文化・芸術

2019年6月24日 (月)

比叡山

比叡山

比叡山は、京都人にとって守り神のような存在として親しまれている山である。

私も京都生まれの京都育ちであるので、そのような感覚を持っている。天皇や京都御所を守護する山と言われてきたが、それはそれとして、私たち京都人にとってそういうことではない。また、延暦寺という高野山と並んで日本を代表する寺院があるからでもない。

しかし、天台宗の総本山・延暦寺から数々の名僧が出ているので、そういう名僧たちの存在によって、私は延暦寺を誠にありがたい寺院であるとは感じている。例えば、私は、延暦寺の名僧・元三大師の角大師(つのだいし)は、廬山寺で天皇自らがお刷りになって庶民にお配りになったことを知っている。また、源氏物語の作者・紫式部は、延暦寺の名僧・源信を深く尊敬しており、源氏物語に源信の思想が反映していることも知っている。

したがって、私としは、延暦寺が如何に素晴らしい寺院であるかを知ってもらいたいと思う。そこでこのエッセイでは、延暦寺の知られざるところを紹介するとともに、比叡山のあまり知られていないところを紹介していきたいと思う。


比叡山: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hieizan.pdf

慈覚大師(その21)

慈覚大師(その21)

第4章 中尊寺や毛越寺の知られざる部分(その2)
第1節 慈覚大師(円仁)と平泉(その2)

さて、浄土思想とは誰が始めたのか、ということを少し話をしておきたい。一般に、浄土思想といえば、源信や法然や親鸞を思い出すだろう。しかし、それは違うのだ。浄土思想の源流に慈覚大師円仁がいるのである。すなわち、浄土の思想は、慈覚大師円仁から始まり、元三大師、源信(げんしん)でほぼ完成し、やがて法然、親鸞へとつながっていくのである。
浄土思想の源流に慈覚大師円仁がいる。比叡山の浄土教は、承和14年(847年)唐から帰国した円仁(えんにん)の・・・・常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)に始まる。金色の阿弥陀仏像が安置され、四方の壁には極楽浄土の光景が描かれていた。修行者は、口に念仏を唱え、心に阿弥陀仏を念じ行道したのである。この念仏や読経(どきょう)は曲節をつけた音楽的なもので、伴奏として笛が用いられたという。声美しい僧たちがかもしだす美的恍惚的な雰囲気は、人々を極楽浄土への思慕をかりたてた。また、熱心な信仰者のなかには、阿弥陀の名号を唱えて、正念の臨終を迎え、臨終時には紫雲(しうん)たなびき、音楽が聞こえ、極楽から阿弥陀打つが25菩薩をひきいて来迎(らいこう)するという、噂(うわさ)も伝えられるようになった。この比叡山は円仁によって始まった常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)の行道が源信に引き継がれ極楽浄土の思想が「往生要集」として確立するのである。この辺のことは、私のホームページがあるので、是非、それを見ていただきたい。宇治の恵心院から横川の恵心院を紹介しています。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/esin-in.html

地方創生の成功のために(その12)

地方創生の成功のために(その12)
第4章 東京一極集中の是正(その2)

「地方創生を超えて・・・これからの地域政策」(2018年7月、岩波書店)では、東京一極集中に関連して、企業の「本社」について次のように述べている。すなわち、

『 2011年の東京都産業連関表における産業別生産額を見ると、「本社部門」の生産額が27兆4526億円となっており、産業連関ベースでの東京都の生産額の16.8%を占め、サービス産業に次ぐ東京都の第2位の「基幹産業」となっている。東京都においては、生産機能を持たない本社の活動が都市の経済活動を支えている実態が浮かび上がってくる。日本の各地域から多くの資金が実体的な生産活動を伴わない組織管理の間接的な収益として東京に吸い寄せられ、それが東京の「本社」産業となり、本社から多くの税金が東京にある税務機関に納められ、政府の財政資金となっていくマネ^フローの姿が見えてくる。』・・・と。

企業の「本社」は、東京の基幹産業であるという。アメリカではNYやワシントンに本社がある企業は少ないと言われている。日本で企業の「本社」が東京に集中したのにはそれだけの理由があるとは思うけれど、東京一極集中是正という観点から言えば、企業の本社は、その企業の創業の地に帰るなり、どこか環境の良い地方都市を見つけてそこに移転すべきである。

