文化・芸術

2018年6月23日 (土)

故郷論の加筆修正

故郷論の加筆修正

私のホームページのWhat’sNewに「故郷論の加筆修正」を追加しました。

新たな「ふるさと創生」を考える上で、林業の再生と水田農業の再生は二つの大きな柱かと思う。林業のあり方については、梶山恵司の「日本林業はよみがえる」(2011年/1月、日本経済新聞出版社)が具体的な課題を明確にしているかと思う。

また、生源寺真一(元東京大学農学部教授)は、「日本の農業の真実」((2008年1月、岩波書店)のなかで、『ひとことで農業政策といっても、その範囲は実に広い。しかし、日本農業最大の問題は水田農業にある」と述べ、水田農業のあり方を的確に論じている

それらを基にして、この度、私の「故郷論」を加筆修正した。

私のホームページのWhat’sNew:  http://www.kuniomi.gr.jp/geki/

2018年6月22日 (金)

水田農業のあり方

水田農業のあり方

私のホームページのWhat’sNewとiwaiwordに「水田農業のあり方」を追加しました。
地域の役割については私の「故郷論」の中で一応具体的なことを書いたが、国の役割については、「ふるさと創生」の本質をよく考えて欲しいと述べただけで、その具体的な内容を書くことができなかった。新たな「ふるさと創生」を考える上で、林業の再生と水田農業の再生は二つの大きな柱かと思う。林業のあり方については、先般、梶山恵司の「日本林業はよみがえる」を紹介することで、日本林業のあり方について具体的な課題が明確になったかと思う。問題は農業のあり方である。

幸いにもこのたび、生源寺真一の「農業再建」((2008年1月、岩波書店)という本「日本の農業の真実」(2011年5月、筑摩書房)いう二冊の本が見つかった。梶山恵司の「日本林業はよみがえる」もそうだが、それらの名著を読まずして「故郷論」を書くなどお恥ずかしい限りである。梶山恵司の「日本林業はよみがえる」はすでに紹介したので、今回は生源寺真一の「農業再建」と「日本の農業の真実」を読みながら、彼のもっとも言いたいところを紹介したいと思う。今後、それに基づいて私の「故郷論」を加筆修正したい。

生源寺真一は、東京大学農学部教授、名古屋大学農学部教授を経て、現在は福島大学教授
。これまでに日本フードシステム学会会長、日本農業経済学会会長、食料・農業・農村政策審議会会長などを歴任。多くの著書がある。

生源寺真一は、「日本の農業の真実」のなかで、『ひとことで農業政策といっても、その範囲は実に広い。しかし、日本農業最大の問題は水田農業にある」と述べている。そこで、ここでは水田農業に焦点を絞って、「農業再建」と「日本の農業の真実」を読んでいくこととしたい。日本農業のあり方は、「日本の農業の真実」でわかりやすく論ぜられている。

政治の役割および行政の役割の重要性は絶大である。国は、生源寺真一の「日本の農業の真実」にしたがって、水田農業の再生、地域再生のために全力を尽くすべきである。

再度申し上げるが、故郷は、実際の故郷のみならず、心の故郷も含めて、ただ単に懐かしいという思いを抱かせるものにとどまらず、哲学的意味を持ったものであり、絶対に守りとおしていかなければならなものなのである。


私のホームページのWhat’sNew:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/


リズム論(その13)

リズム論(その13)

第2章 中村雄二郎の「リズム論」 (その5)
第1節 場所性について(その5)
5.身体的な場所について


身体的な場所とは何か? 中村雄二郎の説明によると、 これは、共同体、無意識、固有環境といった通常いうところの場所、厳密に言えば、<存在根拠(基体)としての場所>ということになるのだが、そう いう通常いうところの場所とかかわり、一部重なり合っているのだと中村は説明している。というのは、中村によれば、意識的な自我主体は、実際には身体とい う場所を基体とすることなしにはありえず、しかもそこに成立する身体的実存によって、空間的な場所は逆に意味づけられ、分節化されるからである。そして、 中村雄二郎は言う。そういう身体的実存によって意味づけられた空間、身体的実存によって分節化された空間というものは、身体の拡張としてとらえられる。す なわち、<身体的なものとしての場所>といってよいのだと。

