行ったという逸話のことである。
これは正史の『三国志』にない逸話であって創作上の話であるとされており、劉備が二人に兄弟のような恩愛をかけ、関羽・張飛は常に劉備の左右に侍して護り、蜀漢建国に際して大いに功績があった、という史実に基づいて作られた逸話である。

吉川英治は、その序文で

『 三国志には詩がある。(中略)三国志から詩を除いてしまったら、世界的といわれる大構想の価値もよほど無味乾燥なものとなろう。故に、三国志は、強いて簡略にしたり抄訳したものでは、大事な詩味も逸してしまうし、もっと重要な人の胸底を搏つものを失くしてしまう惧れがある。で私は簡訳や抄略を敢てせずに、(中略)主要人物などには、自分の解釈や創意をも加えて書いた。』・・・と記しており、原作や訳書にこだわらずに、吉川英治流の味付けで日本人向けに物語を描くことを宣言している。

『三国志演義』冒頭の劉備・関羽・張飛三人による桃園の誓いも、原作ではあっさりと三人が意気投合してすぐさま義兄弟となるのに対し、張飛との運命的な出会い、黄巾族にさらわれた美女芙蓉との恋心、張飛や関羽と劉備の母との出会いなど、大胆な改編を行って三兄弟の人物描写を読者に強烈に印象づけている。実際に三人が義兄弟の盟を結ぶのは、それらの話が終わってからである。冒頭の三兄弟に関しては完全に吉川独自の物語となっている。
三人が義兄弟の盟を結んでから、いよいよ旗揚げをして、義勇兵として黄巾族討伐に向かう。

その1、桃園の誓い:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/touennoti.pdf

2018年3月21日 (水)

三国志(その16)

その16、劉備の入蜀

「その15」は、劉備がどのように荊州を手にれるかという話と、漢中と蜀の状況に関する話であったが、「その16」は、いよいよ劉備が入蜀し、蜀を手に入れる話である。

覇者は己れを凌ぐ者を忌む。張松の眼つきも態度も、曹操は初めから虫が好かない。しかも、彼の誇る、虎衛軍五万の教練を陪観するに、いかにも冷笑している風がある。当然、曹操は赫怒した。張松はたちまち大勢の兵に囲まれて遮二無二、練兵場の外に引きずり出された。そして鉄拳を浴び、足蹴をうけ、半死半生にされて突き出された。

張松はすぐに本国へ帰ろうと思った。しかし、彼は途中から道をかえて、荊州のほうへ急いでいたのだった。かくて彼は、期せずして趙雲子龍、関羽、劉備の歓待を受け、蜀を托するには劉備こそふさわしいとひそかに思い、帰り際に「西蜀四十一州図」一巻を献呈する。そして自分の親友二人(法正と孟達)のなを告げて蜀に帰る。蜀に帰ると直ちに主君劉璋に頼るべきは曹操ではなく劉備こそふさわしいと説得する。

その後しばらくして、劉璋の使者・法正がやってきて劉備の入蜀をお願いする。劉備は公明と相談、さまざまな情勢分析の上、入蜀を決断する。荊州には、孔明が残ることになった。その配備は。襄陽の堺に関羽。江陵城に趙雲子龍。江辺四郡には張飛。といったように、名だたる者を要所要所にすえ、孔明がその中央荊州に留守し、四境鉄壁の固めかたであった。

劉璋と玄徳との対面の日は来た。両者の会見は、和気藹々たるものであった。「世は遷り変るとも、おたがい宗族の血はこうして世に存し、また巡り会って、今日をよろこぶことができる。力を協せて、ふたたび漢朝の栄えを見ることに兄弟ひとつになろうではありませんか」情を叙べるに玄徳は涙し、劉璋も力を得て、彼の手を押し戴き、「これで蜀も外から侵される心配はない」と、かぎりなく歓んだ。歓宴歓語、数刻に移って、玄徳はあっさり帰った。彼のつれて来た五万の軍勢は、城外の江江畔(ふこうこうはん)においてあるからである。

