文化・芸術

2018年12月15日 (土)

浄蔵について

浄蔵について

浄蔵は、非常に呪力に長けた修験者であり、平安時代、京の人々にとっては、京を守り、自分たちを守ってくれる頼もしい人物であった。

平将門の反乱の折、浄蔵は、朝廷 から命ぜられて、比叡山は延暦寺で、大威徳法(だいいとくほう)という祈祷を行っている。将門の生き霊は四明岳(しめいがだけ)の将門岩に押し込められ、 将門の勢いは急速に衰えていく。京都では伝承としてそういう話が伝えられている。
京都では、浄蔵についていくつかの伝承が語られている。
文章(もんじょう)博士の三善清行が亡くなったのは918年だが、その死去の知らせを聞いたその子の浄蔵(じょうぞう)・・・、彼は天台の修験行者で大峰山で修行中であったのだが、その彼が京都に戻ってきたとき、偶然父の葬列に出会った。 そこで・・・祈祷上手の高僧・浄蔵が念じたところ、亡くなった三善清行が一瞬蘇生したと言われており、「戻り橋」の名がある。
宇治の平等院に「葉二(はふたつ)」という名笛が残っている。元は朱雀門の鬼の笛であったところから、別名「朱雀門の鬼の笛」という。その笛を吹ける者がいなかったので、天皇の命により、浄蔵という笛の名手が、月のあかるい夜、朱雀門にきてその「葉二」を吹いた。 そうすると、朱雀門の上から、鬼が大きな声、でそれを褒め称えたという。
平安時代の初め、この八坂の塔が西へ傾くということがあった。人々は凶事として恐れた。時の天皇は浄蔵を呼びつけ元通りにするのを命じた。浄蔵は、八坂の塔に向かって祈りはじめた。天空にわかにくもり、一陣の風が吹いたかと思うと塔はゆらゆらと揺れ、元の形におさまったという。

なお、祇園祭における山伏山は、浄蔵が怨霊調伏の修行のために山伏となって金峰山や大峰山に立て籠もった時の姿である。これも誠に不思議な話である。

以上のことを書いたのが次のエッセイである。

浄蔵について: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyouzouni.pdf

八瀬や大原

八瀬や大原


八瀬や大原とは、比叡山の西側の麓・高野川の沿岸地域をいう。この地域は、京都の中でも歴史も古く特別の地域である。

大原には、寂光院や三千院などの歴史的な寺院が多くの観光客を集めているし、慈覚大師創建の寺もある。また、京都の風物詩として大原女でも有名だ。しかし、私が是非みなさんに知ってもらいたのは八瀬である。

八瀬には、八瀬天満宮、かま風呂旧跡、八瀬平八茶屋などぜひ訪れて貰いたい場所もあるが、何と言っても、八瀬は「八瀬童子」の故郷であるということだ。八瀬童子は、日本古来の伝統・文化を色濃く伝承してきた部族の子孫であり、しかも少なくとも後醍醐天皇のとき以降天皇と密接な関係にあった人たちである。

ということで、京都の特別の地域「八瀬と大原」を紹介したい。

八瀬や大原: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yaseyaoohara.pdf

今西錦司

今西錦司

もみの木

もみの木
https://www.youtube.com/watch?v=f5GQnaT5fEA

2018年12月13日 (木)

広隆寺の牛祭り

広隆寺の牛祭り

広隆寺の牛祭りは、慈覚大師が始めたものである。


広隆寺については、No5「京都の紹介」の2「秦氏ゆかりの場所」の(1)「広隆寺について」において詳しく説明した。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kouryuujini.pdf

また、慈覚大師については、No5「京都の紹介」の6「慈覚大師ゆかりの地」の(1)赤山禅院で詳しく説明した。
円仁は、最後の遣唐僧として唐に渡り、中国各地で顕密両教を学び、経典802巻を得て帰国、日本の天台宗を完成させ延暦寺の中興の祖とされる。その時の旅行記が『入唐求法巡礼行記』であり、世界的に注目されている。

円仁とは慈覚(じかく)大師のことだが、ほとんどの人は大師といえば弘法大師を頭に描くのではなかろうか。しかし、本来、大師という称号は天皇からいただくもので、慈覚大師がその最初の人である。慈覚大師が日本で初めて大師という称号をもらい、後年、慈覚大師がもらったのなら最澄や空海にも与えてはどうかという動きがあって、伝教大師や弘法大師が誕生したのである。

円仁の布教活動は全国に及び、現存の由緒寺院は六百カ寺以上を数えている。浅草寺(浅草観音)もそうである。

そういう偉大な人物・慈覚大師の死後、その遺命によって建立された寺院が、赤山禅院である。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sekizanzenin.pdf

広隆寺の牛祭りというのが昔行われていた。京都三大奇祭の一つと呼ばれきた大変面白い祭りであった。現在は残念ながら休止状態になっているが、それを今ここに改めて紹介しておきたい。私は、昔、それを実際に見て、その概要をネット上にアップしていたが、それを多少修正して、今ここに改めて紹介するものである。

広隆寺の牛祭り : http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/usimatur.pdf

黒曜石の七不思議

黒曜石の七不思議

  シベリアからやってきたマンモスハンターたちの技術を受け継ぎ、そしてそれをさらに発展させた・・・「白滝における黒曜石の加工技術・湧別技法」は驚くべき技術である。

マンモスハンター、シベリアからの旅立ち:
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2010021817SA000/index.html