やっぱり哲学者の説明は難しいですね。私たちには、身体的実存とか分節化という言葉まず使わないし、したがってすぐにはイメージが湧きませんね。
 先に述べたように、固有環境というのは、個体の生存と活動を成り立たせている生物学的、生態学的な基盤のことである。通常私たちがいうところの環 境は、もちろんここでいう固有環境であるし、私たちの身体もそういう意味で固有環境である。生物学的な基盤ですからね。空間的な場所というものは、もちろ ん生物的な基盤であるし、生態的な基盤である。したがって、間違いなく固有環境というか通常いうところの環境ではある。しかし、空間的な場所というのは、 それにとどまらず、抽象的な意味をも持っている。私たちの身体が拡張したものとしての意味を持っているというのですね。それは何故かというと、そういう抽 象的な空間は、実際の生物学的・生態的な空間ではあるけれど、身体的実存によって分節化しているからなんですね。いよいよわからなくなりましたでしょう か。
大きな樹木をイメージしてください。大きな枝が出ていますね。何でこんな枝が出てきたのか。最初は小さな芽が出てくるのですが、そこに節があって、 その節から枝が成長していく。太い幹から枝が分節化していくんですね。分節化というのはそういうイメージです。哲学者の使う言葉というものは厳密だ。枝分 かれといったのでは節がイメージされない。節がこの際大事な意味を持っているので、節がきっちりイメージされなければならない。生物学的・生態学的な実際 の空間など<存在根拠(基体)としての場所>というもの・・・、それは大きな幹だが、その幹には、身体的実存(身体性)という節があって、その節から抽象 的な意味をもった空間(枝)ができる。そういうイメージです。だとすれば、問題は節ですね。身体的実存(身体性)という節ですね。これは一体何なのか。

先に述べたように、共同体や無意識は、固有環境とちがって、ふつういう意味での空間的な場所を形づくるものではない。が、それらは、意識的自我がそ こにおいて成り立つ場あるいは場所を形づくっている。つまり、共同体、無意識、固有環境のいずれにもいえることは、それらが人間的自己にとって、基体とし ての場所、場所(基体)だということである。そういう<存在根拠(基体)としての場所>に身体的実存(身体性)という節がある。

ところで、身体は、人間的自己にとって、基体としての場所、場所(基体)であるとともに、目で見、耳で聞き、手で触れ、頭や心で意識をする主体でも ある。身体は、客観的身体と主観的身体の両義性を持っている。しかも、意識の世界のみならず無意識の世界を持っている。私は先に、純粋経験の多様性を説明 したなかで、「自己というものと自分の世界とは一対一に対応している」とか、<主客を没した知情意合一の意識状態が真実在である>であると述べた。また、 挙体性起(きょたいしょうき)ということに触れながら真実在のイメージを説明した。真実在が花しているとか岩井しているというイメージである。身体的実存 とか身体性というイメージが湧いてきたでしょうか。要するに、身体には物質性と精神性という両義性がある、それが節になって、身体の拡張としての空間がで きていくのである。
<身体的なものとしての場所>という意味がお判りいただいたとして、さらに中村雄二郎の説明を聞こう。

『しかし、<身体的なもの>として捉えなおすとき、場所はどのようなものとしてあらわれるだろうか。この場合、精神と身体とが実態的に区別され、前 者が後者のうちに宿ったり住まったりするのではない。そうではなくて、端的にいえば、むしろ活動する身体の自己意識が精神だということになる。私達は身体 を持つのではなく、身体そのものを生きている。生きており活動している以上、意識は世界に向かって働いているが、そういう意識に対して、私たちの身体は基 盤となり、したがって地平を形づくっているのである。
その上、活動する身体として、私たち一人ひとりは、世界に向かって開かれ、私たちの身体は、皮膚によって閉ざされた生理学的身体でなく、その境界を 越えた範囲にまで拡がっている。拡張された身体をわかりやすいかたちで示すものは、社会空間のなかで形づくられる固有の場としてのテリトリー(縄ばり)で ある。このテリトリーというのはもともとは動物行動学でいう棲み分けの範囲であり、個体あるいは種が支配的に振舞う範囲のことであるが、人間の場合にはそ れが心的意味をつよく帯びるとともに、特定の場所に固定されないで可変性を持っている。』
「身体的な場所」については以上である。

