文化・芸術

2017年11月24日 (金)

沖縄の歴史(その15)

沖縄の歴史(その15)

第4章 鎌倉時代から明治にかけての琉球(その6)
第5節 琉球初の正史「中山世鑑」について

琉球王国の正史『中山世鑑』(1650年に成立)や、『おもろさうし』(1623年成立)、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、12世紀、源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。

日琉同祖論は、歴史的には16世紀の京都五山の僧侶等によって唱えられた源為朝琉球渡来説に端を発し、それが琉球へ伝わり17世紀に摂政・羽地朝秀が編纂した『中山世鑑』に影響を与えて、明治以降は沖縄学の大家・伊波普猷によって詳細に展開された。

琉球王国の人々と私たち日本人は同じ民族である。ただし、琉球王国の人々が正式に日本国民となったのは、琉球処分の後になってからである。琉球王国の人々と私たち日本人は同じ民族であるとの認識は、学識の高い京都五山の僧侶等にも琉球王国の識者にもあったに違いない。

琉球王国の正史『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。

琉球王国の正史「中山世鑑」にはいわゆる創世神話も書かれている。
沖縄諸島地域は長らく、日本とは別の琉球王国としての歴史を歩んできたが、その中で民族の創始などを伝える神話もまた「古事記」や「日本書紀」を代表とする大和の王権の持つ神話とは別の神話を有してた。
民間レベルにおいても、それぞれの地域や島にさまざまな創世神話、宇宙開闢神話が残されている。

沖縄にこれだけ多くの神話が残されているということは、まことに特異なことで、琉球列島が大和朝廷の歴史書・古事記の影響を受けたということではなく、双方がいずれも同じ系列の下にある神話だということを示すものである。琉球列島及び大和朝廷の神話のルーツは、 黒潮文化圏( パプアニューギニア、 ハワイ、インド、ラオスとタイ、オーストラリア、 ニューへブリデス諸島)にあり、アイヌ神話と同じルーツを持っている。

北海道の有珠モシリ遺跡や虻田町の入江貝塚から、鬼界島カルデラの大噴火の際、西日本本土のみならず北海道まで逃げて行った人たちがいたことがわかる。それらの中には、そのまま北海道に居続けてアイヌの祖先となった人たちがいた。

第4章第5節の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/okireki45.pdf




2017年11月18日 (土)

沖縄の歴史(その14)

沖縄の歴史(その14)

第4章 鎌倉時代から明治にかけての琉球(その5)
第4節 薩摩の侵攻とその後の琉球王国(その2)

島津侵攻から約50年後の1665年、羽地按司朝秀が摂政に就任し、疲弊した琉球を立て直すために一連の改革に乗り出した。羽地仕置(1673年)を制定して、人心の立て直しを図る一方、系図座を新たに設けるなど、王府機構の改革を行った。また、琉球初の正史『中山世鑑』を編纂した。他にも新たに行政区として間切を新設し、各間切には間切番所を設置するなどして地方改革も実施した。

羽地朝秀の改革は蔡温へと受け継がれる。蔡温は、農作業の手引き書『農務帳』1734年を発布して農業生産の向上を目指し、治水・灌漑事業を実施して、全国の河川改修を行った。改修された河川は数十にも上った。蔡温は自ら現地へ赴き、改修事業を指揮するなど、多大な情熱を注いで農業改革を実施した。また、「元文検地」を実施して全国の耕地の測量調査を行った。他に、山林改革、王府財政の建て直しなども実施した。
この頃、甘蔗(サトウキビ)から黒糖を作る技術が麻平衡・儀間親方真常によって確立され、黒糖は貿易のための商品作物となった。また、琉球独自の格闘技・唐手(後の空手)やヌンチャクも生まれ、琉球唐手からはトンファーも生まれた。

