文化・芸術

2017年9月26日 (火)

反民主主義論(その15)

反民主主義論(その15)

第2章 民主主義の本質(その6)
第2節 イギリスの民主主義について・・・ 近藤康史の「分解するイギリス」 (2017年6月、ちくま新書)より(その4)
3、イギリスとEU(その2)

「分解するイギリス」で、近藤康史は 「イギリスとEU」についてさらに次のように述べている。

保守党の側はどちらかといえば、ECに対して好意的な立場が主流であったが、1980年代のサッチャー政権期に、変化が見られるようになる。
この変化は、ECの側の展開とも密接にリンクしている。1980年代のECでは、関税以外のさまざまな障壁も取り除き、域内の市場の統一を目指す単一欧州議定書が調印されるなど、統合がもう一段階進んだのである。これが単に、自由化や規制緩和といった経済的領域だけの問題であれば、それはむしろサッチャーのネオ・リベラル的志向とも合致するものだっただろう。しかしEC統合が進展するにつれ、ECの権限を拡大し、ヨーロッパ規模の連邦国家的機構を目指す議論も登場してきた。その場合、加盟国はそれぞれ連邦国家における「州」のような存在になり、国家としての主権が制限される可能性がある。
サッチャーは、このような方向性に対して激しく反発した。1988年にサッチャーがベルギーで行ったいわゆる「ブリュージュ演説」では、その一言一言に、反発があからさまに示されている。「ヨーロッパ複合体の中心に集権化することは、私たちが求めている目標を傷つけ危険にさらすだろう。」「ヨーロッパは、フランスがフランスであり、スペインがスペインであり、イギリスがイギリスであるからこそ強くなるのだ。」「ユートピアは決してやってこない。」。
この演説がなされた1980年代終盤のECは、ジャック・ドロール委員長の下、単に市場統合を進めるだけでなく、市場から労働者を保護するための共通社会政策の形成へと動き始めていた。サッチャーはそれを、自由市場への障害であり、各国の主権を損なうとして拒否したのである。ECからの規制や介入の拡大を、「主権」の観点から警戒する議論が、保守党内で広がりつつあった。

その後、保守党内で決定的にヨーロッパ懐疑主義が強まったのは、1990年からのメージャー政権期であった。
そのきっかけの一つは、EC統合が一段階、勧められたことである。1992年のマーストリヒト条約においてECは、ユーロへと通貨を統合することと、共通の外交・安全保障や司法・内務の協力へと統合を進め、欧州連合(EU)を創設することを決めた。これまでの経済統合から政治統合へと踏み出すものであり、各国が国家主権に基づいて担っていた分野を、EUで共通で行う方向へと一歩進んだことを意味している。
したがってマーストリヒト条約は、より一層「主権」の問題に踏み込むものであったが、メージャ首相は批准するつもりであった。しかし、1992年にデンマークで行われた批准の可否を問う国民投票で否決となり、またその後のフランスでの国民投票では賛成が51%という僅差の結果となると、イギリスの保守党内での懐疑派は、反対の立場から勢いを増していく。

イギリス政治の研究者であるアグネス・アレクサンドル=コリアは、この頃からイギリスのヨーロッパ懐疑主義は、単にイデオロギー的潮流として存在するだけでなく、「ブルージュ・グループ」といった形で、メディアなど議会外も含めて組織化されていったとしている。このような組織の支援にも基づいて、その後のEU関連での採決でも保守党から造反が相次いだ。





2017年9月24日 (日)

反民主主義論(その14)

反民主主義論(その14)

第2章 民主主義の本質(その5)
第2節 イギリスの民主主義について・・・ 近藤康史の「分解するイギリス」 (2017年6月、ちくま新書)より(その3)
3、イギリスとEU(その1)