2018年6月19日 (火)

日本林業のあり方

日本林業のあり方
私のホームページのWhat’sNewとiwaiwordに「日本林業のあり方」を追加しました。

「日本林業はよみがえる」(2011年/1月、日本経済新聞出版社)という本があります。本の帯に書かれているが、日本の森林は「宝の山」であり、日本は世界に冠たる林業大国になれるということらしい。

しかしながら、梶山惠司さんの指摘するところでは、伐採も、植林も、育成も、そのやり方が間違っているという。林道の作り方も間違っているという。

どこが間違っているのか? 梶山惠司さんの指摘する間違いをこれから紹介し、日本林業のあり方を考える一助としたい。

是非、国は、日本林業のあり方を真剣に考えてほしい。政治の役割および行政の役割の重要性は絶大である。国は、林業再生、地域再生のために全力を尽くすべきである。

私のホームページのWhat’sNew:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/
iwaiword:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/iwaiword.pdf

2018年6月18日 (月)

リズム論(その12)

リズム論(その12)

第2章 中村雄二郎の「リズム論」 (その6)
第1節 場所性について(その6)
4.地霊的な場所について

地霊については、 論文「霊魂の哲学と科学」の第6章「霊魂の科学」から抜粋した私の説明があるが、さらにその要点を書き写せば以下のとおりである。

ゲニウス・ロキ(地霊)とは、現代建築において「ある場所の特有の雰囲気」を指す 言葉である。中村雄二郎は「ゲニウス・ロキは、それぞれの土地がもっている固有の雰囲気であり、歴史を背景にそれぞれの場所がもっている様相である」と説 明している。

日本でゲニウス・ロキ概念について最も詳細に語っているのは、鈴木博之である。鈴木博之は、当初ゲニウス・ロキを「土地の精霊」と訳してきたが、後 に「地霊」という訳語を当てるようになった。これについて、「わが国でも土地と精神性との関係を意識する伝統は古来あって、「英雄の出づるところ地勢よ し」とか「人傑地霊」という言葉も存在する」ことから「地霊」という言葉を採用したと述べている。鈴木博之の地霊に関する著書には、その代表的なものとして『建築の七つの力』(鹿島出版会、1984)がある。

「地霊の力」の項(初出は『アプローチ』1979年夏号所収の「見えないものの力」)で、タウンスケープに絡めて地霊(ゲニウス・ロキ)について述べられている。「ゲニウス・ロキとは、結局のところある土地から引き出される霊感とか、土地に結びついた連想性、あるいは土地がもつ可能性といった概念になる。」
「地霊の力(ゲニウス・ロキ)という言葉のなかに含まれるのは、単なる土地の物理的な形状から由来する可能性だけではなく、その土地の もつ文化的・歴史的・社会的な背景を読み解く要素もまた含まれているということである。こうした全体性に目を開くこと、すなわちタウンスケープを、その土地固有の微地形や歴史性との対応のなかで読み解くことこそが、地霊の力(ゲニウス・ロキ)に対する感受性を生み出すのである。」「建築的営為とは、地霊の力(ゲニウス・ロキ)を一方に据えてなされてきたものではなかったのか。そしてその集積が都市を作り上げてきたのではなかったか。」「現代の東京の近代的なタウンスケープを訪れる際にも、われわれはその土地が歴史的必然をもってそのような現状に至っていることを忘れてはなるまい。そうした目をもつとき、はじめて新旧の街並みを統一的に見ることが可能となろう。」タウンスケープにおいて、その土地の歴史的経緯が重視されており、この視点は続く著書において具体的に展開されることとなる。

論文「霊魂の哲学と科学」の第6章「霊魂の科学」からの抜粋部分は以上であるが、実は、「地霊」はプラトンの「コーラ」と同じようなものと考えていい。プラトンの「コーラ」については、私のホームページでいろいろ書いてきているが、その代表的なものを次に紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/cola01.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/keikan04.html

