文化・芸術

2019年4月20日 (土)

清水寺の地主神社

清水寺の地主神社


地主神社には、平安時代に清水寺が創建された時よりはるかに古い信仰の歴史があった。つまり、清水寺の谷筋は、縄文時代からの死者埋葬の地であり、縄文人の祈りがあったのである。

大谷本廟から清水寺にかけての尾根筋が「鳥辺山」である。比叡山から東山に続く主尾根にある阿弥陀峰から発して、清水寺を経て大谷本廟に続く枝尾根が「鳥辺山である。そして、その北側、すなわち阿弥陀峰から発する谷が「鳥辺野」である。
伏見稲荷の場合は伏見山から発する谷筋に埋葬地の中心「御膳谷(ごぜんだに)」があり、「六道の辻」の場合は阿弥陀峰から発する谷筋に埋葬地の中心にそれがあったという訳である。

地主神社の公式ホームページによれば、地主神社の創建年代は縄文時代とされ、近年の研究により「恋占いの石」が縄文時代の遺物であることが確認された。また、周囲が湖であった時代にも、地主神社の境内地は島となっており、不老長寿の霊山「蓬莱山(宝来山)」 あるいは、「蓬莱の島」として古代人の信仰をあつめていた。地主神社の東隣下の崖には今も 「船着き場」の跡が残っている。

ところで、時代が進んで、強者と弱者が出て来ると、堪え難いひどい仕打ちを受ける人も出て来る。そういう人の願いは相手がいなくなることであり、「呪い」という「祈り」とはまったく逆の信仰形態も発生して来る。清水寺の谷筋では、「祈り」の他にさかんに「呪い」も行なわれたようだ。その名残が清水寺の地主神社に残されている。 


清水寺の地主神社:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jishujin.pdf

トルクメニスタン(その2)


トルクスタンという国について(その2)
ニサ (トルクメニスタン)

ニサはトルクメニスタン南西部、アシガバート郊外に残るパルティア王国時代の都市遺跡である。王の建造物群のあった旧ニサと民衆の居住地区であった新ニサとから構成される2つの遺丘で、いずれも城壁に囲まれ、互いに 1.5 km ほど離れている。これら2つの遺丘は2007年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
ニサは紀元前3世紀頃に成立したパルティア王国(アルサケス朝)初期の首都として機能していた。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/toruku01.pdf

 

 

地域再生・イタリアに学ぶ(その1)

地域再生・イタリアに学ぶ(その1)

はじめに(その1)


志子田徹(しこたとおる)の「ルポ 地域再生」(なぜヨーロッパのまちは元気なのか)という本がある(2018年2月、イースト・プレス)。

著者である志子田徹(しこたとおる)は次のように言っている。

欧州の地方を歩くと、日本に比べてずっと元気に見えた。なぜなのか、日本の地域再生のヒントになることを見つけたいと思って、欧州のあちこちを巡りながら取材を重ねた。当事者の声を聞いて、各地に共通して見えたことは、危機的な状況に陥ったまちほど、危機の本質に向き合ってそこからの脱却に真剣に取り組み、結果的に強くなっていたことだ。人口減少、観光客減、空き家の増加、地方切り捨て、農業の衰退・・・・・・。それらの危機に立ち向かってきた現場の人たちの原動力と取り組みに迫る。

 

 

もみの木

もみの木

https://www.youtube.com/watch?v=P-9Bk2xpzzE

2019年4月18日 (木)

六堂の辻

六堂の辻

劇場というのは、劇が演じられているから劇場であり、何も演じられていないときに劇場に行っても意 味がない。それと同じように六道の辻も御盆のとき(8月7日~10日)以外は何の変哲もない場所である。ところが、御盆にはがぜん様子が変わって刺激的な 場所となる。かつては髑髏の地、冥界への入り口らしい雰囲気が醸し出される。
六堂の辻は京都の魔界中の魔界である。
 御盆のときには、地元では「六道はん」と呼んでいるが、六道詣りという精霊迎えの行事が行なわれ る。六道はんとは珍皇寺のことをいうのだが、六波羅密寺や西福寺でも特回向が行われる。もちろん主役は珍皇寺である。珍皇寺の境内だけでなく松原通りにも若干の店が出る。「幽霊飴」の店が出たりして昔の雰囲気がよみがえる。

六堂の辻:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/rokudouno.pdf

トルクメニスタン(その1)

トルクスタンという国について(その1)
はじめに

トルクメニスタンは、古来よりシルクロードとして知られる東西交易の要衝として栄えた国家である。西側でカスピ海に面に接する。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sirutoruku.pdf

メルヴやニサといったシルクロードの遺跡がある。メルブは、トルクメニスタンのカラクム砂漠の中にある、中央アジア最大の遺跡。ニサはトルクメニスタン南西部、アシガバート郊外に残るパルティア王国時代の都市遺跡である。ニサは紀元前3世紀頃に成立したパルティア王国(アルサケス朝)初期の首都として機能していた。
パルティア王国はイラン北東部に紀元前3世紀ごろイラン系遊牧民が建てた王国。建国者アルサケスの名からアルサケス朝ともよばれ、中国史料では「安息(あんそく)」と記されている。 都は初めニサであったが、その後ヘカトンピロスなどいくつかの地に移され、前129年には新しい首都としてクテシフォンが建設された。王国はこの新都を中心に繁栄した。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/Parthia.png

この王国は、その後、サーサーン朝ペルシアの領土となった。6世紀には遊牧民のテュルク系民族に、7世紀からはイスラム帝国(ウマイヤ朝およびアッバース朝)に支配された。9世紀からサーマーン朝、セルジューク朝、ガズナ朝、ホラズム王国などの領地となる。13世紀にはモンゴル帝国が侵攻し、イル・ハン国やティムール朝の統治下となる。 16世紀以降、ヒヴァ・ハン国、ブハラ・ハン国、サファヴィー朝などに絶えず侵略される。

まことに目まぐるしい興亡を繰り返すが、近代(1986年)になってカラクーム運河が建設され、近代国家として目覚ましい発展をする。カラクーム運河は、トルクメニスタンにある世界最大の灌漑および水道用の疎水である。

日本の報道番組として初めてテレビ東京に取材許可が下りた。2014年1放送の「未来世紀ジパング」は、池上彰をナビゲーターに迎えてトルクメニスタンを紹介した。
日本製品も進出しており、人気の自動車メーカーはトヨタで、60%のシェアを誇る。さらに2011年、川崎重工業と双日が化学プラントの建設を約600億円で受注し、現地の巨大プロジェクトを進めている。国立アザティ言語大学では日本語学科が最も人気があるという

2015年10月には、安倍晋三首相がトルクメニスタンを訪問し、23日のベルドイムハメドフ大統領との会談で、同国の天然ガス関連のプラントやインフラ建設などでの協力で合意した。

トルクメニスタンは独立後26年の若い国であり、現在も国造りの真っ只中にある。その国造りに日本の質の高い優れた技術が用いられ、導入され、更には、国の将来を担う人材の育成にもつながるよう、トルクメニスタン側との協力を進めることとなっている。

大統領はじめ政府トップから一般の国民まで大変親日的である。

地域再生のための事例(その11)

地域再生のための参考実例(その11)
「シラミネ大学」


白山市白峰地区の若者グループ「シラミネ大学」が地区の魅力を伝える動画「TENDERESTしらみね」を作り、30日にインターネットで公開した(2017年03月31日 )。


https://www.youtube.com/watch?v=FcImHXU3Bvc

 

最近は、パソコンをやっている人が少なくないので、誰かに教われば、YouTubeは作れるので、過疎地域の若者はグループで地元の良い所を掘り出して、YouTubeで大いに地域の宣伝をすべきである。
私には故郷論という論文があって、その第3章第3節に「田舎生活を楽しむ」というのがある。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/huru0204.pdf


過疎地域の若者は大いに田舎暮らしを楽しみながら、それをYouTubeで発信すべきである。

乾杯の歌

乾杯の歌

https://www.youtube.com/watch?v=U2yAIkSaXX4

2019年4月16日 (火)

京都とねね

私は、秀吉の行った事業について聚楽第や高台寺については、すでに部分的ではあるがすでに書いた。

聚楽第: 2017年9月10日
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyurakudai.pdf
高台寺: 2018年8月10日
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/koudaiji.pdf

しかし、それらについては足らざる部分を補足する必要がある。

また、秀吉の業績の一つである方広寺については何も書かなかった。さらにねねが秀吉の死後なぜ京都に住んだのか、その理由についても何も書かなかった。そこでこの度、「京都とねね」というタイトルで、聚楽第、高山寺の補足文章を書くとともに、方広寺の詳しい説明をした。


豊臣秀吉の妻・「ねね」は、素晴らしい女性である。彼女がいなければ、木下藤吉郎の出世はなかったし、秀吉になってからの出世もなかったし、天下人になることもなかった。秀吉を支え続けた彼女ではあるが、お茶目で、賢く、また度胸もあった。こんな素晴らしい女性は歴史上いなかったと思われる。

その豊臣秀吉の妻・「ねね」(「おね」と呼ばれることもある)は、秀吉の死後、何故京都に住むようになったのか?

ねねが秀吉とともに過ごした地で思い出深いところはいくつかあるであろうが、秀吉の行った事業を目の当たりに見て、しかもその跡(あと)が色濃く残っているところといえば、京都である。したがって、ねねは、秀吉の死後、秀吉を偲ぶために京都に住んだのである。その頃、ねねは北政所と呼ばれていたが、北政所は秀吉を偲びながら彼の霊を弔っていたのである。


「京都とねね」:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kyoutotonene.pdf

モンゴルについて

モンゴルについて


馬を駆って遊牧に生きるモンゴル牧畜民の馬への思いは、私たちの想像をはるかに越えた深いものがあるようだ。馬は騎馬民族としてのかれらの誇りであり、心の安らぎでさえある。「モンゴル人は馬上で育つ」といい、「モンゴル人の足は四本」といったりする。そんなことわざを生む世界、馬とモンゴル人の生活は切っても切り離せない。モンゴル人はどこへ出かけるにも、まるで下駄でも引っ掛けるような気安さで馬に乗る。それは昔も今も少しも変わらない風景、首都ウランバートルを一歩出ると、今でもそこはもう騎馬の世界、十三世紀にはそれでヨーロッパまで馳せてしまったわけだ。
 馬はモンゴルの家畜の中でも、実質的価値のほかに装飾的な、社会的地位の象徴的な性質を強く持った家畜として考えられている。そこで駿馬に跨り、草原を自由に疾駆することは、モンゴルの牧畜民にとっての最大の誇りとなる。
モンゴルの特徴は、「モンゴル人は馬上で育つ」という騎馬民族であるというところにあり、それが故にチンギスハーンによるモンゴル大帝国も誕生し得たのである。


最近モンゴルに行った人の話では、日本の大相撲がモンゴルでも大人気で、次のように述べていた。すなわち、

『 カフェや定食屋、小さな売店など、のぞいた全ての店のテレビから流れているのは、日本の「大相撲」の名古屋場所の中継だったのだ。タクシーのカーラジオも大相撲。モンゴル語なので理解できないが、節々に力士の名前や「ヨリキリ」「マワシ」「モロザシ」などの相撲用語が、日本語の発音そのままで聞こえてくる。

現地で生活する日本人に聞くと、ウランバートルのテレビ局6社のうち4社が日本の大相撲の生中継を一斉に流しているという。

大草原のゲルの中には小さなテレビがあり、ここでも日本の大相撲の中継に家族が一喜一憂している。こんな大草原のど真ん中で、日本の大相撲のテレビ中継を見ることになるとは・・・。日本人にとってモンゴルは「近くて遠い国」だが、モンゴル人にとっては、本場所中の日本は「毎日、目が離せない国」のようである。』・・・と。

ルールは違うが、日本とモンゴルに相撲という共通点があることは、両国の親善のためには、いい材料である。日本の大相撲で大活躍する白鵬や鶴竜の他モンゴルの力士に拍手を送りたい。

日本とモンゴルとの共通点は、人類学的に見て、ともにモンゴロイであるという点がある。

 

私は、モンゴルの友人・ユンデンのお陰で、まことに得難い旅をした。この論文では、モンゴルとの友好親善を願いながら、私の旅日記を中心にモンゴルとはどういう国なのか、できる鍵の説明をした。


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mongoruni.pdf

 

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