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2019年6月12日 (水)

慈覚大師(その15)

慈覚大師(その15)
第3章 立石寺(その5)
第3節 立石寺創建の謂れ(その2)
(2)立石寺について

立石寺の創建について、寺伝では貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したとされている。当寺の創建が平安時代初期(9世紀)にさかのぼることと、慈覚大師円仁との関係が深い寺院であることは確かであるが、創建の正確な時期や事情については諸説あり、草創の時期は貞観2年よりもさらにさかのぼるものと推定される。『立石寺記録』(立石寺文書のうち)は、「開山」を円仁、「開祖」を安慧(あんね)と位置づけており、子院の安養院は心能が、千手院と山王院は実玄が開いたとされている。安慧は円仁の跡を継いで天台座主となった僧であり、心能と実玄は円仁の東国巡錫に同行した弟子である。安慧は承和11年(844年)から嘉承2年(849年)まで出羽国の講師の任にあり、東国に天台宗を広める役割をしたことから、立石寺の実質的な創立者は安慧であるとする説もある。また、慈覚大師円仁が実際に東国巡錫したのは天長6年(829年)から9年(832年)のこととされ、この際、弟子の心能と実玄をこの地に留め置いて立石寺の開創にあたらせたとの解釈もある。私は、この説に賛成だ。

大和朝廷の時代、会津は大和朝廷の前線基地であった。その後、出羽の柵と多賀城の柵が設けられるが、この山寺というところは、会津と出羽の柵と多賀城の柵を結ぶ一大交通拠点であり、朝廷の指示で立石寺が創建された事は間違いない。その任に当たったのが慈覚大師円仁であるが、そのバックには藤原内麻呂の次男・藤原冬継がいた。朝廷の大戦略のもと、立石寺は創建されたのである。なお、念のために申し上げておくと、慈覚大師円仁は新羅と実に縁の深い人であるということ、そしてまた当時の東北の技術者集団を統括していたのが秦一族である。したがって、慈覚大師円仁は、藤原冬継の権力をバックに、秦一族の力を借りることができた。東北の人びとの心をつまむには、当時、慈覚大師円仁が最適の人物であったのである。また、延暦寺としても、東北という新たな希望の地に、天台宗の普及を図る事は最澄の夢でもあったのだ。朝廷と天台宗が一体になって、立石寺の建立と東北地方における人心の安定を図るために全力を投入したのである。

立石寺の建立を慈覚大師円仁に命令し、財政的にも支援したのは、時の権力者藤原冬継である。藤原冬継は父・内麻呂の薫陶を受け、父を非常に尊敬しいたらしく、父の死後、その追善のために、藤原氏の菩提寺・興福寺に南円堂を建立している。父・藤原内麻呂(ふじわら の うちまろ)は、桓武・平城・嵯峨の三帝に仕え、いずれの天皇にも信頼され重用された。伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣になれなかった父・真楯より一階級上の右大臣に至り、平城朝~嵯峨朝初期にかけては台閣の首班を務めた。また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた不比等に匹敵するような人物である。若い頃より人望が厚く温和な性格で、人々は喜んでこれに従った。仕えた代々の天皇から信頼が篤かったが、下問を受けても諂うことはなく、一方で天皇の意に沿わない場合は敢えて諫めることはなかった。十有余年に亘って重要な政務に携わったが、過失を犯すことがなかった。人々からは非常な才覚を持つ人物と評されたという。こんな逸話が残っている。他戸親王が皇太子の時に悪意を持ち、名家の者を害そうとした。踏みつけたり噛みつく癖のある悪馬がいたため、親王はこの馬に内麻呂を乗せ傷つけようと試みたが、悪馬は頭を低く下げたまま動こうとせず、鞭を打たれても一回りするのみであったという。


なお、立石寺(山寺)については、私のホームページをご覧戴きたい。随分昔に創ったものであり、あまり見栄えが良くないけれど・・・・。

http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/risshaku.html


http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/yamadera.html


http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/enbanji2.html

 

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