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2017年4月 8日 (土)

台湾(その12)

台湾(その12)
第2章  大航海時代から現代までの台湾
第1節  近代までの台湾 2、

鄭成功(その1)

鄭 成功(てい せいこう、1624年~1662年)は、中国明代の軍人、政治家。出身は福建省泉州市。元の諱は森。字は明儼。日本名は福松。清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。様々な功績から隆武帝は明の国姓である「朱」と称することを許したことから❗️国姓爺とも呼ばれていた。台湾・中国では民族的英雄として描かれており、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている。鉄人(鉄の甲冑を着込んでいたための呼び名)や倭銃隊と呼ばれた日本式の鎧を身に纏った鉄砲隊や騎馬兵などの武者を巧みに指揮したことでも有名。 日本の平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川マツの間に生まれた。鄭成功の父、鄭芝龍は福建省の人で、平戸老一官と称し、平戸に住んでいたことがあるのである。 中国(福建省)の人で大々的に朱印船貿易をやっていた人に李旦という人がいる。朱印船とは、豊臣秀吉の時代(16世紀末)から徳川家康、徳川秀忠の時代(17世紀初頭)にかけて特別の許可を得て、海外交易を行っていた船を言うが、朱印状を携帯する日本船は、当時日本と外交関係があったポルトガル、オランダ船や東南アジア諸国の支配者の保護を受けることができた。朱印状という特別の許可を得て朱印船貿易を行っていたのは、京都の豪商である角倉了以、茶屋四郎次郎、大阪の末吉孫左衛門、長崎の末次平蔵らが有名であるが、大名も島津忠恒、松浦鎮信、有馬晴信、細川忠興、鍋島勝茂、加藤清正、亀井茲矩、五島玄雅、竹中重利、松倉重政らもそうである。大名ではないが、長崎の村山等安や堺の今井宗薫にも朱印状が与えられていた。さらに、日本在留の中国商人にも朱印状が発行された。著名な者としては福建省の海賊・李旦がいる。鄭成功の父、鄭芝龍はその有力な部下であり、平戸に住んでいたことがあるのである。 平戸藩主松浦隆信の寵をうけて川内浦(現在の長崎県平戸市川内町字川内浦)に住んで田川マツを娶り鄭成功が産まれた。たまたま、マツが千里ヶ浜に貝拾いにいき、俄に産気づき家に帰る暇もなく、浜の木陰の岩にもたれて鄭成功を出産したという逸話があり、この千里ヶ浜の南の端にはこの逸話にちなむ誕生石がある。 鄭成功の幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごすが、7歳のときに父の故郷福建省に移る。鄭一族は厦門島などを根拠地に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。15歳のとき、院考に合格し、南安県の生員になった。以後、明の陪都・南京で東林党の銭謙益に師事している。   台湾1644年、李自成が北京を陥落させて崇禎帝が自縊すると、明は滅んで順が立った。すると都を逃れた旧明の皇族たちは各地で亡命政権を作った。鄭成功の父・鄭芝龍らは唐王朱聿鍵を擁立したが、この時元号を隆武と定めたので、朱聿鍵は隆武帝と呼ばれる。一方、寄せ集めの順が精悍な清の軍勢の入関によってあっけなく滅ぼされると、中原に満州民族の王朝が立つことは覆しがたい状況となり、隆武帝の政権は清の支配に対する抵抗運動にその存在意義を求めざるを得なくなった。 そんな中、鄭成功は父の紹介により隆武帝の謁見を賜る。帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな成功のことを気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言う。それではいかにも畏れ多いと、鄭成功は決して朱姓を使おうとはせず、鄭姓を名乗ったが、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」(「爺」は「御大」や「旦那」の意)と呼ばれるようになる。 隆武帝の軍勢は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、鄭成功の父・鄭芝龍は抵抗運動に将来無しと見て清に降った。父が投降するのを鄭成功は泣いて止めたが、鄭芝龍は翻意することなく、父子は今生の別れを告げる。 その後、鄭成功は江西省にいた万暦帝の孫である朱由榔が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。そのためにまずアモイ島(福建省南部の九竜江河口付近に位置し、朱印船貿易の拠点となっていた島。現在は中華民国(台湾)の実効支配下にある。)を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した。 1658年、鄭成功は北伐軍を興す。軍規は極めて厳しく、殺人や強盗はもちろん農耕牛を殺しただけでも死刑となり、更に上官まで連座するとされた。 意気揚々と進発した北伐軍だが途中で暴風雨に遭い、300隻の内100隻が沈没した。鄭成功は温州で軍を再編成し、翌年に再度進軍を始めた。 北伐軍は南京を目指し、途中の城を簡単に落としながら進むが、南京では大敗してしまった。 鄭成功は勢力を立て直すために台湾へ向かい、1661年に台湾を占拠していたオランダ人を追放し、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して本拠地とするも、翌年に死去した。その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれる。

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