白滝における黒曜石の加工技術・湧別技法」:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hirogari.pdf

白滝における黒曜石: https://www.youtube.com/watch?v=W7-GVFxmj9Q


私はそのことを十分意識しながら,黒曜石を中心とした旧石器文化の勉強をする必要性に気づき, いろいろと考古学的な勉強を重ねてきた。黒曜石を中心とした旧石器文化は、南方からやってきた海洋民族の影響が大きいことを勉強した。そして、そのときに感じた不思議を「黒曜石七不思議」として呼んで、素人なりに自分なりの考えをまとめた。

第1の不思議は「 武蔵野台地に大量に持ち込まれた黒曜石が伊豆・箱根、伊豆諸島の神津島、栃木県高原山でなく、なぜ八ヶ岳のものなのか? 」
第2の不思議は「神津島には、いつごろ、どういう人が、何のために渡ったのか?」
第3の不思議は「 神津島の黒曜石は3万年ほど前から盛んに採掘されるようになったにもかかわらず, 熱海大越遺跡からは、なぜ2万年前の黒曜石しかでないのか?」
第4の不思議は「神子柴で出土した黒曜石の尖頭器はいつ頃どこの誰が開発したのか?」
第5の不思議は「湧別技法集団は北海道から日本列島のどこを通って南下していったか」
第6の不思議は「「何故、あそこに御子柴遺跡のようなすばらしい遺跡があるの?御子柴は聖地か?」
第七の不思議は、「新潟県阿賀町津川の山中にある遺跡・「小瀬が沢遺跡と室谷遺跡」に何故白滝や八ヶ岳の黒曜石がここまで運ばれてきたのか? 」

これらの疑問に答えた私の論文が次の論文である。

黒曜石の七不思議: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/7husigi2.html

ドイツ民謡

ドイツ民謡

山歩き

山歩き

田舎には近くにいろいろな山があります。それほど有名な山でなくても、それなりに独特の趣(おもむき)がああります。その中で自分の好きな山を選んで、山登りをするのが田舎の楽しみの一つです。
例えばということで、私の住んでいる秩父の山の紹介をいたしましょう。
伊豆ヶ岳、武川岳
https://www.youtube.com/watch?v=jOSfDB7qoT4&fbclid=IwAR1sdXePG2AVliRq-7bb-A07sXqWSaw7HABj4WPsy3cbKV0eNyXUtF0uUBo

これは十文字峠への山歩きです。十文字峠というのは秩父から信州の川上村に抜ける昔からの山道で、峠にある山小屋付近のシャクナゲが見事です。そこから甲武信岳に縦走もでき、私は何度も行きました。
https://www.youtube.com/watch?v=RLtBUX4DgRM

2018年12月11日 (火)

最初の日本人

最初の日本人について


NHKの「日本人はるかな旅」という特集番組(第1集「マンモスハンターシベリアからの旅立ち)は、ロ シアのバイカル湖地方マクソホン村のマリタ遺跡についての取材もあって、さすがNHKならではの素晴らしい特集番組である。

https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2010021817SA000/index.html

しかし、それを見ていると私たち日本人のルーツがあたかもロ シアのバイカル湖地方にあると思ってしまう。これは真っ赤なウソである。シベリアが日本の遠い祖先であることに間違いないが、それ以前に・・・南方から黒潮に乗って、日本列島にやってきた海洋民族がいたのだ。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/saisyono.pdf

蹴上疏水公園

蹴上疏水公園について

明治になって、東京が首都となり、天皇が東京にお移りになった。

 京都は、「<天皇はん>がおられなくならはった!」ということで、騒然となった。
明治政府はそれを鎮めるため、わが国近代化の先駆けをまず京都で行うこととした。すなわち、かの有名な疎水運河と、そしてそれに関連し、わが国最初の発電所と電気鉄道、この三大プロジェクトの建設である。私は,明治政府に天皇ゆかりの人たちが多かったので,こういう世紀のプロジェクトが行い得たのだと思う。明治政府にはまさに心のこもった人たちがいたのである。

天皇が京都から東京に行かれたことで、京都は大騒ぎになった。それを抑えるために明治政府は、世紀の大事業をやらざるをえなかった。 琵琶湖疏水によって、今まで荷馬車による運搬が舟運に変わったこと、ついで発電により個人の家に電灯がつき始めたこと、三つ目にチンチン電車が走り始めたこと、これらの世紀の大事業によって、京の人たちは、明治政府の誠意を見て、やっと納得したのである。

それら大事業の要となる琵琶湖疏水は、非常な難工事で、当時の土木技術では到底成し遂げられない筈のものであるが、それを成し遂げたが田辺朔郎である。田辺朔郎と言っても知らぬ人がほとんどだと思うが、誠に偉大な人物で、明治維新の大功労者の一人である。その銅像が南禅寺の蹴上疏水公園にある。蹴上疏水公園では、蹴上の発電所の発電用水の取り入れ口やかの有名なインクライを見ることができるし、近くの疏水記念館に行けば、琵琶湖疏水がいかに難工事であったか、またそれを田辺朔郎がいかに取り組んだかを知ることができる。

明治維新を理解するため、何はともあれ蹴上疏水公園に是非一度は出かけて欲しい。では、蹴上疏水公園の詳しい説明をしたいと思う。

蹴上疏水公園: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sosuikouen.pdf


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