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2017年5月11日 (木)

藤原不比等論の終わりに

藤原不比等論
おわりに

和銅3年(710年)不比等は、平城京を完成させるとともに、藤原京にあった氏寺・ 厩坂寺(うまやさかでら)を平城京に移し興福寺と改めた。 その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが養老4年(720年)に施行を前に病死した。
私は、本文でここまで書き進んで筆を置いた。しかし、養老4年(720年)病死した藤原不比等はどこにどのように葬られたのか、その点については触れなかった。また、日本の政治に大きな役割を果たした不比等の子孫の墓がどこにあるのか、その点についても触れていない。しかし、藤原不比等論の後日談として藤原不比等の墓や不比等の子孫の墓について、現在わかっているところをこの「おわりに」書いておきたい。
まず、藤原不比等の墓については次をご覧いただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/huhitohaka.pdf

さて、不比等の子孫であるが、藤原不比等の四人の男子、武智麻呂、房前、宇合、麻呂のなかのうち、房前の末裔・藤原北家が繁栄したが、藤原北家からは藤原冬嗣という偉大な政治家が出て、その直系の子孫に藤原道長がいる。そしてその子孫から藤原五摂家(近衛、九条、二条、一条、鷹司)明治にいたるまで貴族社会の頂点に君臨してきたのである。太平洋戦争の戦前戦中、三度総理大臣の座に就いた近衛文麿は、昭和天皇に政務を上奏するとき、椅子に座り、足を組んだままで、涼しい顔をしていたという。もちろん周囲の顰蹙(ひんしゅく)を買ったが、このような不謹慎が許されたのにはわけがある。近衛氏が藤原五摂家の筆頭だつたからにほかならない。
宇治の木幡の一帯は、藤原氏の墓域であり、その出身の天皇のきさきたちもここに葬られたと伝えられている。明治10年、宮内庁は藤原氏出身の妃の墳墓として、17陵3墓を「木幡陵」としたが、後に宇治陵と改めた。その中には皇族以外の藤原北家(太政大臣冬嗣、関白基経、太政大臣時平、法興院摂政兼家、関白道隆、関白道長、関白頼通、後宇治関白師實)の墳墓が含まれている。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/huhiowa.pdf

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