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2018年1月14日 (日)

大久保一翁(その8)

大久保一翁(その8)

文久3年4月、大久保忠寛は松平春嶽や横井小楠と書簡のやり取りをしており、そこにも大久保の思想が強く表されている。すなわち、

『 幕府の対外政策は根本から誤っている。和の場合こちらの軍備が整っていないから戦わないという事で、戦の場合軍備が整い次第戦うという事になるが、天理に基づくならば武備の調不調に関わらず戦うべきであり、勝敗は天に任せるべきである。さりながら、夷人達はこれまで我が方のごまかし的な応対に驕慢な態度を示したのであって、彼らの方から和親を求めている以上こちらから戦争を仕掛ける理由がない。いつまでも和の戦のと百歩五十歩論に日月を虚しく過ごすのは良策ではないので、朝廷に対して公明正大な開国の建白を行ない、これまでの事は深くお詫びして至誠を持って奏聞し、朝廷が受け入れない場合には徳川家は将軍職を辞退して、遠江・駿河・三河の旧三国に退く事を願う他無い』・・・と。

また同月初旬頃、勝海舟の弟子である坂本龍馬・沢村惣之丞らが大久保忠寛の元を訪れ、大久保忠寛の考えについて問い質した。この時大久保忠寛は坂本龍馬と沢村惣之丞を「大道解すべき人」と見込んで自分の考えを述べたことを文久3年4月の横井小楠宛の書状で明らかにしている。その書状は次の通りである。

『 京地云々の義、勝(海舟)に従いおり候土州有志、過日五人拙宅に参り候につき、ほぼうけたまわり、唯々嘆息極め候えども、その来人中、坂本龍馬、沢村惣之丞両人は大道解すべき人やと見受け、話中に刺され候は覚悟にて懐相開き、公明正大の道はこのほかあるまじくと素意の趣き話し出で候ところ、両人だけは手を打つばかりに解し得候につき、さらば早々上京の上何とか尽力すべしと話し候ところ、及ぶだけは死力を尽くし見申すべく候間、春嶽様へも御一封と申し聞け候につき、かねて御存知の事には候えども、なお愚論相認め、当月三日龍馬出立に託し上ぼせ候。なお決して御見捨てこれ無き様、御国のため幾重にも願い候。龍馬は御国許までもまかり出で、是非正大のところを以て御出勤御進め申し上ぐべき候と申しおり候 』

この時坂本と沢村が聞いた「素意の趣き」とは大久保の持論である大開国論、大政奉還論についてだったと思われ、後に大政奉還推進者となる坂本にとって意義深い示唆を得る事になった。

また9月から11月にかけて再度松平春嶽に書状を送り、議会の創設についても言及した。大公議会・小公議会の二院制とし、それぞれ国政と地方の政治を担当させるという案で、幕府の専制ではなく議会制度を創設して衆議による挙国一致の態勢を立てるようにしなければ時局を収拾することは出来ないと説いた。これはイギリスの議会制度から着想を得たもので、講武所に勤務中に西周などの教授から知識を得たのではないかと言われている。





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