「分解するイギリス」で、近藤康史は 「イギリスとEU」について次のように述べている。

イギリスにとってEUという争点は、単にヨーロッパ諸国との外交の問題にはとどまらない幅を持つ。EU域内での市場統合がイギリスにどのような利益をもたらすかという点では、経済政策の問題でもあった。また統合が進むにつれてEUで行われた立法が加盟国の法律に影響する事例は増えてきたが、それは主権の問題とも関連している。さらに、イギリスの人々は他の加盟国に比べれば「ヨーロッパ」に対するアイデンティティが弱く、EUの制度に対する信頼性が低いというデータが出ており、人々の認識や文化に関わる問題という側面も持つ。
EUが発展するにつれ、様々な分野に関わる多元的な問題として、イギリスとEUの関係は複雑化してきたのであった。また、このような複合的かつ多元的な争点は、二大政党の対立軸にはすっぽりとは収まらない。そのためEUとの関係をどうするかは、常に党内の対立の火種となってきたのである。

したがって、EU統合が進展すればするほど、つまりEUが多くの政策分野にまたがる存在になればなるほど、イギリス側では対立が複雑化し、混迷が深まるという、いわば反比例のような関係が、イギリスとEUとの間には存在していたのである。


現在のEUの発端は、1951年に、ドイツやフランスほか六カ国によって設立された欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)である。 ECSCはその後、加盟国間で共通の関税制度を適用し、その間での自由貿易の進展を目指して発展した。その結果、欧州経済共同体(EEC)、そして欧州共同体(EC)へと名称が変化するとともに、加盟国も増えていった。
イギリスは、発足当初には加盟していない。かってウィンストン・チャーチルは、第二次世界大戦直後の1948年に、イギリスがソ連に対抗する「三つの軸」の中心になるべきだと論じた。その三つとは、英米からなる大西洋同盟、英連邦、そしてヨーロッパである。とはいえ当時のイギリスは、その三つの中でも英米関係と英連邦を重視していた。
しかし、1956年のスエズ危機でアメリカの支援が得られず、イギリスは作戦の中止を余儀なくされるなど、アメリカとの関係は安定的ではなかった。また戦後において英連邦に対するイギリスの影響力も低下する一方であった。他方で、貿易面を中心にイギリスとヨーロッパとの関係は進展していく。このような状況の下、イギリスは、自由貿易圏でもあるECに加盟することで、市場を広げ、さらなる経済的利益を求めようとしたのであった。
イギリスは、1961年のマクミラン保守党政権時にEEC加盟を、67年のウィルソン政権時にEC加盟を試みるが、二度とも失敗してしまう。その理由は、イギリスの加盟を通じてアメリカの影響力が及ぶことを嫌った、フランスのド・ゴール大統領の拒否であった。ド・ゴール政権が終焉した後の1973年、ヒース保守党政権時に、ようやくEC加盟がかなった。
このころ二大政党のうちでもEC加盟により熱心だったのは保守党の方であった。その理由は、先にも述べたような経済的理由である。また、当時のECは経済統合が中心で政治統合はあまり進んでいなかったため、加盟によってイギリスの主権が脅かされるといったような反対は、保守党内でもまだ多くはなかった。ただし、一部のナショナリストによる批判は、当時から見られた。
むしろ反対が多かったのは労働党内においてである。ECが進める市場統合は、結局のところ企業経営者の利益を優先するような「資本家クラブ」であるとして、労働者を支持基盤とする労働党は警戒した。また、当時の労働党は国有化方針を掲げており、ECに加盟すれば経済における国家の役割は制限され、国有化ができなくなるのではないかという批判も、左派を中心に存在した。
とはいえ、EC加盟反対で労働党が一枚岩になっていたわけではなく、積極派の議員も存在した。EC加盟に関する議会での採決に関して、労働党は最も厳しい「三本のアンダーライン」によって、「反対」を投票するよう指示していたにもかかわらず、69名の労働党議員がそれに反対して「賛成」を投じたとされる。このようにECという問題はこの頃すでに党内対立の火種であり、賛成も反対も政党横断的に形成される構図であった。

それを受けて1975年には、ECに残留するかどうかの国民投票が行われた。この国民投票では、「残留」が70%近くを占め、加盟継続が決まった。


反民主議論(その13)

反民主主義論(その13)

第2章 民主主義の本質(その4)
第2節 イギリスの民主主義について・・・ 近藤康史の「分解するイギリス」 (2017年6月、ちくま新書)より(その2)
2、イギリスの議会

