文化・芸術

2017年7月25日 (火)

希望の習近平(その1)

希望の習近平(その1)
新たに習近平に期待するもの
1、はじめに
天命思想による政治、それが中華のあるべき政治であるが、はたして習 近平がそういう政治を今後やっていけるかどうか? 私は、今皇帝になった習 近平に是非それをやってもらいたいと願っている。そのためには、孟子の天命政治を貫いてほしいし、日本と一緒になって世界平和路線を歩んで欲しい。それが習 近平に期待するものである。
そのためには、習 近平が今皇帝として中国共産党王朝に君臨し、中国共産党の中で絶対的な権力を持たなければならない。その前提条件として、習 近平は軍を掌握することと農民の支持を受けることが必要である。その上で、中華政治として世界平和路線のための政策を打ち出すことが必要である。覇権主義はもってのほかである。習 近平がそれらのことができる人物であるとして、習近平に対する期待を書いたものが私の論文「習近平に期待するもの」である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/syuukin.pdf

2017年7月20日 (木)

プラトンら

プラトンとニーチェとミヒェルス

歴史的に民主主義への批判は数多いが、ここではこの三人を挙げておきたい。

古代アテネなどの民主政は、各ポリスに限定された「自由市民」にのみ参政権を認め、ポリスのため戦う従軍の義務と表裏一体のものであった。女性や奴隷は自由市民とは認められず、ギリシア人の男性でも他のポリスからの移住者やその子孫には市民権が与えられることはほとんど無かった。しかし、後に扇動的な政治家の議論に大衆が流され、政治が混乱しソクラテスが処刑されると、プラトン・アリストテレス・アリストパネスなどの知識人は民主政を「衆愚政治」と批判し、プラトンは「哲人政治」を主張した。

ニーチェは、民主主義の価値相対主義と平等主義はニヒリズムであると指摘した。リベラル(寛容)であるということは、命がけで守る信念もこだわりもないということであり、平等であるということは、高貴な貴族が消滅し、国民全体が畜群と化すということである。ニーチェは、“命がけで戦うなど野蛮であり、そんなことはしない自分たちは理知的であり、合理的であり、大人である”と胸を張る民主主義者たちのことを、最後の人間と呼ぶ。“民主主義者たちは胸を張るが、その胸は空っぽだ”と指摘している。

ロベルト・ミヒェルスは、実行力を持った組織をつくろうと思ったら、必ず権力は集中し、寡頭制化するという寡頭制の鉄則を説き、本質的な意味でチェック・アンド・バランスの機能した権力分立体制をつくることの困難さを指摘している。少数による多数の支配は不可避であり、現代の民主体制でも、国民→議員→政党→党首というように、必ず一個人や一組織に最終的な権力が集中する構造になっている。

2017年7月17日 (月)

スイスインフォ

スイスインフォ
欧州と米国で民主主義が深刻な危機状態にあることは、2016年の日々のニュースを見れば明らかだ。自由民主主義は、まさにそれが誕生した国々のもとで死に絶えるのだろうか。
スイスインフォはスイス放送協会の一部門であり、権威ある報道機関である。スイスインフォは国外向けにスイスのニュースや情報を発信するウェブサイトであり、主にスイスの政治、経済、文化、教育、観光を中心に情報発信している。そのスイスインフォでは、その考察の手がかりとなる議論を投げかけている。
民主制を導入する国の数が伸び悩み、専制政権が台頭している。80年代にラテンアメリカ諸国で独裁政権が倒れ、続くソビエト連邦の解体と89年のベルリンの壁崩壊が、東欧、アフリカ、アジアの民主化のきっかけとなったにも関わらずだ。

