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2018年2月11日 (日)

三国志(その4)

その4、劉備玄徳、徐州の太守となる

董卓殺害後、王允と呂布は共に朝政を掌握し、呂布は奮武将軍に任じられ、温侯・儀同三司となり、仮節を与えられた。しかしその後呂布が涼州軍を憎んだ為に董卓の軍事力の基礎であった郭汜・李傕ら涼州の軍勢が長安を襲撃してくると、呂布は郭汜を一騎討ちで破るも防ぎきれず、李傕らに長安を奪われた。呂布と王允の統治はそれなりに良かったようである。

呂布は王允を助けようとしたが叶わず、董卓の首を馬の鞍にぶら下げ、数百騎を率いて武関から逃亡した。董卓の死から60日後のことであったという。

呂布はまず荊州に赴き、袁術に手厚くもてなされたが受け入れられず、次に袁紹を頼った。袁紹は黒山賊の張燕と戦っているときであったので、呂布を迎え入れ、共に常山の張燕を攻撃した。張燕は精兵1万と騎馬数千匹を率いて勢威を振るっていたが、赤兎馬に乗った呂布と、呂布配下の勇将・成廉、魏越率いる数十騎が1日に3, 4度も突撃して次々に張燕軍を討ち取ったため、数十日後に遂に敗れ、以後黒山賊は離散した。この戦いの後愛馬である赤兎とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されたという。

『後漢書』呂布伝では『三国志』と異なり、袁術、張楊、袁紹、張邈、張楊の順に身を寄せたという。その後、徐州の太守・劉備玄徳を頼る。吉川三国志を私なりに紹介する「その3」は、劉備が平原県の令を経て平原郡の相となる話であった。 董卓と反董卓軍との激烈な戦いが始まり、劉備らは大いに戦功をあげ、その功績によって平原郡の相となるのである。 今回の「その4」は、何か戦功をあげるというのではなく、彼の人徳により徐州の太守となる話である。正義の人、劉備。彼の面目躍如たる物語、それがこの「その4」である。

曹操は次第に力をつけ、兗州を支配するようになっていた。人材を集め、兗州が彼の本拠地となっていたのである。その頃、すでに述べたように、 曹操の父が殺される。父の住んでいたところは、兗州に近く、大いに親孝行をしようと父を兗州に呼び寄せる、その途中で父が殺されるのである。曹操は殺された亡父の仇討ちとして、徐州の陶謙を攻める。徐州の陶謙は正義の人であり、曹操の父を殺す気など全くなかったのだが、よからぬ部下が曹操の父を殺害する。もちろん部下の仕業とはいえ、その責任は主人にあるので、曹操は陶謙を仇とするのである。曹操は、10余城を陥落させるも、陶謙は籠城して出てこなかったため、翌年の春には兗州へと帰還。青州平原から陶謙の救援のためにやってきた劉備は、勢い、曹操と戦うことになる。陶謙の評価はいろいろあるようであるが、吉川三国志では陶謙は正義の人として描かれている。陶謙は病で重篤に陥り、子の陶商・陶応が揃って不出来であるという理由から、糜竺に徐州を劉備に譲るよう遺言を託し、間もなく死去した。劉備はその申し出を断り続けるのであるが、住民からも領主になってもらいたいとの声が巻き起こり、遂に、劉備は徐州の太守になることを引き受ける。

三国時代、中国全土には10数箇所の州があった。その下に郡があり、その郡の下に県があった。州は一つの国であり、太守というのはその領土を支配するいわば領主のことである。劉備は遂に徐州という国の領主に上り詰めるのである。徐州は、本来、曹操の勢力範囲であり、いずれ劉備は徐州を離れることになるが、それは後ほどのことである。
今回の「その4」では、流浪の人・呂布は流浪の挙句、劉備を頼って身を寄せる。劉備は呂布を手厚く処遇するのである。

その4、劉備玄徳、徐州の太守となる: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyosyuuno.pdf



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