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2018年1月 7日 (日)

大久保一翁(その6)

大久保一翁(その6)

大久保忠寛は勝海舟を阿部正弘に推薦し、そのおかげで勝海舟は、安政2年1月、下田取締手付・異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たし、海舟は自ら人生の運を掴むことができたのである。安政2年8月、長崎海軍伝習所開設に赴任。安政6年11月、米国派遣を命じられる。大久保忠寛が勝海舟を阿部正弘に推薦してからわずか4年の間にこれだけの大役を仰せ付けられることになるのである。阿部正弘は次々と素晴らしい人材を登用していくのだが、その陰には、大久保忠寛の人を見る目というものがあったのである。

安政5年5月、大久保忠寛は朝廷の雑務を監督する「禁裏付」への赴任を命じられ、伊勢守という朝廷の官職名を名乗った。大久保忠寛はそれまで右近衛将監という朝廷の官職名を名乗っていたが、過去、「禁裏付」になりながら右近衛将監という朝廷の官職名を名乗った例がないという慣例によって、伊勢守という朝廷の官職名を名乗ったようだ。

「禁裏付」は、江戸幕府の役職の一つで、前任者の死で、急遽、老中・松平忠固の推薦で公卿達とのやり取りで根負けしない気骨ある人物として選ばれた。

7月12日に京都着任。当時京都では戊午の密勅降下が画策されており、8月8日に水戸藩へ下され、10日に幕府宛ての密勅が大久保忠寛のもとに届いた。内容を読んだ大久保は驚いたが如何ともし難く、急いで江戸に送るしかなかった。

大老・井伊直弼の腹心である長野主膳はこの事件をきっかけとして京都で活動中の志士や、一橋派に与した公卿への弾圧を企てていたが、行動を開始する前に禁裏付である大久保忠寛がどういう考えの持ち主なのかを探るために面会を求めた。18日に大久保忠寛は長野と面会し、長野から一橋派に協力しないことや老中・間部詮勝が間もなく京都に来るのでそれに協力するようにと暗に求められた。大久保は長野を警戒して何も分からないふりをしてやり過ごした。

大老・井伊直弼は大久保忠寛を自分に敵対する事は無いだろうと判断したためか、翌安政6年2月、京都町奉行に任命した。京都町奉行に就任した大久保忠寛は、自身の配下である与力の加納繁三郎と渡辺金三郎が安政の大獄で功績があった事を傘に着て公私に問題を起こしていたため、2人を摘発しようとした。この事が長野主膳の耳に入り、加納、渡辺を手足として使っていた長野主膳は大久保忠寛の追い出しを図り、6月に町奉行を罷免。大久保忠寛は、隠居老人の役職である西丸留守居に左遷され、次いで安政6年8月には寄合(非役)に飛ばされた。

大老・井伊直弼が桜田門外で暗殺されて以降、大久保忠寛は、文久元年8月に蕃書調所頭取となり、同年10月には 外国奉行に異動し、文久2年5月に外国奉行兼務のまま大目付に異動、同年7月には 側衆にして御側御用取次に異動(旗本席にして最高の役職に就く)。しかし、同年11月には、大政奉還・ 諸大名合議制政体などを献策し、側用人の分限を越えているとして講武所奉行に左遷。また、元治元年7月に勘定奉行を命ぜられるも、 一橋慶喜の第二次長州征伐に反対し、就任数日で勘定奉行を御役御免となる。勤仕並寄合となる。

このように、大久保忠寛は幕府の不甲斐なさに翻弄され苦労するが、いよいよ幕府が危なくなった時に、再び、彼の本領が発揮される。




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