文化・芸術

2017年3月29日 (水)

台湾(その6)

台湾(その6)

第1章 日台交流の歴史(大航海時代まで)

第2節 にゃんにゃん(その2)

以上の通り、海辺の民「蚤民族」(アタ族)が祀りすがった神が「にゃんにゃん」である。正式には「媽祖(まそ)」または「娘媽神女」で、別名「天后」「天妃」ともいう。この神は、海を放浪するアタ族のために、自ら海中に身を投げて航海の安全を祈ったという伝承を持ち、南は海南島からマカオ、台湾、日本に至るまで、広く祀られている。

日本の場合、この神の溺死体が漂着したとされているところが南さつま市の野間岬である。野間岳の中腹にある「野間神社」の由緒書きには「娘媽」の死体が野間岬に漂着したのでこれを野間岳に祀ったと記されている。

「娘媽」は「ノーマ」または「ニャンマ」と読む。 媽祖(まそ)すなわち「にゃんにゃん」は、まったく道教の歴史と関係がないのだが、アタ族や華僑にとっては正真正銘の道教の神なのである。

日本の媽祖廟としては横浜媽祖廟が有名であるが、媽祖は日本在来の船玉信仰や神火霊験譚と結び付くなどして、古来、各地で信仰されるようになった。
江戸時代以前に伝来・作成された媽祖像は、南薩摩地域を中心に現在30例以上確認されている。江戸時代前期に清より来日し、水戸藩二代藩主徳川光圀の知遇を得た東皐心越が伝えたとされる天妃神の像が、茨城県水戸市の祇園寺に祀られている。また、それを模したとされる像が、北茨城市天妃山の弟橘姫神社、大洗町の弟橘比売神社(天妃神社)、小美玉市の天聖寺にも祀られている。
青森県大間町の大間稲荷神社には、天妃媽祖大権現が祀られている。元禄9年に大間村の名主伊藤五左衛門が水戸藩から天妃(媽祖)を大間に遷座してから300周年を迎えた1996年(平成8年)以降、毎年海の日に「天妃祭」が行われている。この大間稲荷神社は台湾の媽祖信仰の総本山である雲林県の北港朝天宮と姉妹宮である。

2000年(平成12年)以降、長崎市の長崎ランタンフェスティバルにおいて、長崎ネットワーク市民の会の企画運営で「媽祖行列」が行われている。興福寺に媽祖をお迎えすることで祭りが始まる。

また、沖縄県八重瀬町港川にあるうたき、唐の船うたき(とうのふにうたき)は、かつてその地に難破した中国の貿易船の船員が建てた祠であり、媽祖が祀られている。








2017年3月28日 (火)

台湾(その5)

台湾(その5)

第1章 日台交流の歴史(大航海時代まで)

第2節 にゃんにゃん(その1)