その後、劉璋の求めに応じて、葭萌関(かぼうかん)において漢中の張魯軍と対峙することとなる。葭萌関は四川と陝西(せんせい)の境にある難攻不落がある。張魯軍はそこに立てこもっている。両軍は悪戦苦闘のままたがいに譲らず、はや幾月かを過していた。

そんな折、曹軍が南下してきたので、呉の孫権から荊州へ救いを求めてきた。やむなく劉備は、劉璋に対し、兵と粮食を借り求めた。しかし、劉璋は、戦線には用いられないような老朽の兵ばかり四千人と穀物一万石、それに廃物にひとしい武具馬具などを車輛に積んで、使者と共に、玄徳へ送りとどけた。玄徳はその冷淡に怒った。

葭萌関を退いた玄徳は、ひとまず 涪水関(ふすいかん)の城下に総軍をまとめ、 涪水関を占領する策を練った。そして劉備は、策を講じて涪水関をとる。劉備は、その涪水関を拠点として、成都周辺の要害を次々と手中に納めていった。そんな折、呉の孫権の使者が漢中に来る。張魯はたちまち力を得、かねての野望を達せんと、漢中軍をもって葭萌関へ攻めかかる。

そんなこともあって、劉備は苦境に陥るが、そんな折、孔明は、荊州の守りを関羽と関平に任せ、張飛や趙雲の率いる劉備軍を伴って、劉備のもとにやってくる。

その頃、忽然と、蒙古高原にあらわれて、胡夷の猛兵をしたがえ、隴西(甘粛省)の州郡をたちまち伐り奪って、日に日に旗を増している一軍があった。建安十八年の秋八月である。この蒙古軍の大将は、さきに曹操に破られて、どこへか落ちて行った馬騰の子馬超だった。征くところ草を薙ぐように、敵を風靡し、この軍団は、強大になった。これを曹操は見逃すわけはない。夏侯淵、姜叙、楊阜の軍が攻めてきたのである。さすがに魏軍は強力。馬超は乱軍のなかをよく戦いつつ、一族の馬岱、 徳などと共に、城外遠く、何処ともなく逃げ落ちて行った。

馬超とその部下、馬岱、 徳などの六、七騎は、流れ流れて漢中にたどりつき、この国の五斗米教の宗門大将軍張魯のところへ、身をよせた。そして、葭萌関に向かう。葭萌関へ新たにかかって来た敵は馬超という西涼第一の豪雄である。これに対して張飛が立ち向かう。なんども戦うが二人の勝負は容易につかない。このままでは二人のどちらかが死ぬ。劉備はそうさせてはならないと考えた。そのとき孔明は、すでにいろいろと手を打っていたらしく、馬超を味方に引き入れることに努力する。結果、遂に、馬超は劉備の配下となる。
馬超は、玄徳に向って、「ご奉公の手始めに、私と、私の従弟の馬岱と、ふたりして成都におもむき、劉璋に会って、張魯の野心を語り、また漢中の内情を告げ、劉皇叔の兵と戦うことの愚かなることをよく説いてみたら――と思いますがどうでしょうか」と、進言した。そして、その結果、遂に、劉璋は、城を出て劉備に降参の意を表した。玄徳はみずから迎え立ち、劉璋の手をとって云った。「私交としては、人情にうごかされるが、時の勢いと、公なる立場から、きのうまで、成都を攻め、今日、あなたの降を容れることとなった。かならず個人同志の情誼と、公人的な大義とを混同して、この玄徳を恨みたもうな」玄徳の眼には、熱い涙すらみえたので、劉璋は、むしろ降伏の時を遅くしたことを、自身の罪と思ったほどであった。そして、劉璋は蜀を去って、荊州の南郡に移り、まったくその地位と所をかえて余生する身となった。

この後、劉備が漢中を手に入れ、漢中王となるまでにはいろいろな劇的な場面があるのだが、それについては本文を読んでもらいたい。ここでは省略する。


 

その16、劉備の入蜀: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nyuusyoku.pdf

2018年3月18日 (日)

三国志(その15)

