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2016年7月20日 (水)

シャングリラ(その17)

シャングリラ(その17)
第2章 中国という国(その4)
第2節 宗教について(その2)
2、道教の盛衰(その1)

宗教というものは、その時の権力者の意向によって、盛んになったり衰退したりする。日本の神道と仏教は、多少の揺らぎはあるものの、歴史を通じておおむね安定的に発展してきた。それに比べて、中国の道教と仏教は、その盛衰が激しい。以下において、道教の盛衰についてその歴史をざっと見て見よう。

中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。
南北朝時代の華北の国・北魏は、100年ほど続いたが、その後、東魏と西魏に分裂した。東魏(とうぎ、534年 - 550年)は、函谷関の東側の国であり、西魏(せいぎ、535年 - 556年)は、函谷関の西側である。そして、西魏から北周へ、東魏から北斉へと政権が変わるが、その北周の第3代皇帝・武帝宇文は 仏教を弾圧し道教を盛んにした。

さらに、589年、隋の文帝楊堅は即位すると、引き続き道教を盛んにした。 楊堅は幼いとき尼の智仙に育てられたので、自ら「私は仏法から興った」と称していた。だから、隋のはじめには、三教の順位は仏教が先、道教が次、儒教が末と定められ たが、道教もそれなりに盛んだったのである。
さらに、隋末には、道教は隆盛を極める。
道士たちは群雄の中から未来の帝王を予測した。「天道は改まり、老君の子 孫が世を治めようとしている」といった道教の予言が当時の社会に大きな影響を与えたのである。著名な道士の多くは、予言された帝王は李淵と李世民のことであり、彼らは老君の子孫なので、天子になると道教を盛んにする だろうと言った。

李 淵(り えん)は、唐の初代皇帝。隋末の混乱の中で長安を落として根拠地とし、恭帝侑を隋の正統として立てたうえで、その禅譲により唐を建国した。李世民は、父である初代皇帝・李淵を助けて多大な功績があり、実質上な建国者と見なされる事も多い。自身が即位してからは「貞観の治」と呼ばれる善政を敷き、後漢末以来の断続的な動乱を収めて、唐定刻300年の礎を築いた。

李唐の建国後、太上老君が唐帝の祖先であると称し、太上老君が羊角山などの地に現れたという政治神話はさらに 多くなった。唐朝の王室は公然と老子を「聖祖」として尊び、自ら老子の子孫であると称した。そのようにした理由の一つは、符命という予言を借りて李氏が帝 を名乗ることの合理性を論証するためであり、政権を神聖化しようとしたのである。もう一つの理由としては、士族の門弟を重んじる社会環境だったので、老子 の名声と人望にあやかり帝王の宗族の社会的地位を吊り上げようとしたのである。
このように、道士の予言通り、 唐朝の王室は公然と老子を「聖祖」として尊び、自ら老子の子孫であると称したので、道教は嫌が応にも隆盛を極めたのである。
唐の高祖は道教が先、儒教が次、仏教が末という三教の順位を確定して道教を尊ぶ国策を宣布した。武徳九年(626年)の「玄武門の変」では、法琳を はじめとする仏教徒が太子の李建成(李 建成は、唐の初代皇帝高祖李淵の長子。高祖の即位に伴い皇太子に立てられたが、玄武門の変にて弟の次弟の李世民に殺された。)を支持し、王遠智をはじめとする道教徒が秦王の李世民を支持した。その結果、李世民が建成を殺して帝を称し唐の太宗(二代目の皇帝と なった。唐の太宗は貞観十一年(637年)に仏教と道教の優劣を定めるために双方に議論をさせ、引き続き道教を推奨して仏教を抑圧する政策を宣布した。

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