羽地朝秀、蔡温、儀間真常は琉球の五偉人に含まれ、今日でもその業績は高く評価されている。

幕末の頃から、琉球王国には欧米各国の船が来港して、航海の中継点として利用する為、開国の要求を行うようになった。1844年にイギリスとフランスが通商を求めて琉球を訪れた。薩摩藩は幕府に対応を求めたが、阿片戦争(1840年)の情報を受けていた幕府は、琉球に限って薩摩の対英仏通商を許可し、1847年に薩摩が琉球を英仏に開港した。
1853年には米国のマシュー・ペリー提督が日本来航の前に琉球を訪れ、強制上陸して首里城入場を果たし、国王に米大統領からの親書を渡すことに成功した。続いてペリーは江戸幕府との交渉を行った。1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に日米和親条約を結び、日本は開国した(黒船来航)。その帰路に再び首里城を訪れたペリーは、同1854年7月11日(咸豊4年6月17日)に琉米修好条約を結んだ。

清が海禁政策を緩和し、日本も開国したことで、江戸時代の鎖国下での4つの貿易ルート(松前藩~沿海州、対馬藩~李氏朝鮮、長崎~清・オランダ、薩摩藩~琉球~清)から、開港5港に貿易ルートの中心が移った。そのため、琉球を介した中継貿易は急速に衰え、また、中継貿易を支えた日清両属という琉球王国の体制も意義を失った。

なお、最初の来航の際に、ペリーは大統領から、通商の為に日本・琉球を武力征服することもやむなしと告げられており、親書を受け取らなかった場合は占領されたことも考えられる。米国は太平洋に拠点を確保できたことで、アジアへの影響力拡大を狙ったが、後に自国で南北戦争となり、琉球や日本に対する圧力が弱まった。


2017年11月17日 (金)

沖縄の歴史(その13)

沖縄の歴史(その13)

第4章 鎌倉時代から明治にかけての琉球(その4)
第4節 薩摩の侵攻とその後の琉球王国(その1)

1603年に江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸の明と通航を考えるようになる。1602年に仙台藩領内に琉球船が漂着、徳川家康は彼等を琉球に送り返した。以後、家康への謝恩使の派遣と、日明貿易の仲介が琉球王府に繰り返し要求されたが、王府は謝名親方の反日思想に引きずられ、幕府の要求を一貫して無視した。これを受け、幕府は武力で承諾させることを決断し、薩摩藩主島津忠恒に対して琉球への侵攻を許可した。

第二尚氏第7代尚寧の時代、樺山久高ら島津軍3000名余りを乗せた軍船100隻が薩摩の山川港を出帆した。1609年3月8日に奄美大島へ上陸した。奄美大島は薩摩に非常に協力的で、物資補給も行った。この時点で琉球王府は天龍寺長老を奄美大島に派遣して降伏しようとしたが、何故か薩摩軍と接触できず失敗した。3月17日に徳之島に13艘の先発隊が到達、一部で戦闘があったが速やかに制圧された。薩摩軍は3月26日、沖縄本島北部の運天港に到達。27日、今帰仁グスクに向かったが、既に無人であった。またこの日、西来院菊隠が今帰仁に到着、正式に降伏を申し出た。これを受け、那覇で和睦の談合を行う事が決定した。しかし樺山久高は内心、琉球を信用しておらず、念のため主力は陸路で首里に向かわせる事とした。29日、海路で大湾に移動。4月1日、薩摩軍は軍使を那覇に向かわせる一方、主力は陸路で首里へ向かい、午後2時頃到着した。那覇では和睦調印が行われたが、首里では、薩摩軍の侵入によって混乱が生じた。これに対し、薩摩軍軍使・市来織部と村尾笑栖が首里に移動して尽力し沈静化。最終的に、摂政・三司官を人質として引き渡すのと引き換えに、首里侵入軍は那覇に退去した。島津軍は4月5日に首里城を接収し、5月半ばに尚寧と共に薩摩に帰った。

翌1610年、尚寧は、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。途上の駿府にて大御所徳川家康に、8月28日に江戸城にて将軍徳川秀忠に謁見した。薩摩藩主島津忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地とした。
1611年、尚寧と三司官は、「琉球は古来島津氏の附庸国である」などと述べた起請文への署名を強要され、これを拒んだ三司官のひとり謝名利山は処刑された。また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。

こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、琉球を間接支配するようになる。

以後、尚氏代々の王は江戸幕府の将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負い、また琉球と清との朝貢貿易の実権を薩摩藩が握るようになった。すなわち、薩摩藩の密貿易である。薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、清にも朝貢を続けた。薩摩藩は、江戸へも琉球の使節を連れたが、その際の服装は、琉球に清使節が来た際に用いる中国風のものを着させた。

2017年11月12日 (日)

沖縄の歴史(その12)

沖縄の歴史(その12)

第4章 鎌倉時代から明治にかけての琉球(その3)
第3節 明への朝貢

明への朝貢使による貿易は時期によって異なるものの、通常は1年もしくは2年に1回、時によっては年に2回派遣を行っている。日本に対しては2年もしくは3年に1度、使者を派遣していたが、応仁の乱による日本国内の政情不安により次第に堺や博多の商人の方から琉球を訪れるようになった。
日本や明に対する献上品の中には東南アジアなどの南海諸国で取れる蘇木や胡椒があるように、東南アジアにも使者を派遣していたと考えられており、特にマラッカ王国やシャムがその対象であった。
明との交易においては皇帝への朝貢品として琉球で取れる馬や硫黄、日本産の刀剣、東南アジア産の胡椒や蘇木・象牙などが進上され、これに対して明国皇帝からの頒賜品名目で多額の金品が与えられたほか、琉球の使臣・随伴者が持参した商品は明側が買い上げる形での私貿易が行われた。また、明から入手した銅銭はその需要が高い日本との貿易で用いられた。

硫黄鳥島は、沖縄県における最北端の島で、同県に属する唯一の活火山島である。14世紀後半から明王朝へ進貢する硫黄の産地として知られ、琉球王国が滅亡する19世紀中頃まで、琉球と明・清朝の朝貢関係を繋ぐ重要な島であった。

琉球王朝の明への朝貢貿易における硫黄については以上の通り特筆すべきものがあるが、それがどの程度琉球王朝を潤したかはよく分からない。どうも全般的には、琉球王朝にとって、朝貢貿易にあまり芳しくなかったようだ。

明への朝貢朝貢は経済的負担が大きかったが、尚真王はこれに対し、領土を広げ、搾取を強化し、年貢収入を増大させる事で経済的基盤を安定させようと試みた。

尚真王が必死で搾取強化に取り組んだにも関わらず、王府の財政が全然好転しなかった事が窺える。琉球列島の人々は困窮を極めたようだ。国栄えどもたみ豊かならずというところか。そこで注目されるのがサツマイモである。

サツマイモは琉球諸島全土の食糧事情を劇的に改善した。宮古・八重山に至っては、米穀は全て王府に搾取されるため、薩摩芋とその葉っぱが唯一の食糧であった。

1500年代末期頃より島津氏が琉球に対する圧力を強めたため、琉球はその対応に迫られることとなった。
この時代の記録は王府の外交文書の集成である『歴代宝案』に残されている。

第4章第3節の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/okireki43.pdf


2017年11月10日 (金)

沖縄の歴史(その11)

沖縄の歴史(その11)

第4章 鎌倉時代から明治にかけての琉球(その2)
第2節 琉球王国

三山時代の時代に、尚巴志が三山統一を果たし、琉球王国が誕生した。琉球王国の歴史は長く明治まで続くが、第一尚氏王統の時代と第二尚氏王統の時代に分けられる。第二尚氏の王統は、第一尚氏の尚泰久王の重臣であった金丸が尚泰久王の子尚徳王にかわって王位に就き、尚円王と名乗ったことから始まる。第二尚氏は尚巴志とは別の血統であり、日本の天皇のように万世一系ではなく、血統的には断絶があるのである。折口信夫や谷川健一の説によると、尚巴志は北九州豊後菊池の出自であり日本民族である。また、第2章で詳しく説明したように、琉球縄文人も日本民族であるので、第二尚氏も日本民族である。したがって、琉球王国は、日本国とは別の独立国ではあるが、民族的には日本国と同じ民族なのである。その認識は琉球王国にもあったようだ。

