« 習近平の可能性(その10) | トップページ | 日中友好親善(その9) »

2016年6月14日 (火)

明恵(その10)

明恵について(その10)
(3)河合隼雄の「明恵夢に生きる」(その2)
それでは、河合隼雄の名著「明恵夢に生きる」(1987年、講談社)を勉強することにしよう。
しかし、その前に、明恵の「あるべきようは」の思想の背景となっている「華厳哲学」のことを少しお話ししておきたい。その上で、河合隼雄の「明恵夢に生きる」を勉強することにしよう。 ! 自由と不自由、平等と不平等、善と悪、権利と義務、父性本能と母性本能、陽と陰・・・・、世の中というものはひとつの価値観だけでやっていけない。禅の言葉に「両頭截断して、一剣天に依って凄まじ」という言葉があるが、これはそのことを言っているのであり、白とか黒とか・・・、そういう相対的な認識の仕方というものを戒めている。白でもあり黒でもあると同時に白でもないし黒でもない・・・・そういう絶対的な認識に立つべきとの教えである。こういう絶対的な認識の仕方からいくと、白か黒かという区別ができないのであるが、近代科学は、もちろん、それが白か黒かを区別しないとまあいうなればやっていけないのではないか。そういう思考の延長線上にキリスト教などの一神教があるが、本来、存在というものはそういうものではないだろう。存在というものは、そういう白とか黒とかという相対的な認識を超越したものであり、白との関係黒との関係が問題なのである。 

 京都大学100周年記念の記念講演会が一昨年の秋に東京であり、河合隼雄さんが「日本人の心のゆくえ」と題して講演を行なわれた。近代科学は、普遍性を求めるものであり、したがってあらