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2017年3月24日 (金)

台湾(その3)

台湾(その3)

第1章 日台交流の歴史(大航海時代まで)

第1節 阿多隼人(その2)

奈良県立橿原考古学研究所は2004年12月14日、高取町薩摩で古墳時代前期と中期の古墳群が出土したと発表した。周辺で遺跡が確認されたのは初めてで、地名から薩摩遺跡と命名した。国内では似た例のない文様を描いた国産の銅鏡が見つかるなど副葬品は豊富で、同研究所は「和歌山と大和を結ぶ「紀路」が古代の重要ルートだったことを裏付ける遺跡」とみている。( http://inoues.net/club2/morikasidani.html より)

隼人研究室というホームページによると、『 奈良県高取町の「薩摩」が「阿多隼人の薩摩と関係あるのかないのか」の疑いは、そこの近隣に「兵庫・吉備・土佐」など、古今を通じて有力な国の名が集落名として連なることから疑問の余地はない。』との事であるが、私も同感である。
「紀路」の西の出口(奈良県五條市)にあたる住川遺跡では、やはり古墳時代初頭に墓地が形成されており、それは東の出口(奈良県高取町)にあたる薩摩遺跡と対をなしている。また、古墳時代中期には和歌浦より紀ノ川を遡り、この「紀路」を経由して、中国大陸や韓半島から渡来した人・物・情報が大和へ入ってきたことが推定されてい る。つまり、「紀路」は古墳時代の国際交流を支える重要なルートであったのである。薩摩遺跡における豊富な内容をもつ古墳の存在は、そのことを裏付ける重要 な証拠である。

奈良県五條市に 阿陀比賣神社がある。

祭神は、阿陀比賣神(コノハナノサクヤビメ)、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)である。その由緒書きによると、次の通りである。 

『和名抄』の大和国宇智郡阿陀郷の名が見える。当社の鎮座地である。また『和名抄』に、薩摩国阿多郡阿多郷の名が見える。阿多隼人の居住地である。開聞岳を神奈備山としていた隼人である。なお、隼人には大住隼人もいる。こちらは人数が多いようだ。
 阿多隼人は少数派だが名門で『記紀』では皇室に妃を出している。当神社の祭神の阿陀比賣神とは神阿多都比売、または木花佐久夜姫命と言い、まさに皇室の祖先の母親とされている。
 吉野川は南方漁法の鵜飼が行われていた地域であり、薩摩から移住の者が地名、魚法、祭神を持ち込んだものと見て差し支えはなさそうだ。 大三元さんに教えていただいた「日本の地名」(谷川健一著)には 鵜のことを沖縄では「アタック」と呼んでいたとの紹介があり、 明治十四年に上杉県令が沖縄本島を巡察した際に地元の人が、 鵜のことを「アタック」と言ったという記録が巡回日誌にとどめられている。
 さて、当地は、吉野と宇智の境にあたる。大きくは大和と紀伊、畿内と畿外の境、サカの地である。サカの守りとして隼人を置いたとも思われる。

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