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2017年6月12日 (月)

中国伝来文化

中国からの伝来文化

文化とは、人間が生きていく上で必要な教養の総体である。その文化の形成過程において技術、宗教、政治、芸術の専門的な活動というもが当然あるしまた必要であるが、最終的には多くの人びとの共通感覚として日常生活に生かされなければならない。したがって、私は、文化のうち生活文化に特に重大な関心を持って中国伝来文化を見ていきたいと考えている。

文化というものは、それぞれの時代で然るべき変形を受けてはいるが、前の時代の影響を受けている。したがって、現在の生活文化についても、相当古い時代の影響を受けている。

縄文時代に中国からどのような文化が伝来してきたのかはよくわかっていない。しかし、弥生時代以降は、わかっている。弥生時代から古墳時代にかけての中国伝来文化は、次の通りである。

紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。

宮本常一は、「アタ族」という海洋民族の技術の中に製鉄技術があることをを推定された。それらの技術は、広東省「広州」からの渡来民・アタ族によって日本にもたらされたと見なされている。

日本が縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていたとき,秦の時代の中国に徐福(じょふく)という人物がいた。中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し、その子孫が「秦」(は た)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在するのである。

丹後地方では、すでに弥生時代前期末から中期初頭の峰山町扇谷(おうぎだに)遺跡から鉄器生産に伴う鍛冶滓(かじさい)が出土しており、鉄器の生産が行われていたことが知られている。

邪馬台国の時代より前、後漢後期の鏡「三段式神仙鏡」が日本に入ってきていたらしい。

邪馬台国の時代に、中国から多くの文化が日本に入ってきて、日本文化の形成に計り知れない影響を与えた。

漢字の伝来は西暦285年、応神天皇の御代16年に百済の王仁によって「論語」と「千字文」が伝えられた。そのように「古事記」には書名が、「日本書紀」には年代が記されている。

日本へ儒教が伝わったのは仏教よりも早く、継体天皇の時代の513年、百済より五経博士が渡日して以降のことである。

高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島を経て日本に伝えられた。

秦氏は、新羅系の渡来人であるが、新羅系に限らず、さらには渡来系や在来の人たちに限らず、また鉱山や鍛冶に限らず、土木や養蚕や機織りの技術集団を束ねて全国の殖産に力を発揮した一族である。

仏教が政治的公的に「公伝」が行われたのは、6世紀半ば、継体天皇没後から欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられたのをはじめとする。しかし、仏教の受け入れについては、蘇我氏と物部氏の崇仏・廃仏論争があって、意見が二分されたのを見た欽明天皇は仏教への帰依を断念し、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可した。

以上の通り、邪馬台国の時代以降、応神天皇を初代とする大和朝廷の時代に入ると、誰がどのような文化を中国からもたらしのかがかなり具体的にわかってくる。その中で特に特筆すべきものとして、道教と医心方がある。そこで、この論文では、第1章は「道教に思いを馳せて!」とし、第2章では「中国伝来の医療・・医心方とその周辺」とし、道教の思想が我が国に及ぼした影響を詳しく書くとともに、医心方に寄せる私の思いを相当詳しく紹介した。この第1章と第2章がこの論文のハイライトである。

しかし、その他にも特筆すべき事柄が多い。遣隋使や遣唐使によって留学生らが持ち帰ってきた中国の文化のほか、誰がもたらしたかわからないけれど中国伝来文化が日本の文化の根底にあるものが実に多い。それらを全て紹介しきったわけではないけれど、私のわかる範囲で紹介した。それが第3章「その他の特筆事項」である。

この論文の全体は次の通りである。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tyuudenrai.pdf

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