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2019年2月10日 (日)

人はなぜ狐に騙されなくなったのか(その4)

人はなぜ狐に騙されなくなったのか(その4)
(2) 内山節(たかし)の説(その2)

  村人たちは自分たちの歴史のなかに、知性によってとらえられた歴史があ り、身体にょって受け継がれてきた歴史があり、生命によって引き継がれてきた歴史があるこ とを感じながら暮らしてきたのである。

日本の伝統社会においては 、個人とはこの三つの歴史のなかに生まれた個体のこ とであり、いま述べた三つの歴史と切り離すことのできない「私」であった。
 と いっても 、次のこ とは忘れてはならないだろう。

それは身体性の歴史や生命性の歴史は疑 うことのない歴史であるが 、知性の歴虹は誤りをも生みだしかねない歴史だということである。人の考え たことは間違うことがある。その理由を 、人々は、人間には「私」があるからだ と考えた。「私」があるから私の欲望も生まれるし 、私の目的も生まれる。そういものに影響されながら思考するとき、人間は純粋さを失ない誤った判断を下す。 といっても「私」をもっているのは人間の属性でもあるのだから 、それを捨てることのできない「悲しい存在」が人間でもある。

この思いが自然(注: 特に純粋の自然,すなわち奥山)を 清浄として らえる心情をつくりだした 。穢れを捨て去れないのは人間の側なのである。自然(注: 特に純粋の自然,すなわち奥山)は 人間が還っていきたい と願う祈 りとともに存在する。
  キッネにだまされたいう物語を生みだしながら人々が暮らしていた社会とは 、このような社会であった。そ してそれが壊れていくのが1965年頃だっ たのであろう。高度成長の展開、合理的な社会の形成、進学率や情報のあ り方の変化、都市の隆盛と村の 衰弱。さまざまなこ とがこの時代におこ り、この過程で村でも身体性の歴史や牛命性の歴史は消耗していった。
  歴史は結びつきのなかに存在している。現在との結びつきによって再生されたものが 歴史である。現在の知性 に結びついて再生された歴史。現在の身体性と結びついて再生 された歴史。現在の生命性と結びついて再生された歴史。
  1965年頃を境にして 、身体性や生命性に結びついて とらえられてきた歴史が衰弱した。そ の結果 、知性によって とらえられた歴史だけが肥大化し、 広大な歴史がみえない歴史になっていった。


 も つとも 、身体性や生命性と結びついた歴史は もともと知性からはみえない歴史だったといってもよい 。それは村人にとつては 、つかみ とられた歴史、感じられた歴史であり、納得され た歴史、諒解された歴史であった。(注: 知性からは見えないが,そういう歴史があったのだから、今は,アースダイバーとなって,そのカケラを探し出し,少しでもそういう歴史に学ばねばならな い。)
  身体性 と結びついた歴史は 、身体と結びつい た力が受け継がれていくかぎり、感じられる歴史でありつづける。た とえば畑を耕やす技で もよい。その技を受け継いだとき、同じように畑を耕してき た人々の身体 とともにある歴史が感じられる 。それは ,ずっと人々はこうやって自然 とともに生きてきたのだ と感じられるよ うな歴史である。身体とともにある世界が 、たえず循環し継承されることによって諒解されていく歴史である。

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