金丸のクーデターが第二尚氏王統の始まりであり、やがて琉球王朝は黄金時代を迎える。

金丸は即位後尚円王と名乗る。尚円王は在位7年で亡くなると、世子・真嘉戸樽(まかとたる)が幼かったので、弟の尚宣威王が即位した。しかし、国王宣下の際に神官が真嘉戸樽に神託を読み上げるという屈辱を受け、尚宣威王は在位6か月で退位し、越来に引退した。その年の内に薨去したと伝えられる。

1477年に真嘉戸樽は王位に就き、第3代・尚真王として50年にわたって在位し、琉球の黄金時代を築く。

真嘉戸樽は仏僧の意見を取り入れ、王の死と共に行われてきた女官の殉死を廃止し、御嶽信仰を中心とした宗教を整備した。
さらに南山と北山の按司を首里に強制移住させ、代わりに按司掟(あじおきて、代官)を送って、王を頂点とする中央集権化を進めた。また国民が所有していた刀剣や弓矢を没収して、国家による武力の一元管理を行うことで国内の騒乱を防ぐと共に、国防の備えとした。

第二尚氏は第一尚氏に引き続き、中国に対する朝貢と、進貢品を買うための貿易活動を行った。

第4章第2節の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/okireki42.pdf


2017年11月 7日 (火)

沖縄の歴史(その10)

沖縄の歴史(その10)

第4章 鎌倉時代から明治にかけての琉球(その1)
第1節 三山時代

私は、三山時代とそれまでのグスク時代は、グスクの性格が根本的に異なっているので、通説とは違って、概ね宗王朝の時代に相当する琉球の時代を単にグスク時代と呼ぶこととしている。私の呼ぶグスク時代(11世紀~1320年頃)は、琉球貿易に携わる小豪族による平和の時代であり、三山時代(1320年頃~1422年)は倭寇が押し寄せた戦争の時代である。
倭寇とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊のことである。密貿易も行っていたとされる。グスクの時代においても、倭寇は琉球にやってきかもしれないが、まだ本格的なものではなく、琉球への来襲が本格的になるのは三山時代に入ってからである。
倭寇の本拠地は、対馬や壱岐・五島列島、備前松浦、豊後菊池、瀬戸内海である。それらの内、どこの倭寇が三山時代に猛威を振るったかは定かではないが、豊後菊池の倭寇が糸満にやってきて、南山王朝を作ったらしい。これは私の仮説である。那覇や今帰仁にやってきて王となった倭寇もいたが、それらの倭寇がどこ出身なのかはまったくわからない。ただ言えることは、今帰仁には源為朝伝説というのがあり、琉球王朝の正式な歴史書にも出てくるので、日本本土から倭寇がやってきて北山(今帰仁地方)と中山(那覇地方)の大豪族になったことは確からしいということだ。
南山王国の初代王は 承察度 である。承察度の出自は不明である。そこで私は、折口信夫の説にしたがって、承察度の出自を九州肥後国とするとともに三山の統一を成し遂げた尚巴志の出自も九州肥後国とする仮説を立てたいと思う。

三山の統一を成し遂げた尚巴志の父尚思紹は南山王国の佐敷按司(貴族)であった。三山の中で、南山王国の佐敷按司であった尚巴志が急速に勢力を伸ばし、まず1406年に中山王武寧を滅ぼして、尚巴志の父である尚思紹を中山王につかせて基盤を固め、その後、1416年に山北王攀安知を滅ぼし、その領土であった奄美群島南部(沖永良部島以南)を領土に組入れ、1422年頃には山南(南山)王の他魯毎を滅ぼして三山時代に終止符を打ち琉球を統一した。琉球王国の誕生である 。

第4章第1節の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/okireki41.pdf


2017年11月 3日 (金)

沖縄の歴史(その9)

沖縄の歴史(その9)