イギリスの議会は、1991年に国王の任命する貴族議員で構成される貴族院が無力化して、国の重要法案は選挙で選ばれた議員で構成される庶民院で決められることとなった。つまり、徹底した民主主義というか、徹底した国民第一主義となった。ポピュリズム政治の始まりである。ポピュリズム政治では、EUの問題など国を左右する問題が生じたとき、良識ある判断ができなくなり、勢い国民投票を行うことになる。したがって、イギリス民主主義の変質は貴族院の無力化から始まったと言える。「分解するイギリス」で、近藤康史は 貴族院の無力化の経緯 について次のように述べている。

イギリスの議会の起源は、貴族からの同意を調達する点にあり、その出自は貴族院(上院)にあるとも言える。庶民院(下院)が成立し、現代へとつながる二院制が確立したのはその後であり、当初は権限も貴族院の方が強かった。しかし、貴族院は選挙で選ばれる議員によって構成されるわけでなない。したがって、代表原理の観点からすれば、選挙で選ばれた代表からなる庶民院の方が、より強力な正統性を持つ。
19世紀以降に参政権拡大という形で民主主義化が進んでいくと、代表原理を有する庶民院の方が優位に立つようになっていく。庶民院の権限の強化は徐々に進んでいくが、貴族院との権限関係が、「下院(庶民院)の優越」へと決定的に結びつく画期となったのは1911年であり、その年に成立した議会法であった。
この頃、庶民院(自由党政権)の成立させた法案が、貴族院(保守党優位)で拒否されるという事態が続発し、庶民院と貴族院との間で対立が高まっていた。1909年の財政に関する法案の扱いをめぐって、その対立は頂点に達する。財政に関する法案については、19世紀にはすでに「下院(庶民院)の優越」が慣習化していたのだが、貴族院はそれを無視し、庶民院の決定を拒否したのである。
それに反発した自由党政権は、二度の解散総選挙を経て、貴族院の権限を制限する議会法を1911年に成立させた。その内容は、まず庶民院で開始された法案については、貴族院の反対があったとしても、最初の討論から三回の会期を連続して庶民院を通過した場合、国王の同意に送られるというものである。この規定によって、貴族院の拒否権は、2年間だけ法案成立を遅らせることができるという「一時停止的な拒否権」にとどめられる。第二に、歳入など予算にかかわる法案を「金銭法案」と規定し、これらは貴族院の同意が得られなくても、一ヶ月後には成立するとしたのである。



2017年9月21日 (木)

ホームページの更新(その16)

ホームページの更新(その16)

新しいホームページ(http://www.kuniomi.gr.jp/geki/2017hp/aratanahp.pdf)を更新しました。

更新した項目は、「地域づくり」です。

「地域づくり」は、今まで 「第1章山地拠点都市構想」を掲載してきましたが、新たに、「第2章新たな観光戦略と地域通貨」を追加しました。

第2章新たな観光戦略と地域通貨 : http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/aratanasen.pdf

ホームページの更新(その15)

ホームページの更新(その15)

新しいホームページ(http://www.kuniomi.gr.jp/geki/2017hp/aratanahp.pdf)を更新しました。

更新した項目は、「日中友好親善」です。

「日中友好親善」は、今まで 「第1章中国からの伝来文化」「第2章中国伝統文化を考える旅」を掲載してきましたが、新たに、「第3章新たに習近平に期待するもの」を追加しました。

第3章新たに習近平に期待するもの: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nittyuu03.pdf

反民主主義論(その12)

反民主主義論(その12)

第2章 民主主義の本質(その3)
第2節 イギリスの民主主義について・・・ 近藤康史の「分解するイギリス」 (2017年6月、ちくま新書)より(その1)
1、まえがき

かつて世界で「民主主義のモデル」として賞讃されたイギリス政治。だがそれはいまや機能不全に陥り、ブレグジット(Brexit)=EU離脱という事態へと立ち至った。イギリスがこのように「分解」への道をひた走っている真の原因はいったいどこにあるのか。安定→合意→対立→分解へと進んできた現代イギリス政治の流れを俯瞰し、すでにモデルたり得なくなった英国政治の現状をつぶさに考察。混迷をきわめる現代政治のシステムと民主主義モデルの、今後あるべき姿を問いなおした著書が 近藤康史の「分解するイギリス」 (2017年6月、ちくま新書) である。 「分解するイギリス」の「まえがき」で、近藤康史は次のように述べている。

