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2018年8月10日 (金)

リズム論(その34)

リズム論(その34)

第3章 無について(その4)

第4節 私たちはどうすれば無の心境になれるか?

私たち普通の人間は、無心に祈っている時だけしかそういう心境になれないのではないか?

ただし、その前提として、自己を超越する、すなわち脱主体化が必要で、中村雄二郎のリズム論に基づく生活を続けることが不可欠である。

その理由は、我思う故に我ありというデカルト哲学に基づく限り、あくまでも自己が中心で、脱主体化ということはあり得ない。脱主体化の哲学、それは中村雄二郎のリズム論である。したがって、脱主体のためには、中村雄二郎のリズム論に基づく生活をす必要があるのである。リズム論に基づく生活については、第2章に書いたとおりである。しかし、そこでは無との関係で少し書き足らなかった点があるので、この際ここで、無心に祈るということとリズムとの関係を説明しておきたい。冒頭に述べたように、私たちが神に祈りを捧げる時、その祈り方にもよるが、無心の心境になって祈りを捧げることは可能である。

無心という言葉の意味はいろいろあるが、無心に祈るという場合の無とは、ここで問題にしている「無」であって、冒頭に述べたように西田幾多郎の絶対無のことである。

無心に祈っていると何故心が安らかになるのか? これは科学的事実だろうと思うが、それを中村雄二郎のリズム論と結びつけて理解することは大変難しい。私は、第2章第2節の5で記憶の再生が波動現象、つまりリズムのなせるわざであることを説明した。その説明は、「脳と心の量子論・・場の量子論が解き明かす心の姿」(治部眞理、保江邦夫、1998年5月、講談社)によっているが、その本は私の教科書になっており、私の電子書籍「書評・日本の文脈」の補筆『「こころ」とは何か?・記憶、学習、について』でその詳細を紹介した。その教科書から今ここで必要なことをビックアップして見よう。その教科書では次のように述べられている。すなわち、

『 量子脳力学では、外界からの刺激やそれに対する意識の印象も含めた内的な刺激も、最終的に細胞骨格や細胞膜のなかに作られる大きな電気双極子の形にまで変形された後、その近くの水の電気双極子の凝集体として安定に維持されると考えている。』

『 水の電気双極子の形は、大きな耳を付けたミッキーマウスのような形をしているので、水の電気双極子をミッキーマウスの顔と呼ぶ。』

『 外部の刺激や内的な刺激に応じて、ミッキーたちはシンクロナイズスイミングのような華麗な集団演技をやっているらしい。』
『 生物が死んだ場合、ミッキーたちの動きがだんだんとバラバラになっていき、だんだんとダイナミカルな秩序が消えていってしまうらしい。』
『 量子の世界のミッキーたちは、量子電磁場の調和のとれた美しい波動、華麗な光の「音楽」にあわせて、素晴らしいシンクロナイズスイミングの集団演技を披露してくれるのです。』
『 大脳生理学や分子生物学の範囲の中では、いまのところこれといった新しい記憶の理論はないようで、そこで唯一新たな地平を切り開いているのが、量子場脳理論ということらしい。これは、1960年から70年代にかけて、二人の日本の物理学者・梅沢博臣と高橋康が場の量子論における「自発的対称性のやぶれ」という斬新な記憶の理論を提唱し、現在の研究に引き継がれているものです。』
『 脳の組織の中には、形態としては複数の脳細胞の集団なのですが、機能的には一塊の水の電気双極子の凝集体の中に有機的に取り込まれていると考えられる組織で、50マイクロメートル程度の空間的な拡がりを持つものがあり、記憶を含めた高度な脳の機能を生み出している。』
『 新たな刺激によりその凝集体のある部位の細胞骨格や細胞膜の生体分子が電気双極子を持つようになった場合に、凝集体の中に南部・ゴールドストーン量子であるポラリトンが発生する。』
『 このポラリトンの生成を意識する主体こそが「こころ」と呼ばれるものの実態なのです。』
『 「こころ」のほんとうの姿は脳の中に拡がる無限個の光子のそのものであり、 その運動状態が変わるということとして理解できる。』
『 場の量子論というのは、宇宙全体に適用される一般的かつ普遍的な理論体系だが、脳の中のミクロの世界にも適用できる統一的な物理法則であり、脳に関する物理的な学問は量子脳力学と呼ばれている。そして、量子脳力学では、生命というもの、記憶や意識というもの、そして心の実態というものが、物理的に理解されるようになってきている。』
『 記憶とは、体験のことである。 記憶や意識というもの、そして心というものは、物理現象以外の何ものでもない。ということは、体験というものがすべての始まりであるということだ。胎芽時代の体験、胎児時代の体験、幼児時代の体験、子供時代の体験、青年時代の体験、壮年時代の体験、老年時代の体験それぞれが大事である。それぞれの体験によって「心」というものが形成されて育っていく。はじめから「心」というものがある訳ではない。』

以上で大事なのはミッキーマウスと呼ばれる光子である。量子能力学では、光子は波動と考えられているので、ウオータースイミングの集団演技としての動きが問題である。その動きは、私が思うに、その人の体験つまりその人のアイデンティティーによってさまざまである。産まれたばかりの赤ん坊は、純粋無垢で100パーセント乱れがない。それと同じように、無心に祈っている時は、ミッキーマウスが行う集団演技の動きに乱れがまったくない。心配事や邪念が増えると、その乱れは大きくなっていく。病気になって死にそうになってくると、安定化しようとする力がなくなって、遂には死んでしまう。生きている状態というのは、ミッキーマウスの行う集団演技の動きが多少乱れても、それを安定化しようとする力が働いている状態である。

この不思議な波動の世界を説く鍵は、ミッキーマウスと呼ばれる光子である。量子能力学では、光子は波動と考えられているので、ウオータースイミングの集団演技としての動きが問題である。その動きというのは、リズムである。赤ん坊のように純粋無垢の状態になること、それができるのは、私たちの場合、無心に祈る時だけである。通常は、第2章第3節に書いた中村雄二郎のリズム論に基づいた生活をすることぐらいのことしかできない。通常はそうだが、時には無心に祈ることもやってみたいものだ。

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