東京の集積構造は、企業の「本社」によるものだけではない。東京中央市場には、全国から生鮮食料品が集まってくる構造になっているし、鉄道・航空も東京を中心とするネットワークとなっている。サービス産業も東京は盛んだし、多種多様な仕事があるので、そういう面からも東京は集積構造になっている。したがって、企業の「本社」が地方に移転したからといって、東京一極集中が解消されるというわけではない。しかしながら、多くの「本社」が地方に移転すれば、東京一極集中是正にある程度の効果はある。このことは間違いない。したがって、国は、「まち・ひと・しごと創生基本方針2018」(平成30年6月15日閣議決定)のなかに「地方への企業の本社機能の移転・拡充の促進を図る」ことが明確に示された。そして、その裏打ちのために、地方拠点強化税制や地域再生法が、平成30年に改正されている。

地方拠点強化税制というのは、安定した良質な雇用の創出を通じて地方への新たな人の流れを生み出すことを目指し、地方活力向上地域において本社機能を有する施設を整備する事業を地域再生計画に位置付け、当該事業に関する計画について都道府県知事の認定を受けた事業者に対し、課税の特例等の優遇措置を講ずる制度である。

地方再生法とは、地域経済の活性化や地域における雇用機会の創出など、地方公共団体の自主的・自立的な取り組みによって、地域の活力の再生を総合的かつ効果的に推進することを目的とする法律で、平成17年(2005)に制定された。それが、平成30年に改正され、本社機能の移転を行う企業に対する国税の優遇措置が実施されるようになったのである。

しかしながら、これらの優遇措置というのは、東京23 区から地方に本社機能を移転する場合、移転先で必要となる施設整備や雇用に対する優遇措置であって、企業が移転の意志決定を行うときの動機にはなり得ない。企業が移転の意志決定を行うときの動機になり得るためには、東京に本社機能を置いておくよりも地方に移転した方が安上がりになるということが必要で、そのための国税に関する税制上の特別措置が必要である。

 

 

木村好夫(その8)

別れの一本杉

https://www.youtube.com/watch?v=F9PvYItxFM0

2019年6月22日 (土)

清水寺の地主神社

清水寺の地主神社


地主神社には、平安時代に清水寺が創建された時よりはるかに古い信仰の歴史があった。つまり、清水寺の谷筋は、縄文時代からの死者埋葬の地であり、縄文人の祈りがあったのである。

大谷本廟から清水寺にかけての尾根筋が「鳥辺山」である。比叡山から東山に続く主尾根にある阿弥陀峰から発して、清水寺を経て大谷本廟に続く枝尾根が「鳥辺山である。そして、その北側、すなわち阿弥陀峰から発する谷が「鳥辺野」である。
伏見稲荷の場合は伏見山から発する谷筋に埋葬地の中心「御膳谷(ごぜんだに)」があり、「六道の辻」の場合は阿弥陀峰から発する谷筋に埋葬地の中心にそれがあったという訳である。

地主神社の公式ホームページによれば、地主神社の創建年代は縄文時代とされ、近年の研究により「恋占いの石」が縄文時代の遺物であることが確認された。また、周囲が湖であった時代にも、地主神社の境内地は島となっており、不老長寿の霊山「蓬莱山(宝来山)」 あるいは、「蓬莱の島」として古代人の信仰をあつめていた。地主神社の東隣下の崖には今も 「船着き場」の跡が残っている。

ところで、時代が進んで、強者と弱者が出て来ると、堪え難いひどい仕打ちを受ける人も出て来る。そういう人の願いは相手がいなくなることであり、「呪い」という「祈り」とはまったく逆の信仰形態も発生して来る。清水寺の谷筋では、「祈り」の他にさかんに「呪い」も行なわれたようだ。その名残が清水寺の地主神社に残されている。 


清水寺の地主神社:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jishujin.pdf

慈覚大師(その20)

慈覚大師(その20)

第4章 中尊寺や毛越寺の知られざる部分(その1)
第1節 慈覚大師(円仁)と平泉(その1)