にゃんにゃん(媽祖)は宋代に実在した官吏の娘、黙娘が神となったものであるとされている。黙娘は建隆元年(960年)、福建省興化府の官吏林愿の7女として生まれた。幼少の頃から才気煥発で信仰心も篤かったが、16歳の頃に神通力を得て村人の病を治すなどの奇跡を起こし「通賢霊女」と呼ばれ崇められた。しかし28歳の時に父が海難に遭い行方知れずとなる。これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ神となったという伝承が伝わっている。
なお、父を探しに船を出し遭難したという伝承もある。福建省にある媽祖島(現在の南竿島とされる)に黙娘の遺体が打ち上げられたという伝承が残り、列島の名前の由来ともなっている。その伝承が日本にも伝わったのであろうか、南さつま市にはにゃんにゃん(媽祖)の遺体が打ち上げられたとの伝承がある。
媽祖信仰の盛んな浙江省の舟山群島(舟山市)には普陀山・洛迦山があり渡海祈願の神としての観音菩薩との習合現象も見られる。もともとは天竺南方にあったとされる普陀落山と同一視された。
媽祖は千里眼(せんりがん)と順風耳(じゅんぷうじ)の二神を脇に付き従えている。この二神はもともと悪神であったが、媽祖によって調伏され改心し、以降媽祖の随神となった。
媽祖は当初、航海など海に携わる事柄に利益があるとされ、福建省、潮州など中国南部の沿岸地方で特に信仰を集めていたが、時代が下るにつれ、次第に万物に利益がある神と考えられるようになった。歴代の皇帝からも媽祖は信奉され、元世祖の代(1281年)には護國明著天妃に、清代康熙23年(1684年)には天后に封じられた。媽祖を祀った廟が「天妃宮」、「天后宮」などとも呼ばれるのはこれが由縁である。 媽祖信仰は、福建省・潮州の商人が活動した沿海部一帯に広まり、台湾をはじめとする多くの港町に媽祖廟が建てられた。台湾においては、この媽祖信仰は日本統治時代末期に台湾総督府の方針によって一時規制された。なお台北最大規模だった「天后宮」は1908年に台湾総督府により撤去され、かわりに博物館(現 国立台湾博物館)が建てられた。
日本統治の終了後は再び活発な信仰を呼び、新しい廟祠も数多く建立されるようになった。なお毎年旧暦の3月23日は媽祖の誕生日とされ、台湾全土の媽祖廟で盛大な祭りが開催されている。
こうして広まった媽祖信仰であるが、中華人民共和国政府は「迷信的・非科学的な活動の温床」ととらえ、厳しく規制した。特に文化大革命期にはほぼすべての廟祠が破壊され、信者も迫害されたが、改革開放の進展とともにこうした規制は次第に曖昧になり、80年代終わり頃から廟祠の復興が黙認されるようになった。

2017年3月27日 (月)

台湾(その4)

台湾(その4)

第1章 日台交流の歴史(大航海時代まで)

第1節 阿多隼人(その3)

以上の通り、大和朝廷は、その守りのために、現在の和歌山県と奈良県の県境附近、つまり奈良県五條市と高取町附近に阿多隼人をおいたものと思われる。すなわち、阿多隼人は、外敵から大和朝廷を守るという重大な職務を負っていたのである。外敵とは、中国水軍であろう。私の考えでは、大和朝廷の防衛に阿多隼人を当たらせたのは藤原不比等の深慮遠謀によるもの」と思われる。藤原不比等は、中国水軍の朝鮮半島からの来襲の他に、福建省からの来襲を恐れていたのであろう。

なお、阿多隼人に端を発する薩摩隼人は、その呪力によって天皇をお守りしていたことが知られている。
「延喜式」巻28(隼人司)には、元日・即位・蕃客入朝などの大儀には、「大衣2人、番上隼人20人、今来隼人20人、白丁隼人132人が参加した」と記されてお り、遠従の駕行には、「大衣2人、番上隼人4人、今来隼人10人が供奉した」とあり、隼人の呪力が大和政権の支配者層に信じられ、利用されていたと見られ ている。井上辰雄らは、狗吠(犬の鳴き真似)行為や身につけている緋帛の肩巾(ひれ)や横刀が、悪霊を鎮める呪声であり、呪具であった事を明らかにしている。

日本はいうまでもなく邪馬台国の時代から大和朝廷の時代を通じて中国の朝貢国であった。しかし、大和朝廷の認識としては、南さつま市のあたりは、中国の領土ではないものの、中国の影響を強く受ける地域であり、中国軍の攻めてくる心配があった。

白村江の戦いに完敗した日本は北部九州と瀬戸内海沿岸の防備を図るが、さらに藤原不比等は、薩摩隼人の懐柔を図る。それによって、薩摩隼人が中国水軍と連合して大和に攻め上るという心配は無くなった。
しかし、薩摩隼人と福建省や台湾の人々との交流がなくなったわけではなかろう。私は交易目的の往来は続いていたものと思う。時代は流れ平安時代になると、にゃんにゃん(媽祖)信仰が日本にも及ぶことになる。



2017年3月24日 (金)

台湾(その3)

台湾(その3)

第1章 日台交流の歴史(大航海時代まで)

第1節 阿多隼人(その2)

奈良県立橿原考古学研究所は2004年12月14日、高取町薩摩で古墳時代前期と中期の古墳群が出土したと発表した。周辺で遺跡が確認されたのは初めてで、地名から薩摩遺跡と命名した。国内では似た例のない文様を描いた国産の銅鏡が見つかるなど副葬品は豊富で、同研究所は「和歌山と大和を結ぶ「紀路」が古代の重要ルートだったことを裏付ける遺跡」とみている。( http://inoues.net/club2/morikasidani.html より)