英国ケント大学の「スイス政治センター」のクライヴ・H・チャーチ氏によれば、スイスの政治システムは危機状態にある。同教授は、直接民主制のような制度の役割が変化したと言う。「以前は、直接民主制によって、政治システムから除外されている人々が政治に影響力を持つことができた。しかし今日では、政党の政治手段になっている」
今年は、民主主義が定着しているはずの欧州の中枢で、右派を始めとする反体制政党が躍進し、懸念が増している。世界が様々な危機に直面する中で、その対処にてこずる現政府に対して、抗議票が投じられているのだろうか。
 この問題はより深刻だと強調するのは、全米民主主義基金の季刊誌「ジャーナル・オブ・デモクラシー」だ。最新版7月号に掲載された「解体の危機 民主制の失速」と題する記事では、1995年から2014年までに集められたデータが分析されている。

米国富裕層の若者たちのうち、軍事勢力が政権に就けば「よい」と考える人の割合は、95年の6%から現在の35%にまで上昇している。欧州でもやはり同様の傾向が見られる。ジャーナル・オブ・デモクラシーの編集長は、次のように答える。「まだ少数派であるとはいえ、有権者の一部には民主主義のシステムに極めて強い不満を抱いている人々がいる。彼らは、非民主的、反自由主義の政治体制が民主制に取って代わることを望んでいるようだ」
現代の私たちが生きる時代は困難に満ちているが、確固とした民主主義が現下の変化によるショックにどこまで耐えうるかが試されている。

2017年7月16日 (日)

山崎正和

山崎正和に聞く・・・民主主義の衰退

 世界の政治が大きく動く2017年。米国にトランプ新大統領が誕生し、英国では欧州連合(EU)離脱の手続きが開始される見通しだ。国民の直接投票がもたらす潮流をどうみるか。毎日新聞は、評論家・山崎正和氏(82)に聞いた。

--民意のうねりが、全く新しい政治現象を生んでいます。
国民投票の印象的な現象は二つあります。まず、英国のEU離脱を決定した昨年6月の国民投票が大きい。私は「単純化」と言っているのですが、移民問題が貿易の関係まで否定することになりました。

--原因の一つは政治の仕組みにあるのでしょうか。
直接投票の問題ですが、大統領選にせよ国民投票にせよ、二者択一で行われるということなのですね。
国民投票は当然ながらイエスかノーか。A案に賛成だがB案にも魅力があると思っていても投票する時にはどちらかです。そのために無理をする、あるいはうそをつく。一点の賛否が全面的な賛否に変わりやすいのですね。
 それから特に国民投票の場合、結論が出た後の実施策について現実的な方策がありません。英国がEU離脱を決めても、離脱してからどうするかを書いていないからメイ首相はもたもたしています。

--昨年の米大統領選では、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の影響も目に付きました。
 直接投票の欠点を深刻にするのが電子情報化です。国民投票に近いのはツイッターでしょうか。
電子情報の世界にはプロの世論誘導者がいません。
「電子情報社会」の特徴を見ると、直接投票の世界と同じ形をしていることに気がつきます。一種の無政府状態になり政治世界の無政府状態と似た現象が起きている。それらが共鳴すると、政治の矛盾がますますひどくなります。

2017年7月12日 (水)

日本的生き方

日本的生き方
平成17年9月30日、北海道札幌市で国土政策研究会(鈴木道雄会長)主催による第7回国土政策フォーラムが開催され、本多満北海道開発局長が基調講演を行い、当時国土交通副大臣であった私(岩井國臣)が「北海道の風土」について、特別講演を行った。その中でフランシス・フクヤマの思想に触れているので、この際、それを振り返っておきたい。今私は、民主主義を礼賛する彼とは違って、民主主義の衰退を感じ取っているが、私はもともとアメリカを礼賛する彼の思想には批判的であったのである。
特別講演の中でフランシス・フクヤマの思想に触れている部分は以下の通りである。