まず、中尊寺の公式ホームページをご覧いただきたい。トップページに世界遺産・関山中尊寺と書いてある。
http://www.chusonji.or.jp

中尊寺(ちゅうそんじ)は、平泉の文化を色濃く残すものとして、2011年6月に、毛越寺とともに、世界遺産に登録された。浄土思想を表す建築や庭園及び考古学的遺跡群がその登録理由になっている。つまり、平泉の浄土庭園は、アジアからもたらされた作庭概念との交流がうかがえ、その後の仏堂・庭園に影響を与えたこと。平安時代末期約100年にわたり独自に発展させた仏教寺院・浄土庭園は、現世における浄土を具現化したものであり、その文化が現代に息づいていることが評価されたのである。
さあそこでだ。そもそも浄土とは何かということである。浄土思想というものはたいへん奥が深い。哲学的にも考えねばならないところがある。しかし、浄土について哲学的な話をしている人は、私は中沢新一をおいて他に知らない。したがって、ここで、まず中沢新一の「浄土論」を紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nakajyou.html

地方創生の成功のために(その11)

地方創生の成功のために(その11)
第4章 東京一極集中の是正(その1)


日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期、いわゆる高度成長期は、1954年(昭和29年)12月(日本民主党の第1次鳩山一郎内閣)から1973年(昭和48年)11月(自民党の第2次田中角栄内閣)までの約19年間である。その高度成長期に、人口の東京一極集中が進んだ。高度成長が終わり、しばらくは人口の東京一極集中は緩和されるが、平成8年ごろから再び集中が始まり、現在なお緩和される気配はない。
以上のような東京一極集中の様子は次のホームページによってもうかがい知ることができる。

http://www.metro.tokyo.jp/INET/KONDAN/2016/01/40q1s100.htm

 

東京一極集中の弊害は、いろいろあると思うが、最大の問題は過疎問題であると思う。「はじめに」述べたように、「2040年には、全国の市町村のうち約3割で人口が一万人未満となって消滅する恐れがある」という日本創成会議の報告があるが、このような問題は東京一極集中が是正されない限り、解消されない。過疎問題と東京一極集中の問題は裏腹の関係にあるのである。何としても東京一極集中の是正を図らなければならない。
「地方創生を超えて・・・これからの地域政策」(2018年7月、岩波書店)では、次のように述べている。すなわち、

『 国は、「まち・ひと・しごと創生長期ビジョン」において、人口減少への対応に向けては、1つは、出生率を向上させることにより人口減少に歯止めをかけ、将来的に人口構造そのものを変えていこうとする「積極戦略」を提示し、2つ目に、今後数十年間の人口減少は避けられないことから、人口減少に対応して、効率的な社会システムを再構築するという「調整戦略」を示している。さらに、この二つを同時並行的に進めていくために基本となる3つの視点を挙げている。1番目は「東京一極集中を是正する」こと、2番目は「若い世代の就労・結婚・子育ての希望を実現する」こと、3番目が、「地域の特性に即した地域課題を解決する」ことである。大変明快な整理であるが、1番目の東京一極集中の是正に向けた取り組みは、地方からの若い世代の人口流出に歯止めをかける、まさに地方創生の肝となる取り組みである。国が自らの責任で率先して範を示すべきであるが、政府機関の移転については、文化庁ぐらいで、あとは一部の研究機関のみとほとんど進んでおらず一極集中是正にはほど遠い状況である。痛みを伴う取り組みを国が示すことで、地方に対する説得力も増して、両輪がかみ合い、加速していくものだけに残念である。』・・・と。

「地方創生を超えて・・・これからの地域政策」(2018年7月、岩波書店)では、東京一極集中の是正について国の本気度が足らないと述べている。私もそう思う。東京一極集中の是正に向けた取り組みは、地方からの若い世代の人口流出に歯止めをかける、まさに地方創生の肝となる取り組みであるにもかかわらず、国の取り組みが不十分である。そこで、以下において、東京一極集中是正の問題に焦点を絞り、その解決策を考えてみたいと思う。

 

木村好夫(その7)

お富さん

https://www.youtube.com/watch?v=xwszO1dvOg4

2019年6月20日 (木)