隼人研究室というホームページによると、『 奈良県高取町の「薩摩」が「阿多隼人の薩摩と関係あるのかないのか」の疑いは、そこの近隣に「兵庫・吉備・土佐」など、古今を通じて有力な国の名が集落名として連なることから疑問の余地はない。』との事であるが、私も同感である。
「紀路」の西の出口(奈良県五條市)にあたる住川遺跡では、やはり古墳時代初頭に墓地が形成されており、それは東の出口(奈良県高取町)にあたる薩摩遺跡と対をなしている。また、古墳時代中期には和歌浦より紀ノ川を遡り、この「紀路」を経由して、中国大陸や韓半島から渡来した人・物・情報が大和へ入ってきたことが推定されてい る。つまり、「紀路」は古墳時代の国際交流を支える重要なルートであったのである。薩摩遺跡における豊富な内容をもつ古墳の存在は、そのことを裏付ける重要 な証拠である。

奈良県五條市に 阿陀比賣神社がある。

祭神は、阿陀比賣神(コノハナノサクヤビメ)、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)である。その由緒書きによると、次の通りである。 

『和名抄』の大和国宇智郡阿陀郷の名が見える。当社の鎮座地である。また『和名抄』に、薩摩国阿多郡阿多郷の名が見える。阿多隼人の居住地である。開聞岳を神奈備山としていた隼人である。なお、隼人には大住隼人もいる。こちらは人数が多いようだ。
 阿多隼人は少数派だが名門で『記紀』では皇室に妃を出している。当神社の祭神の阿陀比賣神とは神阿多都比売、または木花佐久夜姫命と言い、まさに皇室の祖先の母親とされている。
 吉野川は南方漁法の鵜飼が行われていた地域であり、薩摩から移住の者が地名、魚法、祭神を持ち込んだものと見て差し支えはなさそうだ。 大三元さんに教えていただいた「日本の地名」(谷川健一著)には 鵜のことを沖縄では「アタック」と呼んでいたとの紹介があり、 明治十四年に上杉県令が沖縄本島を巡察した際に地元の人が、 鵜のことを「アタック」と言ったという記録が巡回日誌にとどめられている。
 さて、当地は、吉野と宇智の境にあたる。大きくは大和と紀伊、畿内と畿外の境、サカの地である。サカの守りとして隼人を置いたとも思われる。

2017年3月21日 (火)

台湾(その2)

台湾(その2)

第1章 日台交流の歴史(大航海時代まで)

第1節 阿多隼人(その1)

漢王朝の時代に中華文明が確立した。中華文明においては、王朝の直接統治する領土があり、その周縁に間接統治のいわゆる朝貢国が存在するという地域構造になっている。

今私は、台湾に焦点を当てて日本との繋がりを書こうとしているので、問題になるのは福建省である。北方や西方は別として、福建省、広東省、江西省で見る限り、中国の版図は、漢の時代に確立された。 秦の時代は、福建省、広東省、江西省地方の領土はまだ不安定であったのである。
沢史生の「閉ざされた神々」によると、中国の福建省から広東省の海岸に展開する海辺の民「蚤民族」は、もともと閔国(ビンコク、福建)の民だったが、秦の始皇帝によって蛮族として駆逐され、以後、海辺でかろうじて生息する賤民水上生活者として、実に21世紀に至る今日まで虐げられた底辺の生活を強いられてきたという。秦以降の歴代王朝もこの民族に対する「賤視差別政策」を中断することなく、彼らの陸での生活を決して許さなかった。したがって、彼らは常に海をさすらい、新天地を求めて島々を渡り歩き、遂に日本にも辿り着いたのである。その地が、南かごしま市である。これが世に言う「阿多族」であり、「阿多隼人」の祖先である。この 阿多隼人については、私の論文「邪馬台国と古代史の最新」の第7章第1節に書いた。そこにも書いたが、今ここでの文脈で私の考えの要点を申し述べておきたい。

