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2020年10月13日 (火)

慈覚大師(その7)

慈覚大師(その7)
第2章 京都における慈覚大師ゆかりの地(その2)
第1節 赤山禅院(その2)

まず、円仁、すなわち慈覚大師については、私の書いたページが随分ある。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/usimatur.html

そのほか、人にはあまり知られていないが、私が慈覚大師最大の功績と考える立石寺創建の話がある。その話は、私の論文「邪馬台国と古代史の最新」の第8章に書いてあるので、それをここに抜書きしておきたい。

大和朝廷の時代、会津は大和朝廷の前線基地であった。その後、出羽の柵と多賀城の柵が
設けられるが、この山寺というところは、会津と出羽の柵と多賀城の柵を結ぶ一大交通拠
点であり、朝廷の指示で立石寺が創建された事は間違いない。その任に当たったのが慈覚
大師円仁であるが、そのバックには藤原内麻呂の次男・藤原冬嗣がいた。朝廷の大戦略の
もと、立石寺は創建されたのである。なお、念のために申し上げておくと、慈覚大師円仁
は新羅と実に縁の深い人であるということ、そしてまた当時の東北の技術者集団を統括し
ていたのが秦一族である。したがって、慈覚大師円仁は、藤原冬継の権力をバックに、秦
一族の力を借りることができた。東北の人びとの心をつまむには、当時、慈覚大師円仁が
最適の人物であったのである。また、延暦寺としても、東北という新たな希望の地に、天
台宗の普及を図る事は最澄の夢でもあったのだ。朝廷と天台宗が一体になって、立石寺の
建立と東北地方における人心の安定を図るために全力を投入したのである。


慈覚大師は、下野国の生まれであるにもかかわらず、立石寺に円仁の入定窟という霊窟がありそこに円仁の遺体があるという伝承があるのも、慈覚大師と立石寺との繋がりの深さを表しているものと思われる。


円仁は慈覚大師のことだが、ほとんどの人は大師といえば弘法大師を頭に描くのではなかろうか。しかし、本来、大師という称号は、天皇からいただくものだ が、慈覚大師が一番最初である。慈覚大師が日本ではじめて大師という称号をもらって、後年、慈覚大師がもらったのなら何とか最澄や空海にも貰えないだろう かという動きがあって伝教大師や弘法大師が誕生したのである。私は、最澄も偉かったけれど円仁のほうがもっと偉かったと思っているぐらいだ。

その慈覚大師の宗教上の功績については、次を参照されたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/ennin.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/esin-in.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/eros12.pdf

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