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2016年9月 1日 (木)

中国伝統文化(その2)

中国伝統文化を考える旅(その2)
はじめに(その2)

晏嬰の時代は、いわゆる斉の時代であって、戦国時代の斉(田斉)などと区別して姜斉(きょうせい)とも呼ばれる。晏嬰の時代から、150年~200年ほど後になるが、紀元前4世紀(紀元前400年から紀元前301年まで)田斉の盛時をもたらした威王や宣王は、各地から多くの学者を集めた。彼らは日々論争し、人々はこれを百家争鳴と呼んだ。稷下の学士は、直接斉の政治に関与する人々ではなかったが、卿につぐ次官級の俸禄を与えられて優遇された。人数は、数百人から千人ともいわれている。おそらく彼らは斉の政府が政治を行う上での案を採る対象として招かれた、もしくは集まった人々であると思われる。しかし、中には例外もいる。稷下の学者村の初代村長となった 淳于 髠 は、何度も他国に使節として派遣されている。
稷下の学士(しょくかのがくし)とは、中国の戦国時代、田斉の国都である臨淄(りんし)に集まった学者たちのことであるが、臨淄の城門のひとつである「稷門」の近くに住んだことから、この名がある。 姜斉の時代も国都は臨淄(りんし)であり、「稷門」はあった。斉は、田氏( 太公)がそれまでの斉を滅ぼして、新たに打ち立てた王朝であるが、それまでの文化は引き継がれていった。王家の血筋は変わったけれど文化は残ったのである。したがって、 姜斉の時代の文化と田斉の時代の文化をひっくるめて斉文化と呼んで差し支えない。その斉文化に諸子百家の文化があるし、その源流に晏嬰がいるのである。したがって、多くの学者が政治に関与するという中国の伝統文化を知るためには、晏嬰という人物のことを知らねばならない。


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