第3章 弥生時代から鎌倉時代前夜にかけての琉球(その3)
第3節 グスク時代について
グスク時代は、沖縄・先島諸島および奄美群島における時代区分の一つ。奄美・沖縄諸島では「貝塚時代」、先島諸島は「先島先史時代」の後に続く時代区分である。
当時の琉球においては、日宋貿易によって力をつけた有力者が、地元の農民を束ねて小豪族となり、石垣で囲まれた城(グスク)を築き、周辺の集落を傘下に入れ小国家へと発展させていった。
ウティンチヂ(遥拝所)からニライカナイを遥拝した。グスクは ウティンチヂ(遥拝所)と正殿を備えた祈りの場所であった。また大事な客をもてなす場所とも言われている。宗の時代、大いに宗の商人(華僑)などをもてなしたのであろう。
グスク時代は、開始年代は11世紀~1320年頃。概ね宗王朝の時代。それ以降の三山時代も通常グスク時代に含めるので、その場合は、終了年代は琉球王国の誕生する1422年まで。私は、三山時代とそれまでのグスク時代は、グスクの性格が根本的に異なっているので、通説とは違って、概ね宗王朝の時代に相当する琉球の時代を単にグスク時代と呼ぶこととしている。私の呼ぶグスク時代(11世紀~1320年頃)は、琉球貿易に携わる小豪族による平和の時代であり、三山時代(1320年頃~1422年)は倭寇が押し寄せた戦争の時代である。

第3章第3節の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/okireki33.pdf

2017年11月 1日 (水)

沖縄の歴史(その8)

沖縄の歴史(その8)

第3章 弥生時代から鎌倉時代前夜にかけての琉球(その2)
第2節 日宋貿易について

日宋貿易は、日本と中国の宋朝の間で行われた貿易である。10世紀から13世紀にかけて行われ、日本の時代区分では平安時代の中期から鎌倉時代の中期にあたる。中国の唐朝に対して日本が派遣した遣唐使が停止(894年)されて以来の日中交渉である。

10世紀から14世紀にかけての東アジアは、各国の商人が活発に交易をおこなっていた時代である。宗の商人は、東アジア各地に華僑(かきょう)として寄留し発展していった。

日本の朝廷は、唐や宋などの商船の来航制限を定めたが、11世紀後半になるとそれが徐々に緩み始め、やがて 宋の商人の来航を受け入れようになるなど、日宋貿易に積極的になっていった。とくに平氏政権は、経済に敏感であり、日宋貿易を発展させた。日宋貿易の中心となったのは博多であり、宋商が居住して活発な交易活動を展開した(「住藩貿易」と呼ばれる)。かくして博多は国際都市へと発展していったのである。
中国の福州、シャム、スマトラ、ジャワなど東アジア全体の貿易の担い手に着目すると、日宋貿易の主要な担い手が宋商であるとしても、彼らは中継貿易の拠点として琉球を活用した。宗の商人たちは、天然の良港で島状になっていた那覇に居留地をつくり、那覇は「国際貿易特区」ともいうべき姿に変貌していく。
琉球は、優れた中国商品を大量に輸入してそれらを近隣諸国へ輸出すると同時に、中国へ持ちこむための商品を日本や東南アジアから調達するなど、東アジアの中継貿易国として重要な役割を果たしたのである。それが基礎となって、琉球は、明の時代に、世界の海を舞台にして壮大な交易の道を築き上げたのである。

日宋貿易によって力をつけた有力者は地元の農民を束ねて小豪族となり、石垣で囲まれた城(グスク)を築き、周辺の集落を傘下に入れ小国家へと発展した。そして、やがて琉球王国が誕生するのである。琉球王国の誕生、そのきっかけになったのが日宋貿易である。

第3章第2節の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/okireki32.pdf

2017年10月30日 (月)

沖縄の歴史(その7)

沖縄の歴史(その7)

