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2016年7月 3日 (日)

淮南子(その7)

淮南子の思想について(その7)

淮南子はグノーシスであり、それによって確立した老荘思想は儒家・法家・陰陽家の思想を包含したまったく新しい哲学である。今のところこの新しい哲学を凌駕する哲学はない。それが「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」(1992年2月、講談社)という本を読み終えた私の考えである。それでは以下において、その本の核心的な部分を紹介しておきたい。金谷治は、その本の中で次のように述べている。すなわち、

『 道のことだけをいうのでは世俗とともに生活できない。しかしまた、現実のことばかりをいうのでは、自然と合一して遊び息(いこ)うことができない。つまり、形而上的な深遠な道を説くのは、わずらわしい雑多な変化の多い現実にとらわれないで、超越的な心境に遊べるようにという、そのための配慮からだ、というのが要路篇のことばである。』

『 人間的な道義を守ってできるだけの努力をしていくというのが、儒家の立場であった。しかし、道家の人びとは、そうした人間的な努力の空しさをあまりにも深く知りすぎた。』

『 儒教の論理では、何よりも賢人による政治、道徳による政治として、「人材」をたのみ、「叡智」に依頼することが多かった。しかし、「積力衆智」の主張は、「人材を恃)たの)むに足らず」「智は以って天下を治むるに足らず」として個人的な智能を尊重せず、一派の学問思想にこだわらないでひろく民間の輿論にも耳を傾けることを要求する。』

『 「物に先んじて為さず」「己より出る(い)だすことなき」無為の立場、聖人はそれを完全に守る人である。だからこそ、世界の動きを注視して、その時その時に応じてもっとも適切な行動がとれるのである。』

『 「老子」では、無為を説くのは実は「為さざることなき」万能を求めるためであり、無私になるのは「能く私を為しとげる」ためである。「老子」を通読すると、その消極的なことばづかいの裏に、烈しい現実的な欲求、世俗的な成功主義のひびきを聞くことができるであろう。荘子的な真人(道を完全に体得した者)と老子的な聖人(タイミング見て行動する無為の人。してみると、「淮南子」の統一の「場」は、そのまま老荘を統一する立場であったといえるであろう。』

『 「恬然(てんぜん)として無思、澹然(たんぜん)として無慮」、すぐれた人物の行動は全く自然と合一する。だから、人がその「道の働き(宇宙の働き)」に従っていくというのには、まず無思無慮になること、人間的なさかしらをすてることが必要である。「万物は固(もと)より自然なり、聖人は何をか事(つと)めん。」、ここにいわゆる無為自然の哲学が強調される。』・・・と。

金谷治の書いた本「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」(1992年2月、講談社)の核心部分は、以上のとおりである。



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