 フランシス・フクヤマは、今を時めくアメリカの哲学者だが、「歴史の終わり」という本の反省として 「人間の終わり」という本を書いた。その結論は・・・、「真の自由とは、社会で最も大切にされている価値観を政治の力で守る自由を意味する。」・・・とい うものである。
 闘争本能にしたがい競争に生きるアメリカ的生き方は、如何にも動物的だと私たちには思われるのだ が、フランシス・フクヤマは、そういうアメリカ的生き方が今世界を引っ張っていっているのだし、やがて世界のアメリカ化が終われば、それで世界の歴史の終 わるのだという。果たしてそうだろうか。むしろ、世界は、アメリカ化していくのではなく、日本化していくのではないか?
山折哲雄は、 コジェーブ(1902ないし1968。ロシア出身のフランスの哲学者)の考えをもとに次のように言っている。コジェーブは、現在の歴史の終焉には万人が賢 者になり理想的な世界が到来するという考えである。では、山折哲雄の言っていることを聞こう。
 『 コジェーブは、「動物性」に逆行しつつある「アメリカ的生活様式」の普遍化、世界化に警告を発 していたのだ。(中略)・・ そして驚くべきことに、そのように書きつけた直後に、かれは「日本」の問題なるものをもち出している。「アメリカ的生活様 式」とは正反対の道をすすんだ「日本の文明」のモデルをわれわれの眼前につきつけるのである。能楽や茶道や華道などの、日本特有のスノビスム(上品振舞 い)というテーマがそれである。(中略)
 最近日本と西洋世界との間に始まった相互交流は、結局、日本人を再び野蛮にするのではなく、(ロシ ア人をも含めた)西洋人を「日本化する」ことに帰着するであろう。 』・・・・と。

 アメリカ的生き方と日本的生き方とは自ずと違うものであろう。日本的生き方は、コジェーブや山折哲雄が言うように、「わび」「さび」の世界である。アメリカンドリームという言葉で象徴的に語られる弱肉強食の世界とは違う。
 ここで注意すべきは、アメリカ的生き方と日本的生き方とは自ずと違う・・・というのは「本来とか」 「本質的に」という意味である・・・ということだ。アメリカ的生き方と日本的生き方とは、「本質」に違うものがある・・・と理解すべきである。 
 日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は「違いを認める文化」であり、日本社会に日本的生活様式とアメリカ的生活様式の二つがあって良いが、大事なことは、地域の人びととともに風土を生きる・・・その充実感である。日本社会というものは、いろんな生き方を 楽しむことのできる世界である。現在は、アメリカ的生き方と日本的生き方が共存している。都市ではどちらかといえばアメリカ的生き方をする人が多いかもし れない。しかし、地方では日本的生き方をする人が多いのではないか。それで良い。今後ともそうであって欲しい。それが日本らしいからだ。
 日本的といえば日本的、アメリカ的といえばアメリカ的。そのどちらでもない。そういう両義的な生き 方をするのがこれから私たち日本人の生きる生き方ということだ。

2017年7月10日 (月)

説明責任

説明責任

フランシス・フクヤマによれば、近代国家の必要条件はデモクラシーではなくてアカウンタビリティである。これに対する適当な日本語がないため「説明責任」という意味不明の言葉に訳されるが、これは単なる「説明する責任」ではなく、「説明のつく行動をとる責任」である。
アカウンタビリティには、「結果に対する責任」と「説明する責任」の二つの責任の意味合いが含まれる。まず、「結果に対する責任」とは自己の役割を全うし、求められた結果を出すことをいう。一方、「説明する責任」とは他者から求められた情報を十分に開示し、結果に至った理由を説明することをいう。

ベストセラー「歴史の終わり」から21年。フランシス・フクヤマが最後の仕事に選んだテーマは、世界・全社会における「政治秩序の起源」という課題であり、その著作の日本版が「政治の起源」(2013年11月、講談社 )である。
その要点を言えば、近代国家の三大必要条件は、一つには「国家」つまり国家の強力な権力、二つ目には「法の支配」それが適正に行使されるための憲法と法律が整っていること、三番目には国家権力は憲法と法律にしたがって適正に行使されていいないとならないことがある。この三番目の必要条件が「アカウンタビリティ」であるが、日本版が「政治の起源」(2013年11月、講談社 )では「説明責任」と意味不明の言葉に訳されているので、 日本版「政治の起源」(2013年11月、講談社 )を読んでもなかなかフランシス・フクヤマの真意が理解できない。

