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2019年4月16日 (火)

京都とねね

私は、秀吉の行った事業について聚楽第や高台寺については、すでに部分的ではあるがすでに書いた。

聚楽第: 2017年9月10日
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyurakudai.pdf
高台寺: 2018年8月10日
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/koudaiji.pdf

しかし、それらについては足らざる部分を補足する必要がある。

また、秀吉の業績の一つである方広寺については何も書かなかった。さらにねねが秀吉の死後なぜ京都に住んだのか、その理由についても何も書かなかった。そこでこの度、「京都とねね」というタイトルで、聚楽第、高山寺の補足文章を書くとともに、方広寺の詳しい説明をした。


豊臣秀吉の妻・「ねね」は、素晴らしい女性である。彼女がいなければ、木下藤吉郎の出世はなかったし、秀吉になってからの出世もなかったし、天下人になることもなかった。秀吉を支え続けた彼女ではあるが、お茶目で、賢く、また度胸もあった。こんな素晴らしい女性は歴史上いなかったと思われる。

その豊臣秀吉の妻・「ねね」(「おね」と呼ばれることもある)は、秀吉の死後、何故京都に住むようになったのか?

ねねが秀吉とともに過ごした地で思い出深いところはいくつかあるであろうが、秀吉の行った事業を目の当たりに見て、しかもその跡(あと)が色濃く残っているところといえば、京都である。したがって、ねねは、秀吉の死後、秀吉を偲ぶために京都に住んだのである。その頃、ねねは北政所と呼ばれていたが、北政所は秀吉を偲びながら彼の霊を弔っていたのである。


「京都とねね」:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kyoutotonene.pdf

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