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2017年4月 7日 (金)

台湾(その10)

台湾(その10) 第2章  大航海時代から現代までの台湾 第1節  近代までの台湾 1、オランダの進駐(その1) 16世紀中期、ポルトガル船が台湾近海を通過した際、船員が偶然水平線に緑に覆われた島を発見した。船員はその美しさに思わず「Ilha Formosa(ポルトガル語で「美しい島」の意味) 」と叫んだことから、台湾に「フォルモサ」の名称が付けられ、ヨーロッパに台湾の存在を紹介されるようになった。 ポルトガル人は台湾に最初に到達したが、台湾との関係は原住民とのアヘンを介した小規模交易に留まり、植民地経営までは考慮しなかった。大航海時代の台湾に最初に本格的な進出を行なったのはオランダであった。 1622年、オランダ東インド会社はまず明の支配下にあった澎湖を占拠し、東アジアに於ける貿易拠点を築いた。その後1624年には明軍と8ヶ月に渡る戦火を交えた。両国の間で和議が成立し、明は澎湖の要塞と砲台を破棄し、オランダ人が台湾に移ることを認めた。このようにして台湾を占拠することとなったオランダ人は、一鯤鯓(現在の台南市安平区)に熱蘭遮城を築城し、台湾統治の中心とした。 オランダによる統治が開始されると、フィリピンルソン島を拠点としていたスペイン人が台湾進出を試み、1626年に台湾北部の鶏籠(現在の基隆)を占拠、社寮島(現在の和平島)にセント・サルバドール城を築城し、蛤仔難(現在の宜蘭)に進出、滬尾(現在の淡水)にセント・ドミンゴ城を築城した。しかし、1642年、オランダは鶏籠に艦隊を派遣しスペイン人勢力を台湾から駆逐した。 このようにしてオランダの植民地となった台湾であるが、1652年、郭懐一を領袖とする漢族系移民の大規模な反乱が発生した。反乱は間もなく鎮圧されたが、事件により1万人以上の漢族系住民が殺害されたとされている。 郭懐一(かく かいいち)は、オランダ統治時代の台湾で活動した開墾の指導者。福建省泉州同安県生まれ。 郭懐一(かく かいいち)は現在の台南市永康区一帯で開墾に従事していた入植者であった。当時の漢人は麻や米などの経済作物を中心に栽培し、近隣の村落との小規模な交易に従事していた。郭懐一は当地の指導者としてオランダ側文献に「五官懐一」と称された。1650年頃、蔗糖業の不振に加え、オランダの重税により漢人間に不満が増大、郭懐一はこの状況下でオランダに対する叛乱を計画した。 しかし郭懐一の叛乱計画は事前に密告によりオランダ側の知るところとなり、郭懐一は準備不十分のまま1652年、当時竹により建築されていた普羅民遮城を攻撃した。しかし郭懐一は同日に戦死し、叛乱軍は瓦解、残党は南に逃れ漚汪(現在の高雄市岡山区後紅)に逃れたがその地で全滅、この叛乱により殺害された漢人は1万人以上に及んだ。 郭懐一(かく かいいち)は鄭成功の武将であったという説もあるが、当時の文献からはその明確な証拠が発見されていない。

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