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2019年10月10日 (木)

日本らしい農業・農村のあり方を考える

日本らしい農業・農村のあり方を考える

http://www.jice.or.jp/cms/kokudo/pdf/tech/reports/12/jice_rpt12_01.pdf

農業を一つにまとめて議論するのはあまり適切ではないため、大きく二つに分けて考えたいと思います。一つのグループは、ハウスや畜舎で行われている施設園芸や加工型畜産、または高品質の果物を作るなど、集約的で付加価値型の農業。言い換えると、土地をあまり使わない農業です。もう一つは、農業らしい農業と言いますか、稲作を典型とする土地利用型農業です。集約型、付加価値型の農業は健闘していて、アジアに輸出しようとする勢いもあります。一方、米、芋、豆といった土地利用型農業は後退してきています。米、麦類、豆類、芋類は全般的に縮小しています。米や芋は消費量も減っていますが、麦類や豆類は外国からの輸入に置き換わっているのです。

但し、国土のあり方という意味では、この土地利用型農業の方が重要な意味を持つ面もあります。

競争力の比較的弱い土地利用型農業を大事にすることは、食料の安全保障の意味を持ちます。また、減ったとはいえ農地はまだ全国土の13%でありますから、土地利用型農業の健全なあり方は、国土のあり方に大きく貢献します。貢献できないとなれば、非常にまずい状況が起こります。土地利用型農業は、まさにいま、再建を考えなければいけない状態にあると言えます。

土地利用型農業、特に水田農業の担い手不足は本当に深刻です。今のところ、平地ではきちんと米ができているように見えますが、これは昭和1けた生まれの世代の方の踏ん張りでもっていると言っていい。農作業だけではなく、例えば農業用水路の維持管理などを中心的に支えているのもこの世代の方です。ただ、昭和1けた世代は一番若い方でも今年73歳になります。もう10年も経てば一斉にリタイアして、水田農業は本当に危機的な状況になる可能性があります。

今は農地が余り始めていますから、農業をもう少し本格的にやろうという人、これから始めようという人にとっては、非常にいい状況が生まれていることも事実です。ある意味でチャンスと言っていい。そこで政府は2007年から、地域農業の核となる担い手や、集落営農というグループ農業を認定して、集中的に助成する新たな農政を本格化させています。助成対象の基準は、都府県の水田農業で農地面積が4ヘクタール以上です。所得の半分以上を農業から得ている農家を主業農家と言い、その最少規模に相当するのが4ヘクタール。ここに支援を集中しようという考え方です。倍の8ヘクタールあれば、農業だけで食べていけます。政府は今、とにかく規模の大きい農家をつくろうとしていますが、これは過去の半世紀の間に失敗した規模拡大の埋め合わせをしているというのが、私の受け止め方です。

もちろんある程度の規模は必要ですが、私は日本の農業者の強みは、土地を丁寧に耕すことにあると思います。したがって、規模拡大と同時に、経営の厚みを増すことを考える必要があります。これが土地利用型農業の再建につながる道です。農業経営の厚みを増す方法は三つあります。一つは、生産物の品質を高めること。例えば現代の米は差別化の最たる農産物で、同じコシヒカリでも魚沼産は60キロで2万5,000円くらいするのに、産地によっては半額になります。産地や品種だけでなく、環境保全への取り組みを付加価値として消費者にアピールすることもできます。同じ土地利用型農業でも、倍の価値の違いが生じるのです。二つめは、土地利用型農業に、集約型、付加価値型農業を組み合わせることです。水田農業の労働生産性はかなり向上していて、ずいぶん長い農閑期もあるわけですから、水田農業だけで農業経営を支えていくのは少し虫のいい話でもあります。では農閑期をどう活用するか。例えば私の知っている、北陸の水田農業で優れた成績をあげている農家は、イチゴのハウス栽培を組み合わせています。あるいは、北海道の空知の水田地帯は、20~30年前は見渡す限り米と転作の麦だけでしたが、今はトマトを作ってジュースに加工して販売したり、イチゴのもぎ取り農園を開園するケースなどが出ています。三つは、産業上の農業の定義を超えて、経営を多角化していくことです。農産物を自分で販売したり農家レストランを営むなど、加工、流通、外食といった農業の川下にある食品産業に越境して経営を拡大していく。あるいは、ツーリズムや体験学習など、異なる産業系列を取り込んでいく。今は、修学旅行生などを受け入れて農作業体験のサービスを提供する農家やグループも結構います。このように狭い意味での農業を超えていく動きが非常に大事です。また、こうした動きによって、若い人にとっても、農業がおもしろくなると思うのです。日本の農業者はたいへん熱心で、技術的にもすばらしいものを持っています。一所懸命の言葉どおり、土地を丁寧に耕すDNAを持っていますが、若い人を引きつけるには、単なる土地利用型農業だけでは、なかなか困難かと思います。