地霊的な場所について、とりあえずの説明は以上であるが、「地霊」にしても「コーラ」にしても直感的に判りにくいので、もっと判りやすい説明をせねばなるまい。「地霊」や「コーラ」を私たち日本人にわかりやすい言葉でいえば、「風土」のことである。先に、「 日本人と自然とは一体不可分の関係にある。日本人は、山や川に恵まれ、しかも四季折々の風景の中で自然と一体になって生きてきた。」と述べたが、これは「風土」の自然的側面を言ったもので、「風土」には歴史的な側面があるのであり、その二つの側面も持ったものが「地霊」であり「コーラ」である。これも先に述べたが、「風土」を「コーラ」と重ね合わせて理解することの重要性は、 中村哲学をプラトン哲学に繋げるところにある。中村雄二郎のリズム論の核心部分は場所の持つリズム性にある。 そして、その場所の持つリズム性というものは、プラトンの「コーラ」とも繋がっており、その意味で、中村雄二郎のリズム論は世界に通用し得る哲学であると言えるのである。したがって、プラトンの「コーラ」を語らずして地霊的な場所を語ることはできない。それ故、ここで「コーラ」についてその代表的なホームページを紹介したのだが、それを直感的に理解することはできない。そこで、これから「風土」についてオギュスタンベルクの研究を紹介して、「風土」の説明に代えたい。

オギュスタンベルクと哲学:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/keikan03.html

歴史的なおもむき:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/keikan06.html

自然的なおもむき:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/keikan06.html


2018年6月14日 (木)

リズム論(その11)

リズム論(その11)

第2章 中村雄二郎の「リズム論」 (その5)
第1節 場所性について(その5)
3.身体内を駆け巡る粒子の不思議な現象(その2) 

さて、清水博は、「生命を捉えなおす」(1990年増補版、中公新書)で次のように言っている。

 『 生命システムは絶えず不確定な変化をする環境のなかで生きていかなければなりません。そのためには生命システムが環境のなかで何らかの積極的 な活動をする必要があります。どのような活動がふさわしいかは、そのときのシステムの状態と環境の状態とによって変わります。一般に環境は複雑で、その変 化は規定できません。そのためにすべての操作情報(この場合はフィードフォーワード制御に用いる情報)をあらかじめ用意しておくことはできません。そして 状況に応じて適切な操作情報を自己組織する必要があります。 』

 やはりむつかしいですね。むつかしい。先述のように、直感的な理解のために、即興劇モデルをつかって解説しよう。劇場で役者が即興劇を演じてい る。観客がそれを見ている。照明装置や音響装置などの劇場としてのシステムが当然ある。まあ、言うなれば、即興劇を演じる役者は、劇場主やシナリオ作家や 演出家などからあらかじめ必要な情報を与えられているが、劇が始まってしまうと、あとはもう、観客と舞台と一体になって自分の思うように臨機応変に演技を 演じる。それが即興劇だが、清水博は、「生命を捉えなおす」(1990年増補版、中公新書)で次のように言っている。

 『 役者の演技は、大まかな筋という拘束条件のもとで、大ざっぱに決められますが、具体的には役者同士の演技の相互関係によって、選択されたり、 つくられたりしながら劇を進行させていくのです。その演技は、全体として一つの筋を生成的に自己組織しながら展開していく必要があり、場違いな演技をする ことはできません。 』

 上記の記述の中には、環境とシステムは記述されているが活動主体が記述されていない。しかし、文中、操作情報という言葉が使われているがそういう 情報を自己組織する活動主体というものが念頭にあり、清水博はそれを関係子と呼んでいる。すなわち、関係子とは、システムや環境から発せられるさまざまな 情報を受け取って、臨機応変に、あらたに自らの活動に役に立つ・・・いわゆる操作情報というものを自己生産している。自己組織という言葉を使っているが自 己生産という意味で理解してもいい。より正確にいうと、自己組織するとは、自己生産しながら自分の組織に組織化してしまうという感じである。言葉というも のは感じが大事なので自己組織という言葉にそういう感じを感じて欲しい。要するに、関係子というのは、意味のある操作情報を自己組織するのである。
 即興劇モデルでいえば、環境は観客、システムは劇場の照明装置や音響装置などの劇場システム、関係子は役者ということになるが、場の情報、すなわち劇場全体の情報は、それぞれ環境からの情報、システムからの情報、関係子で自己組織される情報のトータルである。

