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2018年5月21日 (月)

リズム論(その5)

リズム論(その5)

第1章 日本的精神(その3)
第1節 佐伯啓思の認識について(その3)
佐伯啓思のアメリカと日本に対する基本的認識は以上のとおりであるが、彼のいうとおり、確かに現在のところは、日本においても「アメリカ」を超えた視点なんてものは育っていないのかもしれない。しかし、アメリカの精神とは対極的な日本的精神がない訳ではないと私は考えており、今後、その哲学と思想を日本で確立していく可能性がない訳ではない。
日本的精神の哲学について、佐伯啓思は「従属国家論・・・日米戦後史の欺瞞」(2015年6月、PHP研究所)の中で次のように述べている。すなわち、
『 西田哲学のもとに参集した京都学派の学者にとって「日本的精神」の核心は、西田幾多郎の「無の思想」だった。(中略)「無の思想」においては、日本精神の最大の意義は、「主体」を立ち上げない点にある。脱主体化です。「主体化」は「有の思想」として西洋思想の基軸であり、だからこそ、西洋自由主義の中で「主体」の抗争が帝国主義へゆきついたのでした。したがって、すべてを包括し、多様なものを多様なままに「一」とする脱主体化された日本思想こそが帝国主義を克服できる、と彼らはいったのです。ところが、そのために、日本は強力な「主体」として世界史的役割を果たさなければならなかった。脱主体化という「日本精神」をもって、日本は「主体」として世界史に参入しなければならない。これはどうにもならない矛盾であり、この思想戦における京都学派の敗北は予定されていたとさえいってよいでしょう。』・・・と。

さて、ここがいちばん大事な点だが、佐伯啓思の認識のとおり日本はアメリカの従属国家であるとはいえ、そのお陰で、日本は今後世界の列強に侵略される心配は無くなっている。したがって、日本は強力な「主体」として世界史的役割を果たさなければならないという状況にはない。すなわち、脱主体化という「日本精神」をもって日本は「主体」として世界史に参入しなければならないという矛盾はなくなっていると考えて良い。日本は、アメリカの従属国家のまま、 脱主体化という「日本的精神」を生きていけば良いのである。

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