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2018年2月13日 (火)

三国志(その5)

その5、呂布が殺害される

董卓殺害後、王允と呂布は共に朝政を一時掌握したが、董卓の軍事力の基礎であった郭汜・李傕らにはぶれ、数百騎を率いて武関から逃亡した。董卓の死から60日後のことであったという。『後漢書』呂布伝では袁術、張楊、袁紹、張邈、張楊の順に身を寄せたという。前回の「その4」では、流浪の人・呂布は流浪の挙句、劉備を頼って身を寄せ、劉備は呂布を手厚く処遇した。

その後の話が今回の「その5、呂布が殺害される」である。呂布が劉備のところに身を寄せまもなく、徐州を巡って劉備が袁術と戦うようになると、その隙を突いて呂布は劉備の本拠下邳を奪い取った。行き場を無くした劉備が呂布に降伏すると、呂布は劉備を豫州刺史にし自らは徐州刺史を名乗った。
ところで、下邳は徐州にあり徐州には劉邦の故郷、小沛があるが、徐州は中国史を語る上で欠かせないところで、徐州は項羽の本拠地でもあるし、小沛は劉邦の故郷であり下邳は劉邦の軍師忠良の隠れ住んだ所でもある。
その後、袁術が紀霊らに歩・騎兵あわせて3万を率いさせ、再び劉備を攻撃しようとしたため、劉備は呂布に救援を求めた。呂布は袁術と泰山諸将(臧覇ら)による包囲を警戒し、呂布軍の諸将の諌めを遮って歩・騎兵1千人余りで劉備・袁術を調停。陣中で戟を射て両軍を撤退させた。その後、呂布は1万の兵を集めた劉備を攻め、小沛を陥落させた。劉備は逃走し、曹操を頼った。

建安3年(198年)呂布はまた袁術と通じ、部下の高順を派遣して小沛の劉備を陥落させ、臧覇等が呂布に従った。そこで曹操は自ら大軍を率いて徐州に攻め込んだ。10月曹操軍が彭城を落とすと陳宮は献策したが呂布は聞かず、しばしば下邳に到着した曹操と戦うも皆大敗し、下邳に籠城した。包囲して後、下邳を攻め落とせず疲弊した軍を憂え撤退を計る曹操に対し、曹操軍の荀攸・郭嘉は水計を考案し実行に移されると、侯成等は陳宮達を捕えて呂布を裏切り、呂布は後に部下と投降。この時呂布は部下に自分を売って曹操に降るよう命じたが、部下達は遂行出来なかったとも言う。
呂布が「(曹操)殿が悩みとしていたのは私一人でしょう。それが降伏したなら天下に心配事はもう有りますまい。殿が歩兵を率い、私が騎兵を率いれば、天下の平定は容易なことです」と語ると、曹操は顔に疑惑の色を浮かべた。劉備が進み出て呂布が過去に丁原・董卓を裏切った例を挙げて曹操を諫めると、曹操もそれに頷いた。呂布は「こいつ(劉備)こそが一番信用できない者だ」と主張したが、縛り首にされ、重臣の陳宮・高順らも斬首された。呂布・陳宮・高順らの首は許に送られ、後に埋葬されたという。

呂布が殺害されるに至るその陰には、陳大夫陳登父子の謀み事がある。陳大夫父子は、呂布にとっては裏切り者であるが、劉備や曹操にとっては大の功労者である。

その5、呂布が殺害される: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/ryohusatu.pdf



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