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2017年6月30日 (金)

知られざる清水寺(その7)

知られざる清水寺(その7)

なお、小松和彦はその著「京都・魔界案内」(2012年9月、光文社)の中で、清水寺に関連する話として説教節の「しんとく丸」の話があると言っているので、説教節の「しんとく丸」について少々触れておきたい。
まず、 説教節の「しんとく丸」の四天王寺に捨てられるまでの話は、次のとおりである。すなわち、
『 河内国の高安(今の大阪府八尾市高安山のふもと)の信吉長者は金持ちで何の不足もなかったが、前世での悪行の報いで子宝にだけは恵まれなかった。そこで、 信吉長者夫婦は京都東山の清水寺に参り、観音に申し子して、子を授かった。
 生まれた男の子は、「しんとく丸」と名づけられた。しんとく丸は9歳になると、三年の間、信貴(しぎ)の寺に預けられ、学問を学ぶこととなる。信貴の寺で一番の学者となり、河内国高安に戻ってきたしんとく丸は、天王寺の聖霊会(しょうりょうえ。陰暦2月22日、聖徳太子の命日に営まれる法会)で稚児舞を舞うこととなり、その折、客席にいた
和泉国近木の庄(こぎのしょう。今の大阪府貝塚市北西部)の蔭山長者の娘・乙姫に一目惚れ。 信吉長者の家来の働きで文を取り交わして結婚の約束を取りつける。しんとく丸は大喜びだったが、そんなとき、しんとく丸の母が亡くなってしまう。しんとく丸は持仏堂にこもり、母の菩提を弔う。信吉長者はまもなく新しい奥方を迎え、新しい奥方はじきに男の子をもうけた。新しい奥方は、しんとく丸がいるために我が子を信吉長者の跡継ぎにできないのが口惜しく、都に赴き、都中の寺社を駆け巡り、呪いの釘を打ち込んで、しんとく丸に呪いをかけた。
 しんとく丸は継母の呪いのために目が潰れ、ライ病となり、天王寺に捨てられる。』
・・・というものだ。

ここで小松和彦が注目するのは、しんとく丸の継母(ままはは)が最初に呪いの釘を打ち込むのが清水寺であるということだ。小松和彦は、説教節「しんとく丸」のその場面を小松和彦は、次のように紹介している。
すなわち、
『 清水坂の鍛冶屋に宿を取った継母は、沢山の六寸釘を作らせ、その釘を観音の前に立つ木に、縁日にちなんで18本も打ち込んでしんとく丸を呪ったのである。』・・・と。

説教節「しんとく丸」では、その継母は祇園神社、御霊神社、今宮神社、北野神社、東寺の夜叉神堂(やしゃじんどう)などにも駆け巡って呪いの釘を打ち込んでいるので、説教節が語られた鎌倉時代から室町時代にかけては、清水寺だけでなく、ひろく「丑の刻参り」が行なわれていたようだが、やはり清水寺が歴史的にも古く、有名だったようだ。清水寺にも「夜叉神堂」があるが、小松和彦はこれも「丑の刻参り」のためのものであると、「京都・魔界案内」の中で言っている。しかし、その実体を明らかにする資料はないので、清水寺における「丑の刻参り」についての説明は、清水寺・地主神社のものにとどめておきたい。

説教節「しんとく丸」は四天王寺に伝わる「俊徳丸伝説」が元になっているが、四天王寺の俊徳丸については中沢新一がその著「大阪アースダイバー」(2012年10月、講談社)で哲学的な取り上げ方をしている。四天王寺の聖徳太子の思想をアポロンの軸、俊徳丸の思想をディオニュソスの軸と言い、それらの軸が四天王寺で垂直に交わっているなど
と大変難しいけれど極めて大事なことを言っているので、この際ここで、「知られざる四天王寺」という私の論文を紹介しておきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sitennouji.pdf

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