 そういう場の情報については、清水博は次のように述べている。
 『 一般に場の情報は、環境、システム、関係子という順に上から下へと流れて、環境やシステムの状態を要素である関係子に伝え、そして関係子群の 情報生成によって、関係子の状態が下から上へと逆行する状態で運ばれ、全体として情報の循環ループが形成されます。このように循環する情報は、関係子をシ ステムのなかで位置づけるばかりでなく、また環境のなかでも位置づける働きをします。
 これまでのシステム論では、環境はシステムに対する固定された境界条件であると仮定され、その中でシステムと要素のとの関係、そして要素と要素と の関係だけを論じてきましたが、環境とシステム、そして環境と要素との関係を、意味的な面を含めて議論するために本当に必要な方法をもっていませんでし た。今後は環境の複雑さを前提として、環境、システム、要素の三者の関係を取り扱うことのできる科学をつくることも含めて、環境から関係子である人間に送 られてくる場の情報を読み取ることが、ますます重要になってくるでしょう。 』

 身体内を駆け巡る粒子「メディオン」の不思議な現象についてご理解いただいたでしょうか。メディオンの「引き込み現象」ということですね。「目と目で話す」とか「一目惚れ」というのがありますが、これらは メディオンの「引き込み現象」によるものです。また、今西錦司の「プロトアイデンティティー」というのがありますが、これは無意識に認識する「仲間意識」だと考えていいかと思いますが、これも メディオンの「引き込み現象」 のひとつではないかと思われます。

2018年6月11日 (月)

リズム論(その10)

リズム論(その10)

第2章 中村雄二郎の「リズム論」 (その4)
第1節 場所性について(その4)
3.身体内を駆け巡る粒子の不思議な現象(その1)

 清水博の「生命を捉えなおす」(中公新書)は、初版が1978年である。その後大いに研究も進み、その増補版が出たのが1990年5月である。特 に注目すべきは「関係子」という考え方であろう。中村雄二郎はメディオンと呼んだらどうかとアドバイスしたようであるが、中村雄二郎のリズム論とも関係が 深く、関係子が発生するリズムの「相互引き込み現象」は清水博の画期的な発見であるといえるようだ。関係子に関する研究がこれからどんどん進み、生命の神 秘がもっともっと明らかにされるであろう。清水博の名付けた関係子というものの着想は実にすばらしい。しかし、最近出版された「場の思想」(2003年7 月7日、東京大学出版会)には、あまりにも専門的すぎるということであろうか、関係子の話が出てこない。誠に残念である。
 清水博のイメージする関係子という概念と、中村雄二郎のイメージするメディオンという概念とは厳密にいえば必ずしも同じものではないのかもしれな いが、私は、哲学としては、やはりメディオンの方がなじみがいいと考えている。哲学としては、意識野を駆け巡る粒子又は波動(リズム)というイメージでは なかろうか。唯識においては、意識と無意識の間を循環する粒子又は波動(リズム)というイメージではなかろうか。私は、今まで、そういうイメージで粒子又 は波動(リズム)という言葉を使ってきたが、私は今後、そういう粒子又は波動(リズム)をメディオンと言い換えることとしたい。私は、中沢新一の「神の発 明」(2003年6月、講談社)におけるスプリットに注目しており、「この 世」にスプリットが出現する場合私たちの意識野にどのようなメディオンたちが出現しているのか、そんな問題が問題になってくるように思われる。スプリット たちとメディオンたち、なかなか面白いテーマではないか。メディオンについてはおいおい語っていくとして、ここでは、清水博の名付けた「関係子」につい て、その要点を説明しておきたい。

 私は今まで、生命学という言葉を使ってきたが、清水博は、生命学とは言わないで、「生命関係学」と呼んでいる。その理由は、関係性というものの重 要性を十分認識した上でのことである。生命システムは多様な複雑性とそこに自己組織される秩序があるというのが清水博の基本的な考え方であるが、その場 合、清水博の考えからすると、その秩序というものは一義的なものではなく誠に多義性に富んだものである。そういう秩序の多義性というものはどこからくるの かというのがもっとも基本的な問題で、清水博は、生命の働きを生成的、関係的に捉えない限り、その問題は解けないと考えている。関係性というものの重視で ある。その粒子がたくさん集まったときにその状態によってグループとしてのいろんな機能が出現してくるのだそうだ。もちろん粒子ごとに特定の機能というも のはあるのだが、グループとしての機能はそれら個々の機能の合計ではなくて、全然別の新たな機能は追加的に出現してくる。それは何故か。多くの粒子がどう いう状態になっているか、そそれら粒子の間の関係性によって、いろんな機能が出現するのだそうだ。そういうことで、関係性というものが大事である。そうい う関係性というものに着目して研究を進める必要がある・・・というのが清水博の考えである。

