« 台湾(その19) | トップページ | 台湾(その21) »

2017年4月22日 (土)

台湾(その20)

台湾(その20)

第2章  大航海時代から現代までの台湾

第2節  台湾の近代化
2、日本の統治時代

(3)ダム(その1)

日本統治時代、台湾の主要産業は農業であり、水利施設の拡充は台湾経済発展に重要な地位を占めていた。1901年、 総督府は、以前からの水利施設を回収すると共に、新たに近代的な水利施設を建設することをその方針とした。この計画は、当時、総督府土木局の課長・山形要介の発案によるものである。現場の指揮は山形要介の部下・八田與一が当たった。これら水利事業の整備は台湾の農業に大きな影響を与え、農民の収入を増加させるとともに、総督府の農業関連歳入の増加を実現している。

台湾南部に広がる嘉南平原は大河川が存在しない上に降水量が乏しい地域であり、秋から冬にかけては荒涼とした荒野になっていた。八田与一は10年の歳月を費やし、烏山頭ダムを完成させると、1920年には嘉南大圳の建設に着工、1934年に主要部分が完成する。

烏山頭ダム(うさんとうダム)は台湾台南市に位置する高さ66m、 堤長1273m、 総貯水容量1億5000万立方メートル、有効貯水容量8200万立方メートルのロックフィルダム。建設を監督した八田與一に因んで八田ダムの名でも知られる。 フーバー・ダムが完成するまでは世界最大のダムであった。

烏山頭ダムの基本情報:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/taidamu.pdf

日本の統治時代、総督府が建設した台湾の鉄道は、トップダウンの計画であるのに対し、烏山頭ダムと嘉南大圳は、総督府土木局の課長であった山形要介の発案によるボトムアップの計画であった。その計画に下村海南台湾総督府民政長官が賛同して、明石元二郎台湾総督の決断により、国会で承認され国家事業として進められたものである。計画に賛同した下村海南も国会に働きかけた明石元二郎も偉大な人で、台湾の大恩人と言えるが、山形要介が裏ではあるが最大の功労者である。山形要介から現場の指揮を命ぜられた八田與一は表の立役者であるが、私は、山形要介という人物の存在を忘れてはならないと思う。山形要介は、 1898年(明治31年)東京帝国大学工科大学土木工学科卒業の土木技術者であり、八田與一は、1910年(明治43年)に東京帝国大学工科大学土木工学科卒業土木科を卒業の土木技術者である。山形要介は八田與一のちょうど一回り違う12年先輩であったのである。当時台湾総督府土木局の課長であった山形要介は、新人として土木局に入ってきた八田與一を可愛がりよく指導をした。山形要介がいなければ、台湾でもっとも親しまれ尊敬されている八田與一は存在しなかったものと思われる。八田與一が台湾でもっとも親しまれ尊敬されているその理由は、烏山頭ダムならびに嘉南大圳という世紀の大事業を八田與一が地元の人たちと一体になって仕上げたところにある。

台湾では初代民政長官であった後藤新平以来、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し、嘉義市・台南市・高雄市などの各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移り、山形要介の部下となり、烏山頭ダムならびに嘉南大圳という世紀の大事業の現場責任者を命ぜられたのである。

この事業は全額日本の国費で行われたのではない。受益者負担ということで農民負担があったのである。つまり、事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施行し、半額を日本国の国費で賄うこととなった。このため八田は国家公務員の立場を進んで捨て、この組合付き技師となり、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)まで、完成に至るまでこの組合付き技師として工事を指揮したのである。






« 台湾(その19) | トップページ | 台湾(その21) »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/70340744

この記事へのトラックバック一覧です: 台湾(その20):

« 台湾(その19) | トップページ | 台湾(その21) »