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2017年5月10日 (水)

藤原不比等論(第3章)

藤原不比等論

第3章 藤原不比等の生い立ちと経歴

藤原不比等は、百済系渡来人の 田辺史大隅に育てられた。田辺史大隅ならびにその一族は百済系渡来人なるがゆえに、大陸文化に明るく、学識も豊かであったようだ。また、田辺史大隅は、中臣鎌足の期待に応え、藤原不比等を学識だけでなく人格的にも立派な人間になるように、理想的な育て方をしていったと思われる。藤原不比等は、その少年時代、藤原史(ふひと)と呼ばれていたが、 田辺史大隅は彼を自分の子供のように思い、また彼も田辺史大隅を実質的な父親のように思っていたのではなかろうか。

中臣鎌足は、中臣鎌足は改新に力を尽くし、近江朝廷における最高の実力者となったが、その近江朝廷に近く、当時から交通の要衝とされていた山科に「陶原の館(すえはらのやかた)」と呼ばれる邸宅を建てたと伝えられている。その邸宅には山階精舎(やましなのしょうじゃ)と呼ばれるお堂がつくられ、ここに釈迦像が安置されて山階寺とも呼ばれるようになった。その山階寺跡と思われるところに、現在、碑が建っていて、中臣鎌足の邸宅の近くに田辺史大隅らの家があったと説明されている。


奈良時代の興福寺に関する史料(『興福寺流記』所引「宝字記」)には、「鎌足は改新の成功を祈って、釈迦三尊像・四天王像を造ることを発願した。事が成就した後、山階の地で造像を行った。やがて重病になり、妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置した。これが山階寺の始まりである」と記されている。

山階寺はその後、藤原京 に移り厩坂寺と呼ばれ、更に平城京に移り興福寺となります。このため興福寺は当初山階寺とも呼ばれました。天智天皇の腹心であり、藤原氏の始祖となる鎌足は、山科と深い関係があったのです。


ちなみに、この説明文に出てくる鏡女王のことであるが、彼女は、はじめ天智天皇の妃だったが、後に中臣鎌足の正妻となったらしい。しかし、中臣鎌足には二人の妻がいて、藤原不比等の母親については、ウィキペディアには与志古娘と書かれているが、鏡女王は鎌足の正妻になったのだから、不比等の実の母親に違いないという説もある。

鎌足は、長男・定慧を唐に隠し、次男・史(ふひと)についても謀反を企てた母の実家に置いておくわけにもゆかず、山科にある田辺史(ふひと)大隅の邸に隠した。

唐に留学した兄の定慧が23歳で帰国し、数ヶ月の後急死したとされる。このとき不比等は7歳であった。突然父から引き離され、長く別れて居た兄と漸く会えたかと思ったら、数ヶ月で逝ってしまったわけです。

しかし、唐から帰国したのが、本物の定慧であるかどうか疑わしいという説がある。なにしろ11歳の少年の頃しか誰も定慧を知らないのだから、鎌足がみすみす息子を死なせるようなへまをする筈がないというのである。

定慧はきっと生きていたに違いない。当時、鎌足にとって唯一の嫡子であり、まだ不比等が影も形もなかったその時に、息子を守る為に唐に留学させたのある。生きて帰って来れないかも知れない危険な遣唐使船に大事な跡継ぎを乗せなければならなかった鎌足の思いからすると、先にも述べたように、鎌足が大事な息子をまざまざ死なせるわけがない。
私は、定慧は生きて藤原不比等の補佐をしたと思う。定慧は11歳から23歳まで留学僧として唐で生活をしていたので、当然中国語は堪能だった筈だし、藤原不比等としては力強い身内であったに違いない。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/huhito031.pdf

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