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2018年3月21日 (水)

三国志(その16)

その16、劉備の入蜀

「その15」は、劉備がどのように荊州を手にれるかという話と、漢中と蜀の状況に関する話であったが、「その16」は、いよいよ劉備が入蜀し、蜀を手に入れる話である。

覇者は己れを凌ぐ者を忌む。張松の眼つきも態度も、曹操は初めから虫が好かない。しかも、彼の誇る、虎衛軍五万の教練を陪観するに、いかにも冷笑している風がある。当然、曹操は赫怒した。張松はたちまち大勢の兵に囲まれて遮二無二、練兵場の外に引きずり出された。そして鉄拳を浴び、足蹴をうけ、半死半生にされて突き出された。

張松はすぐに本国へ帰ろうと思った。しかし、彼は途中から道をかえて、荊州のほうへ急いでいたのだった。かくて彼は、期せずして趙雲子龍、関羽、劉備の歓待を受け、蜀を托するには劉備こそふさわしいとひそかに思い、帰り際に「西蜀四十一州図」一巻を献呈する。そして自分の親友二人(法正と孟達)のなを告げて蜀に帰る。蜀に帰ると直ちに主君劉璋に頼るべきは曹操ではなく劉備こそふさわしいと説得する。

その後しばらくして、劉璋の使者・法正がやってきて劉備の入蜀をお願いする。劉備は公明と相談、さまざまな情勢分析の上、入蜀を決断する。荊州には、孔明が残ることになった。その配備は。襄陽の堺に関羽。江陵城に趙雲子龍。江辺四郡には張飛。といったように、名だたる者を要所要所にすえ、孔明がその中央荊州に留守し、四境鉄壁の固めかたであった。

劉璋と玄徳との対面の日は来た。両者の会見は、和気藹々たるものであった。「世は遷り変るとも、おたがい宗族の血はこうして世に存し、また巡り会って、今日をよろこぶことができる。力を協せて、ふたたび漢朝の栄えを見ることに兄弟ひとつになろうではありませんか」情を叙べるに玄徳は涙し、劉璋も力を得て、彼の手を押し戴き、「これで蜀も外から侵される心配はない」と、かぎりなく歓んだ。歓宴歓語、数刻に移って、玄徳はあっさり帰った。彼のつれて来た五万の軍勢は、城外の江江畔(ふこうこうはん)においてあるからである。

その後、劉璋の求めに応じて、葭萌関(かぼうかん)において漢中の張魯軍と対峙することとなる。葭萌関は四川と陝西(せんせい)の境にある難攻不落がある。張魯軍はそこに立てこもっている。両軍は悪戦苦闘のままたがいに譲らず、はや幾月かを過していた。

そんな折、曹軍が南下してきたので、呉の孫権から荊州へ救いを求めてきた。やむなく劉備は、劉璋に対し、兵と粮食を借り求めた。しかし、劉璋は、戦線には用いられないような老朽の兵ばかり四千人と穀物一万石、それに廃物にひとしい武具馬具などを車輛に積んで、使者と共に、玄徳へ送りとどけた。玄徳はその冷淡に怒った。

葭萌関を退いた玄徳は、ひとまず 涪水関(ふすいかん)の城下に総軍をまとめ、 涪水関を占領する策を練った。そして劉備は、策を講じて涪水関をとる。劉備は、その涪水関を拠点として、成都周辺の要害を次々と手中に納めていった。そんな折、呉の孫権の使者が漢中に来る。張魯はたちまち力を得、かねての野望を達せんと、漢中軍をもって葭萌関へ攻めかかる。

そんなこともあって、劉備は苦境に陥るが、そんな折、孔明は、荊州の守りを関羽と関平に任せ、張飛や趙雲の率いる劉備軍を伴って、劉備のもとにやってくる。

その頃、忽然と、蒙古高原にあらわれて、胡夷の猛兵をしたがえ、隴西(甘粛省)の州郡をたちまち伐り奪って、日に日に旗を増している一軍があった。建安十八年の秋八月である。この蒙古軍の大将は、さきに曹操に破られて、どこへか落ちて行った馬騰の子馬超だった。征くところ草を薙ぐように、敵を風靡し、この軍団は、強大になった。これを曹操は見逃すわけはない。夏侯淵、姜叙、楊阜の軍が攻めてきたのである。さすがに魏軍は強力。馬超は乱軍のなかをよく戦いつつ、一族の馬岱、 徳などと共に、城外遠く、何処ともなく逃げ落ちて行った。

馬超とその部下、馬岱、 徳などの六、七騎は、流れ流れて漢中にたどりつき、この国の五斗米教の宗門大将軍張魯のところへ、身をよせた。そして、葭萌関に向かう。葭萌関へ新たにかかって来た敵は馬超という西涼第一の豪雄である。これに対して張飛が立ち向かう。なんども戦うが二人の勝負は容易につかない。このままでは二人のどちらかが死ぬ。劉備はそうさせてはならないと考えた。そのとき孔明は、すでにいろいろと手を打っていたらしく、馬超を味方に引き入れることに努力する。結果、遂に、馬超は劉備の配下となる。
馬超は、玄徳に向って、「ご奉公の手始めに、私と、私の従弟の馬岱と、ふたりして成都におもむき、劉璋に会って、張魯の野心を語り、また漢中の内情を告げ、劉皇叔の兵と戦うことの愚かなることをよく説いてみたら――と思いますがどうでしょうか」と、進言した。そして、その結果、遂に、劉璋は、城を出て劉備に降参の意を表した。玄徳はみずから迎え立ち、劉璋の手をとって云った。「私交としては、人情にうごかされるが、時の勢いと、公なる立場から、きのうまで、成都を攻め、今日、あなたの降を容れることとなった。かならず個人同志の情誼と、公人的な大義とを混同して、この玄徳を恨みたもうな」玄徳の眼には、熱い涙すらみえたので、劉璋は、むしろ降伏の時を遅くしたことを、自身の罪と思ったほどであった。そして、劉璋は蜀を去って、荊州の南郡に移り、まったくその地位と所をかえて余生する身となった。

この後、劉備が漢中を手に入れ、漢中王となるまでにはいろいろな劇的な場面があるのだが、それについては本文を読んでもらいたい。ここでは省略する。


 

その16、劉備の入蜀: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nyuusyoku.pdf

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