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2017年12月24日 (日)

大久保一翁(その2)

大久保一翁(その2)

大久保一翁は、禄高500石の大久保忠向と母みさの長男として、文化14年11月29日に生まれた。勝海舟より6っつ年上であり、五百石の大久保家は、三河以来の譜代の旗本で、先祖代々他家から養子をしないことを誇りとしていた。小普請御家勝家と比べると、格段の上位の家柄である。

父の忠向は三河武士の標本のような人物で、弓術に秀で、将軍より賞を受けたことがあり、部類の酒好きで、杯を傾けながら三四郎少年の射芸を見るのを最大の楽しみにしていた。

三四郎少年は、父の期待通り、三河武士特有の質実剛健な気質を身につけ、文武両道の、しかも温和な性格の少年に育っていった。そして、文政10年(1827年)、将軍徳川家斉に初めて拝謁。天保元年(1830年)には、小姓組五番番頭(大久保上野介忠誨組)によって将軍徳川家斉附の小納戸という役を拝命した。このことがあって三四郎忠正と称する。

大久保上野介忠誨(たださと)は五千石、居屋敷 2,160坪の御旗本で、文政7年6月から8年11月まで小普請組支配をしていた。なお、忠誨の7代前の忠爲の弟がお馴染み大久保彦左衛門忠教であるが、同じ三河武士の大久保一族と言っても、長い年月の間に随分枝分かれして行っているので、三四郎の父忠向と親戚というわけではない。しかし、どこかで血が繋がっているという意識はあろうから、少年三四郎が 大久保上野介忠誨(たださと)に引き立てられたということはあろう。いずれにしろ、少年三四郎は家柄のおかげで、初めて江戸幕府における役を仰せつかったのである。

三四郎忠正は、小納戸という役を仰せつかって間もなく布衣(ほい)に遇せられている。布衣(ほい)とは、江戸幕府の制服の一つで、それを着ることのできる者は、位階で言えば六位(ろくい)相当の格があると見なされていた。江戸幕府による武家官位では、布衣がもっとも下位にあたったけれど、小納戸という役がとても重要な役であることを示している。江戸幕府における小納戸とは、将軍が起居し、政務を行う江戸城本丸御殿中奥で将軍に勤仕して、日常の細務に従事する者のことであり、幕末には100人を超える小納戸がいた。
小納戸に任命されると、3日のうちに登城し、各人が特技を将軍の前で披露する。小納戸には、御膳番、奥之番、肝煎、御髪月代、御庭方、御馬方、御鷹方、大筒方などがあり、性質と特技により担当を命ぜられた。また、いっそうの文芸と武芸を磨くため、吹上庭園内に漢学、詩文、書画、遊芸、天文の学問所と武術の稽古場があった。
将軍が中奥御小座敷での食事の際に、膳奉行の立ち会いの上、小納戸御膳番が毒味をおこなう。異常がなければ膳立てし、次の間まで御膳番が捧げ、小姓に渡す。給仕は小姓の担当であった。将軍が食べ終わった後、食事がどのくらい残されているかを秤に掛け計測し、奥医師から質問された場合には応答し、小納戸は、毒味役と将軍の健康管理を兼ねていた。
その他、洗顔、歯磨きの準備も小納戸の仕事で、将軍の月代と顔を剃り、髪を結うのが御髪月代であり、将軍の肌に直接触れることで失敗は許されず、熟練の技を要した。お馬方は、江戸市中に火災が起こると、現場に駆け付け、状況を将軍に報告した。
小納戸は、将軍に近侍する機会が多く、才智に長ける者であれば昇進の機会が多い役職であった。小納戸・三四郎忠正 は、少年時代から、父の期待通り、三河武士特有の質実剛健な気質を身につけ、文武両道の、しかも温和な性格の少年に育っていったので、 小納戸役を仰せつかった段階で将来の昇進を約束されたのである。

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