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2017年4月 5日 (水)

台湾(その8)

台湾(その8)

第1章 日台交流の歴史(大航海時代まで)

第3節 和冦(その2)

1547年には明の将軍である朱紈が派遣されるが鎮圧に失敗し、53年からは嘉靖大倭寇と呼ばれる倭寇の大規模な活動がはじまる。こうした状況から明朝内部の官僚の中からも海禁の緩和による事態の打開を主張する論が強まる。
それ以降、明王朝はこの海禁を緩和する宥和策に転じ、東南アジアの諸国やポルトガル等の貿易を認めるようになる。ただし、日本に対してのみ倭寇への不信感から貿易を認めない態度を継続した。倭寇は1588年に豊臣秀吉が倭寇取締令を発令するまで抬頭し続けた。
そのころの日台交流でよく知られているのは、文禄2(1593)年に豊臣秀吉が使者を台湾へ送ったことである。
しかし、この秀吉の目的は達成されなかった。なぜなら、当時の台湾には主権者たる「国王」がおらず、各地方の代表者といえば各集落の首長であり、国書の受け渡しなどできる状態ではなかった。
それでも日本政府は台湾との接触を試み続けた。それを裏付ける二つの記録が残っている。ひとつは、山田長政がシャムへ行く途中に一時台湾に停留していたという記録。もうひとつは、泉州堺の商人・納屋助左衛門(呂宋助左衛門)が文禄3年に台湾で奇利を博し、日本に帰って秀吉に謁見して珍品を献じたという話が「三才図会」にある。
また、秀吉の逆鱗に触れた助左衛門は、「桜丸」号にて琉球へ逃れ、慶長元(1595)年に台湾の淡水に寄港したという記録が残っている。さらに彼には、慶長16年にはシャムへ渡るため、台湾内を探険したという記録もある。
江戸時代に入った慶長13年、徳川家康は日本に漂着した台湾のアミ族を駿河で引見した。家康の命を受けた有馬晴信は、部下を台湾に送ってまずは視察をし、原住民を撫順してから通商を試みたが、結果は失敗に終わる。元和元(1615)年、今度は長崎代官・村山等安が高山国の朱印状を得ることができた。村山は人を集めて台湾へ渡り、日本との貿易と入貢を求め、ひそかに台湾占有を狙ったのだが、有力な後援を得られずにこれまた失敗した。
その後の1624年以降、台湾南部はオランダ人に領有され、1626年以降、台湾北部はスペイン人に16年間も領有される。
オランダ人の記録によれば、日本の朱印船が南海で活躍していた時代、朱印船は基隆、淡水、安平、高雄も訪れており、各港には日本人街ができていたらしい。

倭寇時代から、オランダ人が台湾を領有した時代までの日台関係は、人的ではなく物的な関係が主流であった。八幡大菩薩の幟を掲げていた八幡船や御朱印船は、甲冑、刀剣、塩、漆器、扇子、生活雑貨を台湾へ積み出し、金、鉛、生糸、絹織物、鹿の皮、ガラス、黒檀などを台湾から日本へ持ち帰っている(ただ、台湾は貿易の中継地として利用されていただけで、この当時の台湾には甲冑など必要なかった)。

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