2018年6月 6日 (水)

リズム論(その9)

リズム論(その9)

第2章 中村雄二郎の「リズム論」 (その3)
第1節 場所性について(その3)
2. 養老孟司の身体論(その2)
では、養老孟司の身体論を紹介しておきたい。
 養老孟司は、その著「バカの壁」の中で「身体」について極めて重要なことをいっている。人間は「身体」を通じていろんなことを学習していく。学習というと「脳」の問題だと思われがちであるが、そうではなくて、「身体」を通じて学習する部分というのが非常に大きい、というのが養老孟司の認識の基本である。これは、西田幾多郎の「場所の論理」や中村雄二郎の「リズム論」と同じ認識である。「戦後、我々が考えなくなったことの一つが<身体>の問題です。」と養老孟司は鋭く指摘しているが、確かに戦後の日本には身体をあまり動かさない頭でっかちの・・・まあいうなれば不健全な人間が増えてしまったようだ。不健全な人間が多くなれば国家自体も健全であるはずがない。国家が健全でなければいよいよ不健全な人間が増えていくという・・・・悪循環に陥ってしまう。それを正すには、やはり原点の問題、つまり「身体」の問題に戻ることだ。養老孟司は次のように言っている。

『 江戸時代には、朱子学のあと、陽明学が主流となった。陽明学というのは何かといえば、「知行合一(ちこうごういつ)。すなわち、知ることと行なうことが一致すべきだ、という考えです。しかし、これは「知ったことが出力されないと意味がない」という意味だと思います。これが「文武両道」の本当の意味ではないか。文と武という別のものが並列していて、両方に習熟すべし、ということではない。両方がぐるぐる回らなくては意味がない、学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない、ということだと思います。
 赤ん坊でいえば、ハイハイを始めるところから学習のプログラムが動き始める。ハイハイをして動くと視覚入力が変わってくる。それによって自分の反応=出力も変わる。ハイハイで机の脚にぶつかりそうになり、避けることを憶える。または動くと視界が広がることがわかる。これをくり返していくことが学習です。
 この入出力の経験を積んでいくことが言葉を憶えるところに繋がってくる。そして次第にその入出力を脳の中でのみ回すことができるようになる。脳の中でのみの抽象的思考の代表が数学や哲学です。
 赤ん坊は、自然とこうした身体を使った学習をしていく。学生も様々な新しい経験を積んでいく。しかし、ある程度大人になると、入力はもちろんですが、出力も限定されてしまう。これは非常に不健康な状態だと思います。
 仕事が専門化していくということは、入出力が限定化されていくということ。限定化するということはコンピュータならば一つのプログラムだけをくり返しているようなものです。健康な状態というのは、プログラムの編成替えをして常に様々な入出力をしていることなのかもしれません。
 私自身、東京大学に勤務している間とその後では、辞める前が前世だったんじゃないか、というくらいに見える世界が変わった。結構、大学に批判的な意見を在職中から自由に言っていたつもりでしたが、それでも辞めてみると、いかに自分が制限されていたかがよくわかった。この制限は外れてみないとわからない。それこそが無意識というものです。
 「旅の恥はかきすて」とは、日常の共同体から外れてみたら、いかに普段の制限がうるさいものだったかわかった、ということを指している。身体を動かすことはそのまま新しい世界を知ることに繋がるわけです。』・・・と。