そこで、私は、「説明責任」を「国家の国民に対する責任」と言い換えたい。「国家の国民に対する責任」は、民主主義国家では「 国家の国民に対する結果責任と説明責任」となるし、共産党一党独裁の中国では、「国家の国民に対する指導責任」となる。中国の最高権力者は、 多くの国民が神を信じながら無欲になって無為自然の中に生きる、そのような生き方ができるよう指導しなければならない。民主主義にかぶれ、共産党一党独裁国家を転覆させようとする輩を決して許してはならないのだ。

中国は、その長い歴史の中で「天命政治」が行われてきたのであり、 多くの国民が神(道教の神々)を信じながら無欲になって無為自然の中に生きる、 そういう方が国民も幸せだし、国家にとっても都合がいいという「老荘の思想」が息づいてきたのである。ゆめゆめ民主主義を理想としてはならない。

2017年7月 7日 (金)

中国国民の生き方

中国国民の生き方・・・無為自然

多くの国民が賢くて国家に対して色々と要求をするような国家より、多くの国民が神を信じながら無欲になって無為自然の中に生きる、そういう方が国民も幸せだし、国家にとっても都合がいい。老子の第3章と第65章にはそういう趣旨のことが書かれている。

しかし、国民の中には、賢くて国家に対して色々と要求をするような人も出てくる。そういう人は、現在ではインターネットを使って人々に働きかけ、政府に対してデモを行い、国家に働きかけ、自分たちの要求を実現しようとする。

中国では、その代表が 劉 暁波である。 劉 暁波は、コロンビア大学で客員研究者として米国でアメリカの政治を学んだ人であるが、天安門事件に関連して、3度に渡って投獄された。
2008年、「世界人権宣言」発表60周年を意識してか、劉 暁波は、中国の大幅な民主化を求める「零八憲章」の主な起草者となり、再び中国当局に身柄を拘束された。
インターネット上で公開されたサイトは当局によって即座に閉鎖されたが、コピーが転載され続け、2008年12月署名者は6191人、最終的には1万名余りに達した。
2010年2月に「国家政権転覆扇動罪」による懲役11年および政治的権利剥奪2年の判決が下され、4度目の投獄となり遼寧省錦州市の錦州監獄で服役。2017年5月末に末期の肝臓がんと診断され、家族らが仮出所を申請し認められたため6月末に仮出所した。現在、中国医科大付属第一医院(中国語版)に入院し闘病生活を送っている。

「零八憲章」は一言で言えば、民主主義のことであり、フランシス・フクヤマの言う「説明責任」を求めるものである。

2017年7月 4日 (火)

フランシス・フクヤマの誤り

フランシス・フクヤマの誤り

フランシス・フクヤマは、1989年に発表した著書『歴史の終わり』のなかで、共産主義が終焉を迎え、人類は民主主義に留まると予測したが、それから21年経って、新しい著書を書いた。その日本語版が「政治の起源」(2013年11月、講談社)であるが、それは「政治制度の発展と衰退のメカニズム」を明らかにしたもので、 2013年11月 8日 、日本記者クラブで、国家、法の支配、民主主義的な説明責任の三つが近代的な政治システムに必要だ、と説明し、中国、アメリカ、日本と世界の歴史を語った。

フランシス・フクヤマの考えは、 1989年に発表した『歴史の終わり』の延長線上にあり、共産主義が終焉を迎え、人類は民主主義に向かうというものであるが、果たしてそうであろうか? フランシス・フクヤマは、 日本記者クラブで、「国家、法の支配、民主主義的な説明責任の三つが近代的な政治システムに必要だ」と説明したが、「民主主義的な説明責任」というのは、やはり民主主義にこだわった考え方であり、中国の天命政治に対する理解が不足しているのではないか? 