その15、草刈場・荊州

「その14」は、赤壁の戦いの話であったが、「その15」は、劉備がどのように荊州を手にれるかという話と、漢中と蜀の状況に関する話である。

曹仁、曹純、曹洪の魏の軍がその居城・南郡城を出て周瑜の軍と激しい戦いをしているその間に、趙子龍の率いる劉備軍が南郡城を占領してしまう。孔明は、趙子龍が南郡の城を取るや否や、すぐ曹仁の兵符(印章)を持たせて人を荊州に派し、(南郡あやうし、すぐ救え)と云い送った。荊州城の守将は、兵符を信じて、すぐ救援に駈け出した。荊州の城の留守を測っていた孔明は、すぐ張飛を向けてそこを占領する。同時にまた、同様な手段で、襄陽へも人をやった。(われ今あやうし。呉の兵を外より破れ)と、いう檄である。
襄陽を守っていた夏侯惇も、曹仁の兵符を見ては、疑っているいとまもなく、直ちに城を出で、荊州へ走った。かねて孔明の命をうけていた関羽は、すぐ後を乗っ取ってしまう。かくて南郡、襄陽、荊州の三城は、血もみずに、孔明の一握に帰してしまったものである。

荊州、襄陽、南郡三ヵ所の城を一挙に収めて、一躍、持たぬ国から持てる国へと、劉備はその面目を一新した。

零陵の太守劉度も劉備軍は難なく降伏せしめ、玄徳、孔明は轡をならべて、零陵へ入城する。前の太守劉度は、そのまま郡守としてここに置き、子の延は劉備軍に加える。

そしてさらに、桂陽(湖南省・榔県)へ進んだ。桂陽の太守・趙範も趙子龍へ、降参を申し入れる。その後日談として、趙範の兄嫁である美女の縁談話があり、劉備も仲人を勝手でるが、趙子龍は断る。趙子龍曰く。「私も美人は嫌いではありません。けれど、趙範の兄とは、遠い以前、故郷で一面識があるものです。今、それがしがその人の妻をもって妻としたら、世の人に唾(つば)されましょう。また、その婦人がふたたび嫁ぐときは、その婦人は貞節の美徳を失います。」と。玄徳も孔明も、黙然とふかくうなずいたまま、後は多くもいわなかった。趙子龍こそ真に典型的な武人であると、後には人にも語ったことであったが、その時はわざと一片の恩賞をもって賞したに止まった。

また、武陵の太守金旋も、張飛に攻められ、城門をひらき、張飛を迎え入れて、元来、玄徳を景慕していた由を訴えた。玄徳は鞏志を武陵の太守に任ずる。

太守韓玄の治める長沙も、関羽の働きによって陥落する。そして劉備は良将・黄忠と魏延を獲るのである。

ほどなく玄徳は、荊州へ引揚げた。中漢九郡のうち、すでに四郡は彼の手に収められた。ここに玄徳の地盤はまだ狭小ながら初めて一礎石を据えたものといっていい。

周瑜は孫権の妹・妙齢の呉妹君と劉備との縁談を進める。いずれ挙式の前後に、機を計って、劉備を刺し殺してしまおうとするとんでもない策略である。しかし、劉備は、孔明の意見も聞いた上で、承諾して呉に向かう。
呂範は、媒人役として、当然、玄徳の客館へ、その日の迎えに出向いた。玄徳は、細やかな鎧の上に、錦の袍を着、馬も鞍も華やかに飾って、甘露寺へおもむいた。趙雲は、五百の兵をつれて、それに随行した。甘露寺では、一山の僧衆が数十人の大将と迎えに立ち、呉侯孫権をはじめ、母公、喬国老など、本堂から方丈に満ち満ちて待ちうけていた。玄徳の態度は実に堂々としていた。温和にして諂わず、威にして猛からず、儀表俗を出て、清風の流るるごとく、甘露寺の方丈へ通った。「さすがは」と、一見して、呉侯孫権も、畏敬の念を、禁じ得なかった。争えないものは、人間と人間との接触による相互の感情である。ひと目見て、孫権以上、彼に傾倒したのは母公であった。