 一つの出来事を境として、ある対象についての見方や評価が、一変してしまうという経験はないだろうか。2016年6月の国民投票において、イギリスが「EU離脱」を選択したことは、そういう出来事だったように思える。それを境に、イギリスが、とりわけその民主主義が、色褪せて見えるようになってしまった人もいるだろう。
 かってイギリスはm「民主主義のモデル」としてとらえられていた。イギリスは議会制民主主義をいち早く確立させるとともに、それが数百年もの間、壊されることもなく持続しており、その安定性も評価されてきた。
 加えて、その政党政治のあり方は、とりわけ近年の日本においては、到達目標にされてきた部分もある。安定した二大政党が生み出す、政策論争とアカウンタービリティーとの両立。それは政党の離合集散が激しく、政党システムが安定せず、政権交代もなかなか起こらず、さらに「決められない政治」が問題視されてきた日本にとって、理想像のようにとらえられてきた。
 しかし、EU離脱という決定を生み出した後でもなお、議会制を中心とするイギリス民主主義を、このような「理想」「モデル」とすることはできるだろうか。
そもそもEUの問題が、国民投票という議会外の手続きに委ねられたこと自体、議会における政党政治では「決められなかった」ことを示している。国民投票のキャンペーンにおいては、政策論争というよりも、事実に基づかない首長や明らかな間違い、あるいはデマが飛び交う場面が目立った。その過程では、移民がスケープゴートにされて社会の分断が露わになるとともに、残留を主張する議員が殺害されるという事件まで起きた。そしてEU離脱という非合理的とも見える結果は、世界に衝撃を与えた。
 このような国民投票の過程と結果は、イギリス民主主義への信頼性を揺るがせ、疑問視させるに十分であっただろう。しかし、このような変化は一朝一夕に起きたわけではない。「EU離脱」という決定はイギリス民主主義の変質を白日の下にさらすものではあったが、その変質は、もっと以前から、じわじわと進んできていた。



ホームページの更新(その14)

ホームページの更新(その14)

新しいホームページ(http://www.kuniomi.gr.jp/geki/2017hp/aratanahp.pdf)を更新しました。

更新した項目は、「旅の総括」です。

No5「京都の紹介」は、今まで 「京都の火祭り」を紹介してきましたが、新たに、を「紫式部ゆかりの地」紹介しました。

京都の紹介/ 紫式部ゆかりの地 : http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/murayukari.pdf


2017年9月18日 (月)

ホームページの更新(その13)

ホームページの更新(その13)

新しいホームページ(http://www.kuniomi.gr.jp/geki/2017hp/aratanahp.pdf)を更新しました。

更新した項目は、「旅の総括」です。

No5「京都の紹介」は、今まで 「釈迦谷の近辺」まで紹介してきましたが、新たに、「京都の火祭り」を紹介しました。

京都の紹介/ 京都の火祭り : http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kyouhima.pdf

2017年9月17日 (日)

反民主主義論(その11)

反民主主義論(その11)

第2章 民主主義の本質(その2)
第1節 アメリカの民主主義について(その2)

佐伯啓思は第10章の中で、さらに次のように述べている。すなわち、

『 ギリシャ人は、もともと、高い敬神の心をもった民族で、「神」や「自然」の秩序にさからえば人間社会に罰が下る、という思想をもっていました。災いをもたらすものは、「神」や「自然」の秩序を犯す人間の愚かさにある、と信じていた。人智を超えた秩序は人に対して与えられたもので、政治とは、本来、その自然の秩序をよりよい形で実現し、「神」の意志に従って社会を動かすものだった。それを民主主義は崩してしまったのです。』

『  民主主義とは、確かに一種の革命的な意味をもっていた。それは、「神」や「自然」によって与えられた秩序の存在をもはや信用せず、人間にはその矩や法を超えてはならない領分があるという信念もすべて放棄したところに成立するのが革命的な思想だった。ところが、そこに同時に、決定的なパラドックスも生じたのです。』