藤原不比等は阿多隼人並びに海人族のネットワークを恐れると同時に、阿多隼人を直轄の臣下にすることによって、全國の「アタ族」を統括したのだと思う。その主なものは熊野水軍と伊豆水軍である。白村江の戦いで、我が水軍の総司令官を勤めたのが伊豆水軍の流れを汲む庵原氏である。そういうことを不比等は十分知っていて、熊野水軍や伊豆水軍を大事にしたのである。それは、熊野神社や伊豆山神社を朝廷が大切にあつかってきたのを見ても解る。伊豆山神社のその伝統は、鎌倉幕府まで続く。
そういうことを考えていると、私は、やはり日本は、海洋国家だなあと思う。阿多隼人の国、薩摩から、かの世界の名将東郷元帥が出たのも、当然のことだと思ったりする。

しかし、阿多隼人と大和朝廷との関係については、その論文に書かなかった。そこで、ここでは、阿多隼人と大和朝廷との関係について詳述しておきたい。





2017年3月16日 (木)

地蔵信仰(その11)

地蔵信仰(その11)

おわりに(その2)

時代の流れとともに、これからもお地蔵さんは、進化をしていくであろうが、将来、どのようなお地蔵さんが地域に祀られるのか私には想像できない。

しかし、すべてが複雑で困難な時代、家庭の親父であろうが、会社の重役であろうが、国のリーダーであろうが、怒りを抑えて常に冷静な判断ができる人間が求められている。通常、私たちは、往々にして怒りで血が頭に上り、冷静な判断ができなくなるときがある。私たち人間は、慈悲と怒りの両面を持っている。私たちがその怒りを抑えるためには、やはり仏(ほとけ)の力にすがるしかないのではないか。自分自身を慈悲と怒りの両面を持っている人間だと自覚し、地蔵菩薩を以って終身の守護とした歴史上の偉大な人物がいる。足利尊氏である。

足利尊氏が終身の守護とした地蔵菩薩は、この論文で縷々述べてきたお地蔵さんとは根本的に性格を異(こと)にする。 足利尊氏が終身の守護とした地蔵菩薩は、私たちに幸せをもたらすというより、克己のためのものであり、私が通常抱いているお地蔵さんのイメージとは異なるので、この論文では取り扱わなかった。しかし、 すべてが複雑で困難なこの時代、足利尊氏が終身の守護とした地蔵菩薩のような地蔵菩薩が必要かと思われるので、「おわりに」当たって、私の書いた論文「足利尊氏の地蔵信仰」を紹介しておきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/takajizou.pdf

2017年3月13日 (月)

地蔵信仰(その10)

地蔵信仰(その10)

おわりに(その1)

第1章において、『 地蔵という名称は、「大地に万物を生み、諸宝を蔵す」という意味で、大地に豊穣をもたらす地の神であり、十一面観音と地蔵が一対に祀られるのは、天の神の依り代の神籬(ひもろぎ、神の依り代となる木)と、地の神の出現する磐座が、一対に祀られていたことに起因する。』と述べた。すなわち、十一面観音と対に祀られている地蔵菩薩が、泰澄の発想による日本最初の地蔵菩薩のタイプで、それは日本古来の繋ぎの神の伝統を引き継いでいる。

次に、第2章においては、『 私の記憶にあるお地蔵さんは、 奈良を中心に、十一面観音と対になって祀られている地蔵菩薩とはまったく違うが、京都の寺町三条の矢田寺に祀られている地蔵菩薩(代受苦地蔵)とは、どうも同じ範疇のものらしい。』と述べ、その起因について『 延命地蔵菩薩経というのがあるが、そこに「 若有重苦 我代受苦」とあって、地蔵菩薩は、「 衆生にもしも重苦があれば、 我が代わってその苦を受けん」と、お釈迦さんに誓っている。』と説明し、さらに『 代受苦地蔵 は、亡くなった子どもや親を地獄の苦しみから救って欲しいという切なる願いだけでなく、生きている人間にももし重苦があれば、それを救ってくれるのである。そういう点で、 私の記憶にあるお地蔵さんはすべて 代受苦地蔵であって、矢田寺の代受苦地蔵とは姿は違っていても、同じ範疇のものである。』と述べた。すなわち、矢田寺に祀られている地蔵菩薩および私の記憶にあるお地蔵さんは、ともに代受苦地蔵に起因する。その代受苦地蔵という考え方は、平安時代初期に、珍皇寺において小野篁が大きく関与して広まった思想である。珍皇寺のお地蔵さんもそういう地蔵である。

