« 故郷論 | トップページ | リズム論(その3) »

2018年5月14日 (月)

リズム論(その2)

リズム論(その2)

はじめに(その2)

「シヴィック・リベラリズム」とは、「共和国の自由」という意味で、近代市民社会の個人的な自由とは違っている。佐伯啓思は「シヴィック・リベラリズム」に関して次のように言っている。すなわち、
『 「共和国の精神」にしろ「シヴィック・リベラリズム」にしろ、もともとは古代ギリシャのポリスから始まり、ルネッサンスをへて近代ヨーロッパの(とりわけ二つの革命ををへたイギリスの)精神の底流をなしてきたもの。それは、すぐれて「ヨーロッパ的なるもの」であった。アメリカにそれが移植されたのは、すでに述べたように、憲法の起草者たちにとっては「合衆国」の建設はヨーロッパからの断絶を意味していた訳ではなかったからだ。』
『 ところがそのアメリカにおいて、少なくとも20世紀には、リベラリズムはもっぱら消費者の「生活水準」の問題となり、デモクラシーが「世論による政治」の様相を呈してくるのである。「消費者」と「世論」が社会の主役に持ち上げられる。こうしてアメリカは、「ヨーロッパ的なるもの」から断絶をしてゆく。そしてここに、固有の意味で「現代」が始まる。』
『 産業化を達成しようとする国家はむしろ戦後すすんでアメリカニズム、すなわちビジネスと一体になったリベラル・デモクラシーの観念を受け入れようとしてきたのである。之が20世紀のアメリカ文明の「普遍」ということの意味であった。しかし、いまそのアメリカが限界に達している。リベラル・デモクラシーはもはや強い説得力をもてなくなっている。おおくの人はこれをアメリカの経済力の衰退の結果だという。直接的な因果でいえばこのことにまちがいはなかろう。しかし、それが果たした文明史的な意味を問題にすれば、見方は少し違ってくる。』
『 現代のリベラル・デモクラシーは、その基礎にあるヴァーチュー(公共的価値)を見失って、もはや共和国を支えることができなくなっているのではないだろうか。』

『 ローマが無限に拡張するかに見えたように、現代ではリベラル・デモクラシーも無限に拡張するかに見える。しかし、まさにそのときローマの共和国は崩壊しつつあったのである。シヴィック・リベラリズムの考えからすると、共和国の崩壊は、自由と平等のあまりに無制限な拡張と、過度に商業主義から生ずる。そしてそれはまた現代社会を特徴づけるものなのだ。』

『 アメリカ連邦共和国を、たえず崩壊の危機をはらんだ「実験」だと考えていたアメリカの建国の父たちの危惧は、決して過去のものではない。自由と平等、それに国家(共和国)という柱の上に文明を築こうとする限り、決してローマの予言的教訓は過ぎ去ったものにはならないのである。』・・・と。

以上のことを十分認識した上で、私たち日本人は、日本的精神を外国人に語らねばならないと思う。私たちは、歴史的にずっと仏教や神道を信仰してきて、日本的精神を作ってきたのだ。では、日本的精神とは何か? そこが問題の核心である。日本的精神をひと言で言えば、「脱主体化」、すなわち自己主張しないことである。それが何故立派なことであるのか、西欧人には理解されなくとも、今後は、私たち日本人はそれを十分理解した上で、西欧人に判ってもらう努力をする必要がある。

この「日本的精神」に関する哲学としては、佐伯啓思のいうとおりかっての西田幾多郎の「無の思想」があるが、比較的最近のものとしては、私の尊敬する中村雄二郎の「リズム論」がある。佐伯啓思や呉善花は中村雄二郎の「リズム論」にはまったく触れていないので、私は、以下において中村雄二郎の「リズム論」について詳しく述べていきたい。そこでは、中村雄二郎の「リズム論」の世界性を述べることになる。また、佐伯啓思が「日本的精神」との関連で触れている「無」についても、その世界性を述べるとともに、中村雄二郎の「リズム論」と西田幾多郎の「無の思想」との繋がりを明らかにするつもりだ。

« 故郷論 | トップページ | リズム論(その3) »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/73483664

この記事へのトラックバック一覧です: リズム論(その2):

« 故郷論 | トップページ | リズム論(その3) »