私がいう中国の天命政治とは、共産党の一党独裁政治に他ならないが、共産党の最高指導者は、絶えず天命を意識すべきであって、国民に迎合する必要はさらさらない。天命政治の場合、国民に対して指導責任があるのであって、民主主義的な説明責任は必要ないのである。したがって、中国がより近代的な政治システムに向かう場合、私は、国家権力と法の支配と国民に対する指導責任がバランスよく融合しておればいいと考える。

何清漣は女性経済学者でありジャーナリストであるが、彼女によると、2015年5月に王岐山(習近平の懐刀であり、中央規律委の実際の指揮官)がフランシスフクヤマと会見した際、王岐山はフランシス・フクヤマに対して、中国は西側の予想するような民主主義の方向には進まないと表明した上で、「歴史の終焉」は書き直すべきと主張したらしい。そして、王岐山は、次の三点を伝えたらしい。

1、中国的特色の「政治」の理念。王は「政治は中国の解釈では文字通り『大衆を管理すること』であるということを理解すべきだ。

2、一党独裁(専制)は変えることはできない。共産党は法の上にあるというのが大原則。

3、 我らは孔孟の道を研究する必要があるのであって、「フクヤマのいう国家、法治、責任の三つの要素は中国の歴史にすべてDNAとして存在する。中国の文化のなかにこのDNAはあるのだ。」と。この意味は中国ははじめから政治的知恵はもう十分にあり、西側から学ぶ必要はない、ということである。

王岐山の考えはよく理解できる。その通りだろう。ただ、私としては、 中国は孔孟の道を研究する必要があるというより、孔孟老荘の道を研究する諸子百家を大事にする必要があると思う。中国の伝統思想には、文治主義の官僚機構を生み出した世俗的な『儒教(孔孟思想)』に対立する思想として、無為自然の『道(タオ)』を説く脱俗的な『老荘思想』がある。


2017年7月 1日 (土)

フランシス・フクヤマの歴史観

フランシス・フクヤマの歴史観

米国のありようはよくも悪くも民主主義と資本主義への評価を左右する。金融危機や格差の広がり、与野党がにらみ合うばかりの政治、ふらつく対外政策など近年の米国に対しては失望の声が少なくない。かかる観点から、2015年1月、日経新聞米州総局編集委員の西村博之が東西冷戦終結の直後、西側の最終勝利を宣言した米政治学者フランシス・フクヤマ氏にインタヴューをした。そのやりとりは次の通りである。

 ――ロシアと米国の対立が激しくなっています。
 「世界政治に厄介な変化がいくつも起きている。一つがロシア問題で、冷戦後の25年間で最大の失望だ。民主化を進め欧州の一員になると思われたが、プーチン大統領のもとでファシズムにも似た、たちの悪いナショナリズムへと転じ、領土の拡張も目指している」
 「もう一つ厄介な動きは中国だ。巨大で権威主義的な国が近隣国に領土を主張している点はロシアと共通する。しかも両国とも国民の強い支持が背後にある」

 ――1989年の論文「歴史の終わり?」で民主主義と資本主義の勝利を宣言しました。いま「新冷戦」という言葉も聞かれます。
 「東西冷戦には地政学的な闘争とイデオロギー対立の両面があった。もはやイデオロギー対立は存在しない。大事なのは目標としての社会制度の最終形態が何かということだ。その歴史の終着点が民主主義だという事実は揺るがない。旧ソ連は共産主義を世界に広めようとしたが、いまのロシアはエネルギー輸出に頼る質の低い国家制度にすぎず、誰もまねしないはずだ」

 ――中国はどうですか。
 「勢いをもつ唯一の対抗勢力は中国だ。ただ同国は自らの体制を他国に広げる気はない。自国には最適だと信じているだけだ。そもそも中国モデルとは何か。一部はマルクス・レーニン主義で、ほかの一部は儒教主義だが、これらは相いれない。残りの部分は露骨な利己主義だ。つまり中国の制度には一貫した哲学による裏打ちがなく、思想的な戦いで勝つのは難しい」
 「今後も米国と中国の競合は激しくなり、中国は領土面でも主張を強めるだろうが、これは思想やイデオロギーとは無関係だ。旧来型の地政学が、両国を駆り立てているのにすぎない」

しかし、「歴史の終着点が民主主義だという事実は揺るがない。」という点と「中国の制度には一貫した哲学による裏打ちがなく、思想的な戦いで勝つのは難しい」という点については、彼は間違っているのではないか?

