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2019年2月12日 (火)

人はなぜ狐に騙されなくなったのか(その5)

人はなぜ狐に騙されなくなったのか(その5)
(2) 内山節(たかし)の説(その3)
  ところが生命性の歴史は、それ自体としては とらえよ うがない 。だからこの歴史は何かに仮託されなければみえるこ とはないのである。
  「神のかたち」は仮託された代表的な ものであろう。(注: 「神のかたち」のほかに、キツネなど「おのずからある」そしてやや神秘的なものに仮託することも当然あり得る。)村 人と ともにある 「神」は 、つきつめれば姿かたちがないばか りでな く教義もない。なぜなら神の本体は自然 と自然に還ったご先祖様であ り、その本質は「おのずから」だからである。「おのずから」のままにあ りつづけることが神なのである 。だから人々は神が展開する世界に生命が流れる世界をみた 。生命を仮託したのが神ではな く、「おのずから」の生命の 流れが神の展開なのである。だから人間も「おのずから」に還るこ とができれば神になれる。
  神と生命の世界には「おのずから」があるだけで何もない。ゆえにこの世界は何かに
仮 託しなければみるこ とができない。その結果生まれてきたのが「神のかたち」なのではないか と私は思っている。 
  ときに神は山の神や水神、田の神などになって「かたち」をみせる。 とともにそれらの神々は「神の物語」 という「かたち」で伝えられる。さらに神を下ろし、祀る儀式である祭 とい う「かたち」つくるこ とによって神を体感する 。ときには山に入って修行をする という「かたち」に身を置 くことによって神をみいだす。こうして神はさまざまな ものに仮託され、そこに生命の世界を重ね合わせながら、人々は生命性の歴史を諒解してきたのではなかっ ただろうか。

 と ころで生命的世界を仮託したのは「神のかたち」だけではなかった。な ぜならもっと日常的な、いわば里の生命の世界もまた存在したからである。
  この里の生命の世界と神としての生命の世界とが重なり合うかたちで仮託されたものとしては、村の人々の通過儀礼や里の儀式、作法などがあったのだと思う。 それらは一面では神事というかたちをもち、他面では日々の生命の営みともにあった。
 そ して、最後に。日々の里(さと)の生命の世界のあり様を仮託していくもののして、人々はさまざまな物語を生みだしていた。こ の村が生まれたときの物語、我が家、我が 一族がこの地で暮らすようになった物語。さらには亡くなったおじいさんやおばあさんの物語。
 生 命性の歴史は、何かに仮託されることによってつかみとられていたのである。(注: 「神のかたち」のほかに、キツネなど「おのずからある」そしてやや神秘的なものに仮託することも当然あり得る。)
 そ して、この生命性の歴史が感じとられ、納得され、諒解されていた時代に、人々はキッネにだまされていたのではないかと私は考えている。だからそれはキッネ にだまされたという物語である。しかしそれは創作された話ではない。自然と人間の生命の歴史のなかでみいだされていたものが語られた。
  それは生命性の歴史を衰弱させた私たちには、もはやみえなくなった歴史である。

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