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2020年5月21日 (木)

玄奘とシルクロード(その2)

玄奘とシルクロード(その2)
はじめに(その2)

いつ帰れるかわからない仏典を求めての旅を三蔵法師は、熱い想いを持ちながらまず河西回廊をゆく。西安を起点とする河西回廊は、古くは金城と言われた蘭州、涼州の武威、甘州と呼ばれた張液、粛州であった酒泉を経て沙州敦煌に至る自然の変化が大きい場所である。蘭州で黄河を渡り乾いた台地を西へ、2000mを越える「烏鞘嶺」という難所もある。

三蔵法師は、何とか無事河西回廊の旅を終えて、いよいよ国外に出るのだが、まず向かうのが高昌国である。高昌国は、現在のトルファン市にあった古い王国であり、三蔵法師がその国王から非常な歓待を受け、しばらく滞在したところであり、三蔵法師と縁の深いところである。


若き玄奘は、単身、長安を出て西へ向かった。たまたまその一帯に飢饉が起こり、職を求めてさまよう人が多かった。それは彼の彼の蜜出国のための旅行を、カムフラージュしてくれることになったのである。苦心の末、玉門関を越え、莫賀延磧という大砂漠を横断した。それは上に飛ぶ鳥なく、下に獣もないという死の世界であった。しかも玄奘は途中で水をつめた皮袋を失ったのである。水もなく、食もなく、ただやせ馬を頼りに、艱難の旅を七日重ねて、やっと伊吾(いご)にたどり着いたのである。伊吾の国は現在のハミ県である。そこに高昌国の使者がいた。その使者は高昌国に帰って、国王に唐の若き僧侶の話をした。国王鞠文泰は熱心な仏教信者だったのである。 ――ぜひその唐僧をわが国にお迎えしたい。 と、迎えを出した。 玄奘の計画では、伊吾から天山北路に出て、草原の道から中央アジア経由でインドに入ることになっていた。そのコースならば、高昌は通らないのである。 だが駿馬数十頭をそろえての、丁重な迎えを受けたのでは、断るわけにもいかなくなった。インドへ行くには、天山北路だけでなく。天山南路からも山越えの道がある。玄奘は予定を変更して、高昌へ立ち寄ってから、天山南路経由でインドへ行くことにした。国王鞠文泰の歓待を受けた三蔵法師は帰路にも立ち寄ることを約してインドへ発ったが、三蔵法師がインドに滞在中に高昌国は唐に滅ぼされ、約束は果たされなくなった。

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