第3章 弥生時代から鎌倉時代前夜にかけての琉球(その1)
第1節 概説

弥生時代から南洋諸島とわが国の往来はあった。中でも有名なのは、「貝の道」である。
特に南海産大型巻貝(ゴホウラ、イモガイ)製の腕輪は、北九州弥生人によって珍重され、琉球弧との間に交易ルートである「貝の道」が開設され、その後南海産大型巻貝製腕輪は、権力者の威信財として古墳時代にまで引き続き使用されていた。

奄美・沖縄諸島で採取されたゴホウラやイモガイは、九州へ移出され、貝輪(かいわ)に仕上げられて全国へ出回った。そして、貝類と交換して持ちこまれた交易品が弥生土器である。
弥生時代、琉球列島では海に生息する貝や魚を採取して生活をする独自の文化が展開される。貝塚文化である。本州では弥生時代になると稲作が始まるが、沖縄では農耕は行われず、貝や魚を採取する漁労を中心とする独自の文化が形成されたのである。

さて、大和朝廷と琉球列島との交流であるが、日本書紀や続日本紀には多くの記述があり、大和朝廷と琉球列島との深いつながりをうかがい知ることができるが、ここではその主なものを紹介しておきたい。
699年文武天皇の時、続日本書紀に種子島、屋久島、奄美、徳之島から朝廷に献上品があった事が記載されているが、 別の記録にも、618年推古天皇の時、流求人約30人が大和に帰化したとの書かれている。720年元正天皇の時には大和朝廷が南島(沖縄)人に位を授けたとの記録もあり、753年聖武天皇の時には、鑑真を乗せた遣唐使船が沖縄に漂着し、阿兒奈波という沖縄の名前が始めて大和の国史に登場する。後に、遣唐使船は何度も沖縄に漂着したようで、交流も深まっていったようだ。

第3章第1節の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/okireki31.pdf


2017年10月28日 (土)

沖縄の歴史(その6)

沖縄の歴史(その6)

第2章 縄文時代の琉球人(その4)
第4節 石斧の広がり

後氷期に向かい温暖化したスンダランドから、多くの新石器時代人が黒潮海域に船出し、琉球列島にもやってきた。しかし、縄文早期後半の約6300年前、鬼界カルデラの巨大噴火が起こった。琉球列島の人々の中には、黒潮本流に乗って四国、紀伊半島の太平洋沿岸地域やさらに遠く伊豆諸島にまで到達した人びともいた。こうした人々の航海の軌跡は、栫ノ原型石斧に続く円筒形片刃磨製石斧が、高知県木屋ケ内遺跡、和歌山県紀ノ川中流域の 不動寺谷遺跡 遺跡、東京都八丈島の 供養橋遺跡 遺跡などで発見されていることで証明される。
栫ノ原型石斧は、沖縄本島から奄美諸島を経て南九 州に、そして九州西側の海岸部にかけて分布しているが、その起源もひょっとしたら琉球列島にあるかもしれない。

栫ノ原型石斧 に瓜二つの石斧が,沖縄本島最北端の国頭村カヤウチバン タ遺跡で出土しており 、よ り最古 の土器文化確認の可能性が出てきたのである。
そして同じ形の石斧は、沖縄の北に連なる徳之島、奄美大島、黒島など南九州や西九州以外のでも発見されているので、九州と琉球列島を結ぶエリアに「丸ノミ形石斧文化圏」と呼べる海上の交流があったことが解ってきた。それら丸ノミ形石斧の最も古いのが琉球列島であることから、「丸ノミ形石斧文化圏」の中心は琉球列島であると考えてよい。

しかし、石斧文化については、広範囲に考えねばならないようだ。黒潮文化圏である。黒潮の流れる地域を結ぶと、出発点のフィリピン諸島から台湾、琉球列島、九州、四国、本州中央部へ、そして、南に向かって伊豆諸島から小笠原諸島、マリアナ諸島へ、さらに西にヤップ、パラオ諸島へと、北西太平洋を囲むような環状の島嶼群が浮上してくる。これら「黒潮文化圏」とも呼べる環状の島嶼地域に、身の断面が円形で、円筒形の片刃石斧が広く分布している。
第2章第2節の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/okireki24.pdf

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