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2018年1月 1日 (月)

大久保一翁(その4)

大久保一翁(その4)

天保13年9月、父大久保忠尚死没。12月に家督を継ぐ。そして、寛永2年1月に忠寛に改める。その後、寛永7年2月、老中・阿部正弘の引き立てがあって、七番組徒頭となった。将軍外出のとき、徒歩で先駆を務め、また沿道の警備などに当たったのが徒組(かちぐみ)で、その長が徒頭(かちがしら)である。江戸幕府における徒組(かちぐみ)は、徳川家康が慶長8年に9組をもって成立した。以後、人員・組数を増やし、幕府安定期には20組が徒頭の下にあり、各組毎に2人の組頭(徒組頭とも)が、その下に各組28人の徒歩衆がいた。徒歩衆は、蔵米取りの御家人で、俸禄は70俵5人扶持。礼服は熨斗目・白帷子、平服は黒縮緬の羽織・無紋の袴。

そして、寛永7年5月、目付に昇進し、海防掛を仰せ付けられる。

目付は、元和3年に設けられ、定員は10名、役高は1000石。若年寄が管轄し、江戸城本丸及び西の丸におかれた。配下に徒目付、小人目付がおかれ、旗本、御家人の監視や、諸役人の勤怠などをはじめとする政務全般を監察した。有能な人物が任命され、後に遠国奉行・町奉行を経て勘定奉行などに昇進するものが多かった。老中が政策を実行する際も、目付の同意が無ければ実行不可能であり、将軍や老中に不同意の理由を述べる事ができた。幕末期、外国との会談・交渉の際に、目付を同席させた。

海防掛は、海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり)が正式名称で、江戸幕府の職名の一つ。寛政4年に設置され、嘉永6年のペリー来航に際して強化された。



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