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2018年3月18日 (日)

三国志(その15)

その15、草刈場・荊州

「その14」は、赤壁の戦いの話であったが、「その15」は、劉備がどのように荊州を手にれるかという話と、漢中と蜀の状況に関する話である。

曹仁、曹純、曹洪の魏の軍がその居城・南郡城を出て周瑜の軍と激しい戦いをしているその間に、趙子龍の率いる劉備軍が南郡城を占領してしまう。孔明は、趙子龍が南郡の城を取るや否や、すぐ曹仁の兵符(印章)を持たせて人を荊州に派し、(南郡あやうし、すぐ救え)と云い送った。荊州城の守将は、兵符を信じて、すぐ救援に駈け出した。荊州の城の留守を測っていた孔明は、すぐ張飛を向けてそこを占領する。同時にまた、同様な手段で、襄陽へも人をやった。(われ今あやうし。呉の兵を外より破れ)と、いう檄である。
襄陽を守っていた夏侯惇も、曹仁の兵符を見ては、疑っているいとまもなく、直ちに城を出で、荊州へ走った。かねて孔明の命をうけていた関羽は、すぐ後を乗っ取ってしまう。かくて南郡、襄陽、荊州の三城は、血もみずに、孔明の一握に帰してしまったものである。

荊州、襄陽、南郡三ヵ所の城を一挙に収めて、一躍、持たぬ国から持てる国へと、劉備はその面目を一新した。

零陵の太守劉度も劉備軍は難なく降伏せしめ、玄徳、孔明は轡をならべて、零陵へ入城する。前の太守劉度は、そのまま郡守としてここに置き、子の延は劉備軍に加える。

そしてさらに、桂陽(湖南省・榔県)へ進んだ。桂陽の太守・趙範も趙子龍へ、降参を申し入れる。その後日談として、趙範の兄嫁である美女の縁談話があり、劉備も仲人を勝手でるが、趙子龍は断る。趙子龍曰く。「私も美人は嫌いではありません。けれど、趙範の兄とは、遠い以前、故郷で一面識があるものです。今、それがしがその人の妻をもって妻としたら、世の人に唾(つば)されましょう。また、その婦人がふたたび嫁ぐときは、その婦人は貞節の美徳を失います。」と。玄徳も孔明も、黙然とふかくうなずいたまま、後は多くもいわなかった。趙子龍こそ真に典型的な武人であると、後には人にも語ったことであったが、その時はわざと一片の恩賞をもって賞したに止まった。

また、武陵の太守金旋も、張飛に攻められ、城門をひらき、張飛を迎え入れて、元来、玄徳を景慕していた由を訴えた。玄徳は鞏志を武陵の太守に任ずる。

太守韓玄の治める長沙も、関羽の働きによって陥落する。そして劉備は良将・黄忠と魏延を獲るのである。

ほどなく玄徳は、荊州へ引揚げた。中漢九郡のうち、すでに四郡は彼の手に収められた。ここに玄徳の地盤はまだ狭小ながら初めて一礎石を据えたものといっていい。

周瑜は孫権の妹・妙齢の呉妹君と劉備との縁談を進める。いずれ挙式の前後に、機を計って、劉備を刺し殺してしまおうとするとんでもない策略である。しかし、劉備は、孔明の意見も聞いた上で、承諾して呉に向かう。
呂範は、媒人役として、当然、玄徳の客館へ、その日の迎えに出向いた。玄徳は、細やかな鎧の上に、錦の袍を着、馬も鞍も華やかに飾って、甘露寺へおもむいた。趙雲は、五百の兵をつれて、それに随行した。甘露寺では、一山の僧衆が数十人の大将と迎えに立ち、呉侯孫権をはじめ、母公、喬国老など、本堂から方丈に満ち満ちて待ちうけていた。玄徳の態度は実に堂々としていた。温和にして諂わず、威にして猛からず、儀表俗を出て、清風の流るるごとく、甘露寺の方丈へ通った。「さすがは」と、一見して、呉侯孫権も、畏敬の念を、禁じ得なかった。争えないものは、人間と人間との接触による相互の感情である。ひと目見て、孫権以上、彼に傾倒したのは母公であった。

