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2019年8月11日 (日)

火の聖性

火の聖性
 新田次郎の「アラスカ物語」という素晴らしい本がある。主人公のフランク安田という人の存在もそうだが、こういう本が存在すること自体が私たち日本人の誇りであると思う。この「アラスカ物語」にはいろいろ光のことが出てくるが、その一部を紹介しておきたい。すなわち、
『 フランクとネビロは暖炉の火を見つめながら夜遅くまで語った。長い放浪に近い生活を互いに振り返りながら、外の吹雪の音を聞いた。「火がこんなに美しいものだとは知らなかったわ」ネビロは 膝(ひざ)に抱いているサダの小さな手を暖炉にかざしながら言った。「そうだ暖炉の火ほど美しくて、心の暖まるものはない」心が暖まると言ったとき、彼は 突然故郷を思い出した。石巻の生家の炉に赤々と火が燃えていた。天井から吊り下げた鈎(かぎ)に掛けられた南部鉄瓶(てつびん)から湯気が吹き出していた。囲炉裏をぐるっと家族がかこんでいた。祖父の顔が奥にあった。両親も兄弟姉妹たちも炉の火に頬を赤く染めていた。どの顔もにこやかにほほえんでいた。』・・・・と。
小林達雄は、その著書「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房)の中で、炉の聖性のみならず、「火を焚くこと、火を燃やし続け ること、火を 消さずに守り抜くこと、とにかく炉の火それ自体にこそ目的があったのではないか」と述べ、火の象徴的聖性を指摘している。
確かに、火は「神とのインターフェース」であり、不思議な力を持っているようだ。歴史的にも「火の聖性」は崇められて、いくつかの有名な「火祭り」がある。そのことについては、私の論文「火祭り考2」というのがある。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/himakou2.pdf


そういう論文を書いて思うことは、小林達雄が指摘した「火の聖性」であり、確かに火は「神とのインターフェース」であるということだ。
都会ではなかなか火を焚くということは難しいが、田舎では今も囲炉裏のある家も残っているし、薪ストーブのある家も少なくない。また、田舎の祭りでは火を焚くことも少なくない。キャンプに来た人は大抵キャンプファイヤーをするのではないか。
ですから、田舎の火の好きな人は、囲炉裏や薪ストーブのある家に出かけて行って「飲み会」をやると良い。どんど焼きの復活も考えてほしい。また、その地域に体験学習に来た子供たちには、キャンプファイヤーをして地域としてもてなしてやったらいい。火は田舎における交流の一つの手段になりうると思う。

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