『 権力闘争によって政権交代がなされ、指導者が変わるたびに、社会改革の方向が変わってしまう。ここに民主主義のもつ決定的な矛盾、パラドックスがあります。これはきわめて重要な点なのです。それは、ただ論理的な想定といったようなものではなく、現実にいくらでも生じていることで、しかも、まさにそのことによって、民主政治という政治体制が、自らを崩壊へと導いてしまう、という種類のものなのです。』

『 アメリカ連邦政府を創設し、合衆国憲法を起草したひとりであるジェームス・マディソン、マディソンと一緒に「ザ・フェデラリスト」を書いたアレキサンダー・ハミルトン、「ヴァージニア権利憲章」を起草したジョージ・メイソンなどは、人民に大統領を選ばせるなど、盲人に色を当てさせるのと同様の愚行だ、といったぐらいです。
 だから、連邦政府を創出するという連邦主義には、ある点では、人民による政治参加をうまく避ける意図があったのです。各州の代表者などによる代表政治は、ある種のエリートによる討議によって物事を決定するという点で、民主主義に対する警戒感から出ているのです。公共意識をもった優れた少数者が、相互に対等な立場で自由な論議を尽くして物事を決定するという「共和主義」も、決して「民主主義」と等値されるものではなかったのです。
 人民がずかずかと国政の真ん中に入り込んでくると、それは、雑多な私的利益の無秩序な混融になり、そこから党派政治が生み出され、政治は堕落するというのがアメリカ建国の父たちが概して抱懐していた気分だったのです。
 そして、このアメリカ政治が文字通り、人民のためになる、つまり本格的な「民主主義」になるのは、1829年のアンドリュー・ジャクソン大統領就任によってでした。いわゆるジャクソニアン・デモクラシーと呼ばれるものです。
 奴隷を使った農業経営者として大成功した富裕な事業家であり、また屈強な軍事的英雄でもあったジャクソンこそは、まさに「強いアメリカ人」の象徴であって、圧倒的な大衆の歓呼によって大統領になったのです。彼がトランプのように吠えたかどうかは知りませんが、政党を作って全国大会を開催し、出し物とお祭り騒ぎと賄賂の中で選挙戦を行うというまさしく大衆動員の民主主義は、この時期に誕生したのです。』

『 後年の「民主主義者」は、このジャクソニアン・デモクラシーをアメリカ民主主義の輝かしい画期と見るでしょうが、ちょうどこの時代に(1831年から32年)アメリカを訪れたフランスの大貴族、アレクシ・ド・トクヴィルは、多大な戸惑いを感じながら、アメリカ政治を観察していました。トクヴィルは、一方で、アメリカに新たに誕生した民主主義というものが、アメリカ社会に大きなダイナミズムを与えており、この方向は、遅かれ早かれヨーロッパをも飲み込む歴史的潮流であることを予感しつつも、それに対して大いなる危惧の念を表明するほかなかったのです。彼はこういうことを書いていました。
 民主主義は平等への強い情念を呼び覚ます。しかし、この期待はいずれ失望へと変わる。こうしたことは特に下層のもののたえざる不満を生み出し、この平等を求める永遠の運動はひっきりなしに社会を動揺させる。』

『 トクヴィルがむしろアメリカ民主主義の最上の部分と見たのは、地方の小規模な町(タウンシップ)のようなコミュニティにおける市民による自由な自治でしたが、そこでは共和主義的な精神と宗教的・道徳的な価値がごく自然に人々の習俗の中に根を下ろしていたからでした。』

・・・と。



ホームページの更新(その12)

ホームページの更新(その12)

新しいホームページ(http://www.kuniomi.gr.jp/geki/2017hp/aratanahp.pdf)を更新しました。

更新した項目は、「旅の総括」です。

No5「京都の紹介」は、今まで 秀吉ゆかりの地である聚楽第と豊国神社まで紹介してきましたが、新たに、「釈迦谷の近辺」を紹介しました。

京都の紹介/釈迦谷の近辺: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/syakadanino.pdf


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