2017年6月30日 (金)

知られざる清水寺(その7)

知られざる清水寺(その7)

なお、小松和彦はその著「京都・魔界案内」(2012年9月、光文社)の中で、清水寺に関連する話として説教節の「しんとく丸」の話があると言っているので、説教節の「しんとく丸」について少々触れておきたい。
まず、 説教節の「しんとく丸」の四天王寺に捨てられるまでの話は、次のとおりである。すなわち、
『 河内国の高安(今の大阪府八尾市高安山のふもと)の信吉長者は金持ちで何の不足もなかったが、前世での悪行の報いで子宝にだけは恵まれなかった。そこで、 信吉長者夫婦は京都東山の清水寺に参り、観音に申し子して、子を授かった。
 生まれた男の子は、「しんとく丸」と名づけられた。しんとく丸は9歳になると、三年の間、信貴(しぎ)の寺に預けられ、学問を学ぶこととなる。信貴の寺で一番の学者となり、河内国高安に戻ってきたしんとく丸は、天王寺の聖霊会(しょうりょうえ。陰暦2月22日、聖徳太子の命日に営まれる法会)で稚児舞を舞うこととなり、その折、客席にいた
和泉国近木の庄(こぎのしょう。今の大阪府貝塚市北西部)の蔭山長者の娘・乙姫に一目惚れ。 信吉長者の家来の働きで文を取り交わして結婚の約束を取りつける。しんとく丸は大喜びだったが、そんなとき、しんとく丸の母が亡くなってしまう。しんとく丸は持仏堂にこもり、母の菩提を弔う。信吉長者はまもなく新しい奥方を迎え、新しい奥方はじきに男の子をもうけた。新しい奥方は、しんとく丸がいるために我が子を信吉長者の跡継ぎにできないのが口惜しく、都に赴き、都中の寺社を駆け巡り、呪いの釘を打ち込んで、しんとく丸に呪いをかけた。
 しんとく丸は継母の呪いのために目が潰れ、ライ病となり、天王寺に捨てられる。』
・・・というものだ。

ここで小松和彦が注目するのは、しんとく丸の継母(ままはは)が最初に呪いの釘を打ち込むのが清水寺であるということだ。小松和彦は、説教節「しんとく丸」のその場面を小松和彦は、次のように紹介している。
すなわち、
『 清水坂の鍛冶屋に宿を取った継母は、沢山の六寸釘を作らせ、その釘を観音の前に立つ木に、縁日にちなんで18本も打ち込んでしんとく丸を呪ったのである。』・・・と。

説教節「しんとく丸」では、その継母は祇園神社、御霊神社、今宮神社、北野神社、東寺の夜叉神堂(やしゃじんどう)などにも駆け巡って呪いの釘を打ち込んでいるので、説教節が語られた鎌倉時代から室町時代にかけては、清水寺だけでなく、ひろく「丑の刻参り」が行なわれていたようだが、やはり清水寺が歴史的にも古く、有名だったようだ。清水寺にも「夜叉神堂」があるが、小松和彦はこれも「丑の刻参り」のためのものであると、「京都・魔界案内」の中で言っている。しかし、その実体を明らかにする資料はないので、清水寺における「丑の刻参り」についての説明は、清水寺・地主神社のものにとどめておきたい。

説教節「しんとく丸」は四天王寺に伝わる「俊徳丸伝説」が元になっているが、四天王寺の俊徳丸については中沢新一がその著「大阪アースダイバー」(2012年10月、講談社)で哲学的な取り上げ方をしている。四天王寺の聖徳太子の思想をアポロンの軸、俊徳丸の思想をディオニュソスの軸と言い、それらの軸が四天王寺で垂直に交わっているなど
と大変難しいけれど極めて大事なことを言っているので、この際ここで、「知られざる四天王寺」という私の論文を紹介しておきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sitennouji.pdf

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー