文化・芸術

2020年7月12日 (日)

大将軍八神社

大将軍八神社 

平安京の建設とともに造られた道教ゆかりの神社は大将軍八神社のみである。中国は 長安の都にならって、平安遷都にともなって、平安京の西北を守護するために祀られた大将軍信仰の名残である。
大将軍八神社:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/saipaini.pdf

沖縄の歴史(その9)

沖縄の歴史(その9)

第3章 弥生時代から鎌倉時代前夜にかけての琉球(その3)
第3節 グスク時代について
グスク時代は、沖縄・先島諸島および奄美群島における時代区分の一つ。奄美・沖縄諸島では「貝塚時代」、先島諸島は「先島先史時代」の後に続く時代区分である。
当時の琉球においては、日宋貿易によって力をつけた有力者が、地元の農民を束ねて小豪族となり、石垣で囲まれた城(グスク)を築き、周辺の集落を傘下に入れ小国家へと発展させていった。
ウティンチヂ(遥拝所)からニライカナイを遥拝した。グスクは ウティンチヂ(遥拝所)と正殿を備えた祈りの場所であった。また大事な客をもてなす場所とも言われている。宗の時代、大いに宗の商人(華僑)などをもてなしたのであろう。
グスク時代は、開始年代は11世紀~1320年頃。概ね宗王朝の時代。それ以降の三山時代も通常グスク時代に含めるので、その場合は、終了年代は琉球王国の誕生する1422年まで。私は、三山時代とそれまでのグスク時代は、グスクの性格が根本的に異なっているので、通説とは違って、概ね宗王朝の時代に相当する琉球の時代を単にグスク時代と呼ぶこととしている。私の呼ぶグスク時代(11世紀~1320年頃)は、琉球貿易に携わる小豪族による平和の時代であり、三山時代(1320年頃~1422年)は倭寇が押し寄せた戦争の時代である。

第3章第3節の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/okireki33.pdf

日本林業の現状(その7)

日本の林業の現状(その7)

終わりに

「日本林業はよみがえる」(2011年/1月、日本経済新聞出版社)という本があります。著者の梶山惠司は、内閣官房国家戦略室内閣審議官をやった人で、政府の高官でもあったのです。ドイツ・チュービンゲン大学留学、日興リサーチセンター・ロンドン、フランクフルト勤務、富士通総研を経て、2009年11月よりバイオエナジー・リサーチ&インベストメント(BERI)株式会社の代表取締役社長。2001年から2003年にかけて富士通総研より経済同友会に出向し、環境問題を担当。以降、欧州の気候変動政策に関する調査研究、森林・林業再生のための研究および実践を行うという経験もお持ちです。

私は、「はじめに」申し述べたように、山村地域では、林業の衰退と ともに、地域の活力も低下し、限界集落と呼ばれる問題まで起こっています。このままでは地域そのものが消滅してしまうでしょう。このことを政府はもっと真剣に考えるべきであります。政府の取り組みがいい加減なのか、林業復活の兆しはまだ見えていませんが、梶山惠司さんは日本林業再生の可能性を指摘しておられる。彼は次のように述べておられる。すなわち、

『 現在我々が目にする森林の大半は戦後に植林されたものである。専門家によれば日本の山々はこれほどの緑があふれるのは数百年ぶりのことである。このことは苦労してわれわれの祖父母、父母やわれわれが植林した成果である。拡大造林に対しては行き過ぎだったとか、広葉樹を伐採したなど批判も多い。しかし、苦労して築き上げた森林を将来につなげ得るか、それとも徒労に終わらせてしまうかは、われわれの努力次第である。』・・・と。

本の帯に書かれているが、日本の森林は「宝の山」であり、日本は世界に冠たる林業大国になれるということらしい。

彼はさらに次のように述べておられる。すなわち、

『 戦後の植林から50年を超える森林も多くなり、いよいよ利用段階に入ることから、日本林業はまさに、本来の優位性を回復できる地位を獲得しつつある。』

『 林業を起点とする木材関連産業は、木材を加工する製材や製紙などの一時加工、木材を利用する家具や住宅などの二次加工等々伝統的な利用に加え、バイオマスエネルギーなどの古くて新しい利用形態も広がっている。さらに、これらに付随するさまざまなサービスの需要も大きく、産業の裾野が広いのが大きな特徴である。このため、安定した木材生産体制を構築できれば、木材関連の一大産業集積を興すことが可能となる。こうした産業は自ずと資源に近いところに立地するのであり、林業再生は疲弊が深まる地域経済にとって、大きな希望を与えることなるだろう。』・・・と。

大学時代の愛唱歌(その1)

大学時代の愛唱歌(その1)
くれない燃ゆる丘の花

https://www.youtube.com/watch?v=4MUngTAyg8w

2020年7月 9日 (木)

大覚寺

大覚寺

 

延暦13年(794)、桓武天皇は「山背」を「山城」と改め、新都・平安京に遷都する。桓武天皇ののちに即位した平城天皇は、病身のため弟の嵯峨天皇に在位わずか3年で譲位するが、平城上皇の平城古京への復都、薬子の乱などの政変によって政局は動揺していた。
遷都から15年、大同4年(809)に即位した嵯峨天皇は、律令よりも格式を中心に政治を推し進め、ようやく平安京は安定をみる。 一方で嵯峨天皇は、都の中心より離れた葛野の地(現在の嵯峨野)をこよなく愛され、檀林皇后との成婚の新室である嵯峨院を建立、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院である。


大覚寺: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/daikakuji.pdf

 

沖縄の歴史(その8)

沖縄の歴史(その8)

第3章 弥生時代から鎌倉時代前夜にかけての琉球(その2)
第2節 日宋貿易について

日宋貿易は、日本と中国の宋朝の間で行われた貿易である。10世紀から13世紀にかけて行われ、日本の時代区分では平安時代の中期から鎌倉時代の中期にあたる。中国の唐朝に対して日本が派遣した遣唐使が停止(894年)されて以来の日中交渉である。

10世紀から14世紀にかけての東アジアは、各国の商人が活発に交易をおこなっていた時代である。宗の商人は、東アジア各地に華僑(かきょう)として寄留し発展していった。

日本の朝廷は、唐や宋などの商船の来航制限を定めたが、11世紀後半になるとそれが徐々に緩み始め、やがて 宋の商人の来航を受け入れようになるなど、日宋貿易に積極的になっていった。とくに平氏政権は、経済に敏感であり、日宋貿易を発展させた。日宋貿易の中心となったのは博多であり、宋商が居住して活発な交易活動を展開した(「住藩貿易」と呼ばれる)。かくして博多は国際都市へと発展していったのである。
中国の福州、シャム、スマトラ、ジャワなど東アジア全体の貿易の担い手に着目すると、日宋貿易の主要な担い手が宋商であるとしても、彼らは中継貿易の拠点として琉球を活用した。宗の商人たちは、天然の良港で島状になっていた那覇に居留地をつくり、那覇は「国際貿易特区」ともいうべき姿に変貌していく。
琉球は、優れた中国商品を大量に輸入してそれらを近隣諸国へ輸出すると同時に、中国へ持ちこむための商品を日本や東南アジアから調達するなど、東アジアの中継貿易国として重要な役割を果たしたのである。それが基礎となって、琉球は、明の時代に、世界の海を舞台にして壮大な交易の道を築き上げたのである。

日宋貿易によって力をつけた有力者は地元の農民を束ねて小豪族となり、石垣で囲まれた城(グスク)を築き、周辺の集落を傘下に入れ小国家へと発展した。そして、やがて琉球王国が誕生するのである。琉球王国の誕生、そのきっかけになったのが日宋貿易である。

第3章第2節の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/okireki32.pdf

 

日本林業の現状(その6)

日本の林業の現状(その6)

森林の荒廃が大きな環境問題に・・・日本は森林を活かす時代


現在、日本の森林は充分な手入れがなされず、荒廃が目立つようになりました。 そのため、森林の荒廃が大きな環境問題になっています。
荒廃した森林は、公益的な機能を発揮できず、台風等の被害を受けたり、大雨等 によって、土砂災害を起こしやすくなります。さらに、二酸化炭素を吸収する働 きも低下し、温暖化防止機能も低下します。

日本は森林を活かす時代に入っているのではないでしょうか? 拡大造林政策によって生み出された多くの人工林が収穫期を迎えています が、伐採さないまま、放置されている森林が目立ちます。 収穫期を迎えた森林 を伐採し、植えて、育てる、そして伐採するというサイクルを回す必要がありま す。このサイクルを円滑に回すためには、国産材を積極的に利用し、需要を高 め、資金を山に還元する必要があります。 森林を伐らないで守ったり、植えて回復しなければならないのは概ね海外(熱帯 林の違法伐採等)の事情で、日本とは異なります。日本の森林資源は使われずに 余っています。日本では成長した森林を活かすべき時代となったのです。

ヨーデル(その6)

ヨーデル(その6)

https://www.youtube.com/watch?v=BZL0kiyjbyo&fbclid=IwAR1KE11B1R4KVygrns-WBvbfTWOnyaXru0jQDbL9NTvVaQPZPHHbGtz1CfI

2020年7月 5日 (日)

船岡山

船岡山

船岡山は、平安遷都の際、都市計画の起点になったところで、風水思想での「竜頭」に当たる大変意味のあるところだ。
ぜひ、船岡山の頂上に立つと同時に、建勲神社の摂社である船岡妙見社と命婦稲荷社に訪れてください。


船岡山:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hunaokayama.pdf

沖縄の歴史(その7)

沖縄の歴史(その7)

第3章 弥生時代から鎌倉時代前夜にかけての琉球(その1)
第1節 概説


弥生時代から南洋諸島とわが国の往来はあった。中でも有名なのは、「貝の道」である。
特に南海産大型巻貝(ゴホウラ、イモガイ)製の腕輪は、北九州弥生人によって珍重され、琉球弧との間に交易ルートである「貝の道」が開設され、その後南海産大型巻貝製腕輪は、権力者の威信財として古墳時代にまで引き続き使用されていた。

奄美・沖縄諸島で採取されたゴホウラやイモガイは、九州へ移出され、貝輪(かいわ)に仕上げられて全国へ出回った。そして、貝類と交換して持ちこまれた交易品が弥生土器である。
弥生時代、琉球列島では海に生息する貝や魚を採取して生活をする独自の文化が展開される。貝塚文化である。本州では弥生時代になると稲作が始まるが、沖縄では農耕は行われず、貝や魚を採取する漁労を中心とする独自の文化が形成されたのである。

さて、大和朝廷と琉球列島との交流であるが、日本書紀や続日本紀には多くの記述があり、大和朝廷と琉球列島との深いつながりをうかがい知ることができるが、ここではその主なものを紹介しておきたい。
699年文武天皇の時、続日本書紀に種子島、屋久島、奄美、徳之島から朝廷に献上品があった事が記載されているが、 別の記録にも、618年推古天皇の時、流求人約30人が大和に帰化したとの書かれている。720年元正天皇の時には大和朝廷が南島(沖縄)人に位を授けたとの記録もあり、753年聖武天皇の時には、鑑真を乗せた遣唐使船が沖縄に漂着し、阿兒奈波という沖縄の名前が始めて大和の国史に登場する。後に、遣唐使船は何度も沖縄に漂着したようで、交流も深まっていったようだ。

第3章第1節の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/okireki31.pdf

 

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