« 藤原不比等論 | トップページ | 台湾(その20) »

2017年4月21日 (金)

台湾(その19)

台湾(その19)

第2章  大航海時代から現代までの台湾

第2節  台湾の近代化
2、日本の統治時代

(2)鉄道(その2)

1895年(明治28年)の日本の台湾統治が始まった時、基隆(キールン)より新竹に至る99kmの鉄道があった。これは中国の初代台湾総督の劉銘伝氏が建設したもので始めは縦貫線敷設の計画だったが、劉氏の転出後色々と事情があって新竹で工事を打切ったものである。ゲージ1067mmで16.3kgレールを敷設し、最急勾配1/20、最小曲線半径80m、酷いのは56mの個所さえあり、従って汽車の速度も輸送力も頗る劣弱で役に立たなかった。
台湾の鉄道の路線と駅名は次の画像を参照されたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/taitetu.pdf

 そこで日本の占領後、日本軍は鉄道隊にこの改良工事をさせた。1895年8月初代台湾総督樺山伯爵は防衛と統治上から縦貫鉄道建設の重要性を政府に申出て、同年參謀本部も又、陸軍省に対し同様の希望を伝えたので1896年3月政府は経費7万7000円余で縦貫線の調査を台湾総督府に命じた。その委嘱を受けて逓信省鉄道技師工学博士増田礼作氏之が測量調査に当った。
そして同年5月、公爵近衛篤麿氏外華族及び実業界の巨頭265名の発起により資本金1500万円で台湾縦貫鉄道365kmの建設を目的とする台湾鉄道会社が計画され、台湾総督府も大にこれを勧奨援助した。会社は工学博士原口要氏を技師長にして着々計画を進めたが、諸般の事情で会社成立が困難になった。
 そこで1898年2月、時の陸軍中将男爵児玉源太郎氏が台湾総督となり翌3月後藤新平民政局長(同月民政長官と改める)が就任して、台湾総督府は縦貫鉄道を官設で行う決定をし予算案を議会に提出してその協賛を得るに至った。
 縦貫鉄道の予算が成立すると後藤民政長官は時の鉄道作業局長官工学博士松本荘一郎氏に台湾縦貫鉄道の技師長の適任者の物色推薦方を依頼された。

 松本荘一郎長官は日本鉄道社長小野義眞氏等とも相談し元日本鉄道技師長の長谷川謹介氏を最適任者として推挙し大にその手腕人格を称揚されたと云うことである。長谷川謹介氏同郷の先輩、井上勝子爵(元鉄道長官)や井上馨侯爵(元老)もその間多少相談にのられたらしい。
 かくて1899年4月1日、長谷川謹介45歳の分別盛りに台湾へ赴任され、高等官2等に叙し年俸3500円を下賜された。時に台湾は日本の領有になって5年目、軍政より民政に移って4年目、鉄道が軍隊より民政局へ移管されて3年目であった。

 しかしその頃の台湾はまだまだ物騒で山地には生蕃(せいばん:原住民)が跳梁し、平地には土匪出没し、奥地は深い霧に閉ざされ、草地や沢には毒蛇潜み、炎熱は焼くが如く、悪疫は時に猖獗(しょうけつ)を極め、一般内地人には闇黒世界の感を与えていた。
こういう極悪な環境の中、長谷川謹介は見事に台湾縦貫鉄道を完成させ、現在、「台湾鉄道の父」と呼ばれているのであるが、長谷川謹介の命令指揮の下、現場で苦労した多くの日本人技術者がいたことを忘れてはならないだろう。
太平洋戦争(大東亜戦争)で1945年に日本が敗北すると、台湾は中華民国(南京国民政府)の統治下に入り、台湾総督府鉄道も中華民国当局によって接収され、台湾鉄路管理局に組織改編された。その後、国民政府は国共内戦の敗北で中国大陸を中国共産党に奪われ、1949年に中央政府を台湾へ移転せざるを得なくなった。以後、台湾国民政府が中華人民共和国と共に「中国代表」国家の座の正当性を主張する「二つの中国」の時代に入り、台湾では1987年7月まで戒厳令(動員戡乱時期臨時条款)が発動されるという異常事態となった。鉄道はそんな中でも台湾の重要な産業、軍事設備と見なされて整備が進み、まず1978年から1979年にかけて縦貫線の電化が進められた。また、1980年2月に北廻線が完成して台東線と花蓮新駅(現 花蓮駅)で接続、1982年にはその台東線が1067mmに改軌されて北廻線との直通が実現し、更に1991年には南廻線が開通して「環島鉄路」(台湾一周鉄道)がようやく完成した。


« 藤原不比等論 | トップページ | 台湾(その20) »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/70326490

この記事へのトラックバック一覧です: 台湾(その19):

« 藤原不比等論 | トップページ | 台湾(その20) »