京都とねね

私は、秀吉の行った事業について聚楽第や高台寺については、すでに部分的ではあるがすでに書いた。

聚楽第: 2017年9月10日
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyurakudai.pdf
高台寺: 2018年8月10日
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/koudaiji.pdf

しかし、それらについては足らざる部分を補足する必要がある。

また、秀吉の業績の一つである方広寺については何も書かなかった。さらにねねが秀吉の死後なぜ京都に住んだのか、その理由についても何も書かなかった。そこでこの度、「京都とねね」というタイトルで、聚楽第、高山寺の補足文章を書くとともに、方広寺の詳しい説明をした。


豊臣秀吉の妻・「ねね」は、素晴らしい女性である。彼女がいなければ、木下藤吉郎の出世はなかったし、秀吉になってからの出世もなかったし、天下人になることもなかった。秀吉を支え続けた彼女ではあるが、お茶目で、賢く、また度胸もあった。こんな素晴らしい女性は歴史上いなかったと思われる。

その豊臣秀吉の妻・「ねね」(「おね」と呼ばれることもある)は、秀吉の死後、何故京都に住むようになったのか?

ねねが秀吉とともに過ごした地で思い出深いところはいくつかあるであろうが、秀吉の行った事業を目の当たりに見て、しかもその跡(あと)が色濃く残っているところといえば、京都である。したがって、ねねは、秀吉の死後、秀吉を偲ぶために京都に住んだのである。その頃、ねねは北政所と呼ばれていたが、北政所は秀吉を偲びながら彼の霊を弔っていたのである。


「京都とねね」:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kyoutotonene.pdf

慈覚大師(その19)

慈覚大師(その19)
第3章 立石寺(その7)
第7節 聖徳太子の碑

立石寺に聖徳太子の碑が建っている。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/syoutokuhi.jpg


その謂れは次のとおりである。

林越前守政照という人がいる。林越前守政照は天王寺の楽人と伝えられるが、詳細は不明。しかし、林家の人であることは間違いない。林家というのは、山形県西村山郡河北町の谷地八幡宮宮司の家柄で、舞楽を舞う家柄でもある。

谷地八幡宮は、寛治5年(1091年)、鎮守府将軍・源義家が、神恩に感謝して石清水から白鳥村(現 村山市白鳥近辺)に八幡神を勧請して祭祀を行ったのに始まると伝えられる。天正年間(1573年 - 1592年)頃、谷地城主・白鳥長久が白鳥村から現在地に遷し、鎮守とした。寒河江八幡宮・溝延八幡宮とともに「寒河江荘三八幡」と称され、武家の崇敬を受けた。
9月の例祭で奉納される「谷地の舞楽」は、大阪・四天王寺の楽人の流れをくむ神職・林家が一子相伝で伝承しているもので、「林家舞楽」とも呼ばれ重要無形民俗文化財に指定されている。林家舞楽は、宮中舞楽・四天王寺舞楽・南都楽所舞楽と並ぶ日本四大舞楽の一つとされる。
昔は山形各地で舞楽が行われていたが、現在は谷地八幡宮の秋の例祭(9月14日・15日)に同社境内で、寒河江市の慈恩寺の春の法会(5月5日)に同寺山門に設けられた舞台で舞われる。ほかに、数年に一度催される山形市山寺立石寺臨時法要に奉納される。

林家文書には、貞観2年(860年)、円仁により山寺が開創されると、その儀式楽を司るために、天王寺楽人であった林越前守政照は楽人一派を率いて奥州に下り、現在の天童市干布地区に定住し、舞楽を奉仕したと伝えられている。

その天王寺楽人は聖徳太子に起源している。さらに、林家は、聖徳太子の重臣となった秦河勝の子孫とされる。したがって、林越前守政照が天王寺楽人たちと立石寺創建時に舞楽を奉納するとき、きっと聖徳太子に無事を祈る儀式を行ったに違いない。

天王寺舞楽は次の動画をご覧ください。誠に厳かなものである。
https://www.youtube.com/watch?v=bdhZqLfxo3I

「林家舞楽」は次の通りです。
https://www.youtube.com/watch?v=9zqi-FL5JSM

 

以上のような林家であるので、「聖徳太子ゆかりの林家舞楽」の無事を祈って、いつの頃か立石寺に聖徳太子の碑を建てたのであろう。

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