土地利用計画上は、効率的で大規模な農業を展開する農家と、兼業や趣味による小さな農家の圃場が混在すると、さまざまな非効率の原因になります。ドイツのクラインガルテンのような市民農園的な農区を、日本の農村部にも設けるべきです。趣味の農区とプロの農業者の農区とを分けるような工夫が必要です。これも土地利用調整の問題です。ここで大事なのは、プロと趣味の農家の関係です。趣味の農業と言っても、そう簡単にできるわけではありません。虫にやられて作物が全く収穫できないケースなど、農業には難しい部分が多い。米作りでも、例えばアマチュアが、イモチ病が出そうになる天候の条件や、実際に発病する状況を識別して対策を打てるかと言うと、それはできません。技術的にしっかりした農家が中心にいるからこそ、趣味の農業も支えられる関係にあるのです。小さな農家や趣味の農家が農村にたくさんいること自体は、決して悪くありません。ただ、その方々だけで農業を持続できるほど農業は甘くはない。数集落に1人、あるいは1グループぐらいは本格的な農業をやる農家や組織があって、その周辺にいろいろなタイプの農業者がいる。こういう農村の像を描いていく必要があります。

限界集落については、長期的な維持の難しい集落が少なくないことを、冷静に考えるべきだと思います。1970年の「過疎地域対策緊急法」のように、集落移転のような形でコミュニティを維持することは、今の段階では無理だと思います。あの頃は、奥地の集落にも30代、40代の方がいたので、移転にもリアリティーがありましたし、若干の成功例もありました。今は、絶対これをやってはいけません。何をすべきかと言えば、そこに人が住んでいる限りは、サービスのフローを最後まで供給し続けることです。ただし、長期的に見て、ユーザーがいなくなることがはっきりしている地域への資本投下は避けるべきです。フローの投入とストックへの投資の線引きをきちんとすることが非常に重要です。これは最終的には集落の条件をよく分かっている地元が判断するべきことがらであり、国や県はその判断に沿ってサポートする必要があります。集落自体は守ることができても、その集落の一部の農地はとても守れないという場合もあります。問題は、そこで一種の逆線引きができるかどうか。きちんと線を引き、ここまでは守るが、ここから先は自然に戻すという判断を、地元の方の経験的な知見と、外部の専門家の知見の融合のもとで行う必要があります。どんなに小さな田んぼでも、草が生えてくればネズミの巣になり、ドミノのように周りに悪影響を与え始めます。そうならないよう、一種の防衛戦を引くわけです。今の国土形成計画は、広域の地方ごとのマクロな計画ですが、町村やもっと小さな集落、あるいは集落の中の部分的な土地利用というレベルで、マイクロな国土形成計画が求められる段階にきています。その場合に、古くからある日本の農村の特徴や、農業のこれからの可能性を踏まえて考える。これが大事であることは言うまでもありません。

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