相思相愛の二人・呉妹君と劉備は呉で新婚生活を楽しむが、孫権は二人がそのまま呉に残ることを望んで楼宮を造築する。楼宮の結構は言語に絶し、園には花木を植え、池畔には宴遊船をつなぎ、廊廂には数百の玻璃燈をかけつらね、朱欄には金銀をちりばめ、歩廊はことごとく大理石や孔雀石をもって張ってあった。しかし、荊州が風雲急を告げてきたので、劉備は荊州に帰ることとなる。それに対し、孫権は劉備を荊州に返してはならないと心に決め、いろいろと対策を講じる。呉妹君と劉備の二人は、苦労しながらも呉を脱出する。怒った孫権は、返してなならじと追っ手を差し向ける。その時の劉備にしたがう呉妹君の気持ちと働きは、「その15、草刈場荊州」の一つのハイライトである。

荊州に無事帰り着いた劉備は、再び曹操の荊州攻略に立ち向かう。そのさなか、劉備は統(ほうとう)と出会い、配下に向かい入れる。統は、字が士元、襄陽名士のひとりで、孔明がまだ襄陽郊外の隆中に居住していた頃から、はやくも知識人たちの間には、統ハ、鳳凰ノ雛。孔明ハ、臥セル龍ニ似ル。――と、その将来を囑目されていたのだった。
結局、統は、副軍師中郎将に任ぜられ、総軍の司令を兼ね、最高参謀府にあって、軍師孔明の片腕にもなるべき重職につく。劉備は、「鳳凰ノ雛。孔明ハ、臥セル龍ニ似ル」と称された偉大なる二人の人物を得たことになる。これで劉備は蜀を手に入れる万全の準備ができたことになる。

その頃、馬騰の一族・馬超が西涼州(甘粛省・陝西奥地一帯)にいて、曹操と争っていた。馬超、韓遂の大軍が長安全城を占領してしまったため、長安全城の城主・鍾は、長安全城を逃げ出し、次の潼関に拠って、許都へ向って悲鳴をあげた。曹操は、ただちに三軍団を編成し、馬超討伐に向かう。曹操の本軍と夏侯淵の軍と曹仁の軍、魏の総力を挙げての対応である。結局、馬超は、追い詰められ追い詰められ、また、取って返しては敵に当り、踏み止まっては追手と戦ったが、果ては、わずか三十騎に討ちへらされ、夜も寝ず、昼も喰わず、ひたすら西涼へさして逃げ落ちた。

ところで、その頃の漢中(陝西省・漢中)の状況であるが、漢中の住民のあいだを、一種の道教が風靡していた。五斗米教である。中央に遠い巴蜀の地である。令を以て禁止することも、兵を向けて一掃することもできない。そこで教主張魯に対しては、卑屈な懐柔策を取ってきた。彼に鎮南中郎将という官職を与え、漢寧の太守に封じて、そのかわりに、「年々の貢ぎを怠るなかれ」と誓わせて来たのである。その張魯は、勢力拡大のため、入蜀の準備を進めていた。

巴蜀。すなわち四川省。四川省の盆地は、米、麦、桐油、木材などの天産豊かであり、気候温暖、人種は漢代初期からすでに多くの漢民族が入って、いわゆる巴蜀文化の殷賑を招来していた。その都府、中心地は、成都である。北方、陝西省へ出るには有名な剣閣の嶮路を越えねばならず、南は巴山山脈にさえぎられ、関中に出る四道、巴蜀へ通ずる三道も嶮峻巍峨たる谷あいに、橋梁をかけ蔦葛の岩根を攀じ、わずかに人馬の通れる程度なので、世にこれを、「蜀の桟道」と呼ばれている。蜀の劉璋は漢の魯恭王が後胤といわれ、父劉焉が封を継いでいたが、その家門と国の無事に馴れて、いわゆる遊惰脆弱な暗君だった。漢中の張魯が攻め込んでくるのではないかと戦々兢々としていたのである。蜀の諸大将も、みな怯えた。評議の席で張松が、曹操に助力をしてもらおうとする案を献策した。その献策にしたがい、劉璋は、金珠錦繍の贈物を、白馬七頭に積んで、張松に託した。もちろん曹操への礼物である。千山万峡、嶮岨を越えて、使者の張松は都へ向った。張松は曹操と会見できたが、どうもウマが合わないのか、張松の説得がまずかったのか、曹操はなかなかいい返事をしない。


その15、草刈場・荊州: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kusakariba.pdf



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