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2018年8月 4日 (土)

リズム論(その31)

リズム論(その31)

第3章 無について(その1)

第1節 無の哲学について(その1)

無という言葉にはその使い方に混乱がある。すなわち、無という言葉にはいろいろな意味があるが、私は、西田幾多郎の絶対無に限定して無という言葉を使いたいと思う。したがって、私が無心という時、世俗的なものに一切とらわれない心境を指している。特別の修行をした名僧などは別として、私たち一般の人間は、世俗的なものに一切とらわれない無心の心境になれることは通常ない。ただし、神に祈りを捧げる時、その祈り方にもよるが、無心の心境になって祈りを捧げることは可能である。

哲学において「無」という場合は、存在すなわち有、に対する無であって、相対的な二次的概念である。これに対し絶対無とは、存在論を超える。
西洋の思惟では無が有より軽んぜられたことは、「無」がBeingに対して常にNon-beingとしかいわれない、という言語的な事実にその証拠を見出す事が出来る。つまり、一般的に通用する言葉として無という言葉がないのである。もちろん、西洋の思惟からの制約を離れて本来的な「無」を表す言葉がない訳ではない。しかし、一般的に通用する言葉ではない。無というものの概念が人々の共通認識として定着していない。
一方、東洋では無を強調し、有中心の非-有(Non-being)、を超えた意味合いを含ませた。東洋的無の思惟が(無の)心を重んじるに対し、西洋的な有の思惟において重んじているのは、知である。
純粋な絶対有はそのあまりの純粋さのために無内容性を持つという観点から行なったハイデッガーの晩年の研究がある。
一方、経験から遊離した思弁的な形而上学を攻撃したルドルフ・カルナップは論文「言語の論理的分析による形而上学の克服」において題名どおり形而上学を批判し、その中で「無」を不用意に、きちんと考えずに扱う哲学者たちを以下のように批判した。
その中で彼は文字通り「無」という概念は元来は「~でない」という否定を不当に名詞化しているだけであるとした。そして、彼によれば、そのような誤りは一見したところ「無」はその形が普通の名詞と同じであるために、形而上学者が言語を混乱して用いてしまうために起こるものであるらしい。また、彼は「無が無化する」のような形而上学的命題は分析的にも総合的にも検証ができないがゆえにナンセンスであるとした。
このようにして、カルナップは、ハイデガーをはじめとした「無」なるものを不用意に、きちんと考えずいいかげんに扱う哲学者を批判した。

このように、無の哲学は西洋ではまったくの未熟であると言っていいのではないか。それに対して日本では、西田幾多郎によって無の哲学が基礎づけられたし、今後、いくつかの課題を解決して、西洋に通用する無の哲学が完成する可能性は高い。無の哲学こそこれからの世界にあるべき哲学であると思う。

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