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2018年3月12日 (月)

三国志(その13)

その13、孔明が呉に赴く

玄徳の生涯のうちでも、「その12」で述べた亡流は大難中の大難であったといえるであろう。玄徳は、長坂橋附近でもさんざんに痛めつけられ、漢江の渡口まで追いつめられてきた頃は、進退まったくきわまって、「わが運命もこれまで――」と、観念するしかないような状態に陥っていた。ところが、ここに一陣の援軍があらわれた。さきに命をうけて江夏へ行っていた関羽が、劉から一万の兵を借りることに成功して夜を日についで馳けつけ、漢江の近くでようやく玄徳に追いついてきたものであった。この「その13」は、そこから話が始まるが、関羽と再会した劉備は、まもなく長坂橋附近で離れ離れになっていた孔明や江夏城の城主・劉(りゅうき)とも再開した。

孔明は、「さし当って、次の策こそ肝腎です。夏口(漢口附近)の地は要害で水利の便もありますから、ひとまず夏口の城にお入りあって、曹操の大軍に対し、堅守して時節を待たれ、また劉君にも江夏の城へお帰りあって、わが君と首尾相助けながら、共に武具兵船の再軍備にお励みあるが万全の計でしょう」と、まず将来の方針を示した。劉は、同意したが、「それよりも、もっと安全なのは、ひとまず玄徳どのを、私の江夏城へおつれして、充分に装備をしてから、夏口へお渡りあっては如何ですか。――いきなり夏口へ入られるよりもそのほうが危険がないと思われますが」と、自分の考えを述べた。その考えにしたがって劉備や孔明は江夏城に落ち着いたのであった。

その後まもなく、呉の魯粛が劉備に会いに来た。劉表が死去するとすぐに荊州の様子を探りに来ていたのであるが、その途中、当陽の長坂で劉備との対面して孫権の意向を伝え、劉備と同盟を結び曹操と対峙したい事を進言していたのである。呉との同盟は、孔明にとって天下三分の計の実現のために必須条件であるので、孔明は魯粛に連れ立って呉に赴く。

呉では、圧倒的な軍事力を誇る曹操に対して、どう対処するかについて侃々諤々の議論が行われていた。降伏をもういでて呉の安全を図るべきという降伏派とあくまで呉の尊厳ある歴史を守るため戦おうとする主戦派に別れていた。

諸葛亮は、降伏派の張松、虞翻、歩隲、薛綜、陸績、厳畯、程秉を次々と論破した。そして、張温と駱統がさらに難題を持ちかけようとしたとき黄蓋にさえぎられた。黄蓋は「せっかくの話、我が殿にご言上されよ。」と言って、孫権のもとに案内した。諸葛亮は孫権を「魏は兵が多くても寄せ集めの軍。水上戦ともなれば呉が有利でございましょう。」と説得し開戦を勧めた。孫権はいろいろと悩んだ挙句、遂に、開戦を決意する。

大都督周瑜は、陣鼓のとどろきに迎えられて、やおら駒をおり、中軍幡や司令旗などに囲まれている将台の一段高い所に立って、「令!」と、全軍へ向って伝えた。「――王法に親なし、諸将はただよく職分に尽せ。いま魏の曹操は、朝権を奪って、その罪のはなはだしさ、かの董卓にもこえるものがある。内には、天子を許昌の府に籠め奉り、外には暴兵を派して、わが呉をも侵さんとしておる。この賊を討つは、人臣の務めたり、また正義の擁護である。それ戦いにあたるや、功あるは賞し、罪あるは罰す。正明依怙なく、軍に親疎なし、奮戦ただ呉を負って、魏を破れ。――行軍には、まず韓当、黄蓋を先鋒とし、大小の兵船五百余艘、三江の岸へさして進み陣地を構築せよ。蒋欽、周泰は第二陣につづけ。凌統、潘璋は第三たるべし。第四陣、太史慈、呂蒙、第五陣、陸遜、董襲。――また呂範、朱治の二隊には督軍目付の任を命ず。以上しかと違背あるな」


その13、孔明が呉に赴く:    http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/gokoumei.pdf








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