相思相愛の二人・呉妹君と劉備は呉で新婚生活を楽しむが、孫権は二人がそのまま呉に残ることを望んで楼宮を造築する。楼宮の結構は言語に絶し、園には花木を植え、池畔には宴遊船をつなぎ、廊廂には数百の玻璃燈をかけつらね、朱欄には金銀をちりばめ、歩廊はことごとく大理石や孔雀石をもって張ってあった。しかし、荊州が風雲急を告げてきたので、劉備は荊州に帰ることとなる。それに対し、孫権は劉備を荊州に返してはならないと心に決め、いろいろと対策を講じる。呉妹君と劉備の二人は、苦労しながらも呉を脱出する。怒った孫権は、返してなならじと追っ手を差し向ける。その時の劉備にしたがう呉妹君の気持ちと働きは、「その15、草刈場荊州」の一つのハイライトである。

荊州に無事帰り着いた劉備は、再び曹操の荊州攻略に立ち向かう。そのさなか、劉備は統(ほうとう)と出会い、配下に向かい入れる。統は、字が士元、襄陽名士のひとりで、孔明がまだ襄陽郊外の隆中に居住していた頃から、はやくも知識人たちの間には、統ハ、鳳凰ノ雛。孔明ハ、臥セル龍ニ似ル。――と、その将来を囑目されていたのだった。
結局、統は、副軍師中郎将に任ぜられ、総軍の司令を兼ね、最高参謀府にあって、軍師孔明の片腕にもなるべき重職につく。劉備は、「鳳凰ノ雛。孔明ハ、臥セル龍ニ似ル」と称された偉大なる二人の人物を得たことになる。これで劉備は蜀を手に入れる万全の準備ができたことになる。

その頃、馬騰の一族・馬超が西涼州(甘粛省・陝西奥地一帯)にいて、曹操と争っていた。馬超、韓遂の大軍が長安全城を占領してしまったため、長安全城の城主・鍾は、長安全城を逃げ出し、次の潼関に拠って、許都へ向って悲鳴をあげた。曹操は、ただちに三軍団を編成し、馬超討伐に向かう。曹操の本軍と夏侯淵の軍と曹仁の軍、魏の総力を挙げての対応である。結局、馬超は、追い詰められ追い詰められ、また、取って返しては敵に当り、踏み止まっては追手と戦ったが、果ては、わずか三十騎に討ちへらされ、夜も寝ず、昼も喰わず、ひたすら西涼へさして逃げ落ちた。

ところで、その頃の漢中(陝西省・漢中)の状況であるが、漢中の住民のあいだを、一種の道教が風靡していた。五斗米教である。中央に遠い巴蜀の地である。令を以て禁止することも、兵を向けて一掃することもできない。そこで教主張魯に対しては、卑屈な懐柔策を取ってきた。彼に鎮南中郎将という官職を与え、漢寧の太守に封じて、そのかわりに、「年々の貢ぎを怠るなかれ」と誓わせて来たのである。その張魯は、勢力拡大のため、入蜀の準備を進めていた。

巴蜀。すなわち四川省。四川省の盆地は、米、麦、桐油、木材などの天産豊かであり、気候温暖、人種は漢代初期からすでに多くの漢民族が入って、いわゆる巴蜀文化の殷賑を招来していた。その都府、中心地は、成都である。北方、陝西省へ出るには有名な剣閣の嶮路を越えねばならず、南は巴山山脈にさえぎられ、関中に出る四道、巴蜀へ通ずる三道も嶮峻巍峨たる谷あいに、橋梁をかけ蔦葛の岩根を攀じ、わずかに人馬の通れる程度なので、世にこれを、「蜀の桟道」と呼ばれている。蜀の劉璋は漢の魯恭王が後胤といわれ、父劉焉が封を継いでいたが、その家門と国の無事に馴れて、いわゆる遊惰脆弱な暗君だった。漢中の張魯が攻め込んでくるのではないかと戦々兢々としていたのである。蜀の諸大将も、みな怯えた。評議の席で張松が、曹操に助力をしてもらおうとする案を献策した。その献策にしたがい、劉璋は、金珠錦繍の贈物を、白馬七頭に積んで、張松に託した。もちろん曹操への礼物である。千山万峡、嶮岨を越えて、使者の張松は都へ向った。張松は曹操と会見できたが、どうもウマが合わないのか、張松の説得がまずかったのか、曹操はなかなかいい返事をしない。


その15、草刈場・荊州: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kusakariba.pdf



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