 そうなのだ。身体を動かすことはそのまま新しい世界を知ることだ。私たちは、新しい世界を知るためには、ともかく身体を動かすことを考えねばならない。本を読んだりテレビを見ることも必要だけれど、私たちはもっと身体を動かすことを考えなければならない。そう考えれば、私たちの学習プログラムは無限にある。私たちは、養老孟司が言うように、「身体と脳の学習プログラム」をいろいろとつくり出さなければならない。私たちは、「場所のもつリズム性」に着目して、さまざまな舞台装置をつくっていかなければならない。私たちは、「場所のもつリズム性」に着目して、さまざまな仕掛けをしていかなければならないのだ。新しい地域づくりだ。新しい川づくりだ。新しい森づくりだ。新しい村づくりだ。いろんな人たちの出合いの場づくりだ。

2018年6月 2日 (土)

リズム論(その8)

リズム論(その8)

第2章 中村雄二郎の「リズム論」 (その2)
第1節 場所性について(その2)
2. 養老孟司の身体論(その1)

 今、養老孟司(ようろうたけし)の「バカの壁」(2003年4月、新潮社)という本がベストセラーになっている。彼は、かって永く東大の解剖学の教授をしていて、まあいうなれば脳の専門家である。「唯脳論」などという本も書いているのだが、彼のいうことには吃驚することが多く、目からウロコが落ちるようなことが多い。今回の本もそうだ。例えば、『 現状は、NHKの「公平、客観、中立」に代表されるように、あちこちで一神教が進んでいる。それが正しいかのような風潮が中心になっている状況は非常に心配です。安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真理がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。』・・・・などと言われると、もう吃驚してしまう。しかし、養老孟司の言うことは真実であると思う。科学的であると思う。

 さて、私は先に論考「神話と現実」において、『 神話を語るには「場所の持つリズム性」が重要である。宮沢賢治の童話や草野心平の詩を語るには「場所の持つリズム性」が重要である。私たちは、そういう「場所の持つリズム性」に着目すべきであって、子供や若者はそういう「場所」の発するリズムに耳を傾けなければならないのである。「場所」の発するリズム、それは風土の発するリズムということかもしれないが、そういうリズムに耳を傾けることによって具体性の世界と深く結び付いた感性というものが養われるのである。』・・・と述べた。
日本人と自然とは一体不可分の関係にある。日本人は、山や川に恵まれ、しかも四季折々の風景の中で自然と一体になって生きてきた。そういう日本独特の場所性を生きてきたと言える。場所性を生きるということは、場所のリズムに身を任せるということであって、俺が俺がと自己主張をしないのである。無為自然の姿がそこにある。だから日本人は、無意識のうちに老子の言う自然、道、宇宙の真理が身に付いているのではないか。自己主張をしない日本人。これが日本人の特性だ。日本的精神とは述語的生き方であり、日本の歴史伝統文化の心髄は、違いを認める文化である。
それが、中村雄二郎のリズム論であると思う。その核心部分は場所の持つリズム性にある。 そして、その場所の持つリズム性というものは、プラトンの「コーラ」とも繋がっており、その意味で、中村雄二郎のリズム論はひとつの哲学であると言える。そのリズム論から主体性の乏しい日本人ということが言えるのか? それが今回の論文の主テーマであるが、追々その説明をして行きたいと思う。

2018年5月30日 (水)

リズム論(その7)

リズム論(その7)

第2章 中村雄二郎の「リズム論」 (その1)
第1節 場所性について(その1)

中村雄二郎のリズム論に関連していろいろ話しをする時、彼は <身体的なものとしての場所> と呼んでいるが、その「身体的な場所」の特性を「場所性」と呼ぶことにする。


1.はじめに

中村雄二郎は、場所というものの特性を4つに分類し、「身体的な場所」の特性、つまり「場所性」に注目し、彼の哲学、リズム論を展開している。「身体的な場所」の他に、生存のための場所(彼のいう<存在根拠(基体)としての場所>)、象徴的な場所(彼のいう <象徴的 な空間としての場所>)、トポス的な場所(彼のいう<論点や議論の隠された所としての場所>)あるが、中村雄二郎によれば、「身体的な場所」というのがいちばん大事であるようなので、以下においてその点の説明をしたい。ただし、その説明を一般の人に判りやすくすることは大変難しいことであるので、私なりに、できるだけ単純化した説明を試みるが、私の勉強不足のため、間違った説明になるかもしれない。その点はあらかじめ御断りしておきたい。


より以前の記事一覧

その他のカテゴリー