次に、第3章においては、『 人々は、あの優しげなお地蔵さんでも、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを未然に防ぐことができると考えて、実際に、村はずれの峠、村境、道の分岐点、橋のたもとなどにあの優しげなお地蔵さんを祀った。』と述べ、さらに『 平安時代の末期ないし室町時代において、お地蔵さんは、第2章で述べた 代受苦地蔵 という本来の姿から、より積極的に人々の災いを未然に防ぐ姿へと、進化を遂げられたのであろう。村はずれの峠、村境、道の分岐点、橋のたもとなどに祀られている「笠地蔵」のようなお地蔵さんこそ、庶民誰もが親しみの持てるかつ頼りになるお地蔵さんである。』と述べた。

十一面観音と対に祀られている地蔵菩薩は、泰澄の発想により、国家権力を背景に広まったものであり、矢田寺に祀られている地蔵菩薩(代受苦地蔵)は、小野篁の発想により、民衆の信仰心を背景に広まったものである。それらに対し、村はずれの峠、村境、道の分岐点、橋のたもとなどにあの優しげなお地蔵さんは、誰の発想によるものでもなく、自然に民衆の信仰心が生み出したものである。そこに、地蔵菩薩の進化の過程がうかがわれる。民衆の信仰心の広がりというものは地蔵菩薩の性格をすっかり変え、現在では、十一面観音と対に祀られている地蔵菩薩であろうと、 矢田寺に祀られている地蔵菩薩(代受苦地蔵)および私の記憶にあるお地蔵さんであろと、それらを区別することなく、すべてお地蔵さんであり、「笠地蔵」のような庶民誰もが親しみの持てるかつ頼りになるお地蔵さんのイメージであろう。


2017年3月12日 (日)

地蔵信仰(その9)

地蔵信仰(その9)

第3章 峠などに祀られているお地蔵(その3)

六道に迷った衆生を救う地蔵菩薩(代受苦地蔵)については、第2章で述べた。

代受苦地蔵 とは、亡くなった子どもや親を地獄の苦しみから救って欲しいという切なる願いだけでなく、生きている人間にももし重苦があれば、それを救ってくれる、そういうお地蔵さんである。そういうお地蔵さんが疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを未然に防ぐことができるのだろか? それが私の抱く疑問である。

勝軍地蔵というのがある。地蔵菩薩が身に甲冑(かつちゆう)を着け,右手に錫杖(しやくじよう)を持ち,左の掌(てのひら)に如意宝珠を載せ,軍馬にまたがった姿をしたものであるが、そういう悪と戦う威力を持った地蔵菩薩であれば、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを未然に防ぐことができるだろうけれど、村はずれの峠などに祀られている「笠地蔵」のように、あの優しげなお地蔵さんがそういう戦う威力を発揮されるとは到底思えない。しかし、人々は、あの優しげなお地蔵さんでも、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを未然に防ぐことができると考えて、実際に、村はずれの峠、村境、道の分岐点、橋のたもとなどにあの優しげなお地蔵さんを祀った。その点、どう考えればいいのであろうか?

賽の河原で獄卒に責められる子供を地蔵菩薩が守る姿は、中世より仏教歌謡「西院河原地蔵和讃」(http://blogs.yahoo.co.jp/uuatanabetakahiko/28829673.html)を通じて広く知られるようになり、庶民感覚に大変化が起こったのではなかろうか。すなわち、私は、いつの頃かはっきりしないが、中世、つまり平安時代の末期ないし室町時代において、お地蔵さんというは、地獄であろうが村外であろうが異界と自由に行き来して、閻魔大王であろうが悪神・悪霊であろうが山賊であろうが、村に疫病・災害などをもたらさないよう説得してくれると、人々は考えるようになったのではなかろうか。つまり、平安時代の末期ないし室町時代において、お地蔵さんは、第2章で述べた 代受苦地蔵 という本来の姿から、より積極的に人々の災いを未然に防ぐ姿へと、進化を遂げられたのであろう。村はずれの峠、村境、道の分岐点、橋のたもとなどに祀られている「笠地蔵」のようなお地蔵さんこそ、庶民誰もが親しみの持てるかつ頼りになるお地蔵さんである。

2017年3月11日 (土)

地蔵信仰(その8)

地蔵信仰(その8)

第3章 峠などに祀られているお地蔵(その2)

道祖神に関して、ウィキペディアでは、『 平安時代の『和名抄』にはすでに「道祖」という言葉が出てきており、そこでは「さへのかみ(塞の神)」という音があてられている。すなわち、外部からの侵入者を防ぐ神であった』と説明されている。

また、「境の神」に関して、世界大百科事典 第2版の解説では、『サエノカミ(塞の神),ドウロクジン(道陸神)、フナドガミ(岐神)などとも呼ばれ、村の境域に置かれて外部から侵入する邪霊,悪鬼,疫神などをさえぎったり、はねかえそうとする民俗神である。陰陽石や丸石などの自然石をまつったものから,男女二神の結び合う姿を彫り込んだもの(双体道祖神)まで,この神の表徴は多様である。』と説明されている。

さて、「くなどの神」に関して、ウィキペディアでは、『平安後期以降では仏教の説く六道輪廻の概念から生じた末法思想を背景に、六道に迷った衆生を救う地蔵菩薩信仰が民間で盛んとなり、岐(くまど)の神として六地蔵が置かれるようにもなった。』と説明されているが、ここで疑問が生じてくる。岐(くまど)の神や境の神は、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神であるから、本来、恐ろしい威力を持った神でなければならない筈であるのに、何故、六地蔵が置かれるようにもなったか?




2017年3月10日 (金)

地蔵信仰(その7)

地蔵信仰(その7)

第3章 峠などに祀られているお地蔵(その1)

私の好きな昔話に「笠地蔵」というのがある。「はじめに」述べたように、村はずれの峠などに祀られている笠地蔵のようなお地蔵は、十一面観音と対になって祀られている地蔵菩薩と矢田寺に祀られている地蔵菩薩とは、どうも種類の違うお地蔵さんらしい。したがって、ここでは、峠などに祀られているお地蔵がどのような経緯で祀られるようになったのか、それを明らかにしたいと思う。

峠などとは、村はずれの峠、村境、道の分岐点、橋のたもとなどである。こういうところに祀られている神は、多種多様だが、本来は、どうも「くなどの神」とか「境の神」と呼ばれる神らしい。そのような神はどのような経緯で祀られるようになったのか、まずそれを勉強することとしたい。

古くは、京の都の四隅において行われた祭りで 道饗(みちあえ)祭という祭があった。これは、京の都で行われた神祇令に定められた神道恒例の祭りであったが、疾疫あるときは臨時に諸国で行われたらしい。地方で行われた臨時の 道饗(みちあえ)祭については文献がないので、その内容がはっきりしないが、京の都で行われた 道饗(みちあえ)祭については、《令義解》や《延喜式》などの文献に出てくる。
《令義解》によると、鬼魅(きみ)が外から侵入してくるのを京の都に入れないようにするため、京の都の四隅の路上で饗応し遏(とど)むるのだという。また、《延喜式》の同祭祝詞によると、八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売、久那斗(くなど)の三神をまつり、鬼魅・妖物の侵入を防ぎまもってもらうため、幣帛(へいはく)をたて祀って行われるのだという。

これらの文献によると、鬼魅(きみ)が外から侵入してくるのを防ぐ目的があったこと、久那斗(くなど)の神という神がいるということが判る。

ウィキペディアによると、「くなどの神」とは、 民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神であると書かれており、「久那土」には「岐」という漢字が当てられている。そして、「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味であるとされている。

私は学者でないので、これ以上のことは解らないが、「きてはならない」とは疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が来てはならないという意味であり、そういう疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が通るであろう 道の分岐点、峠、橋、あるいは村境などに 岐(くなど)の神を祀って、悪神・悪霊が村人の生活空間に入ってくるのを防ぐよう努めたのであろう。ウィキペディアには、そういう「くなどの神」に対する民間信仰が、道祖神の原型であると書かれている。



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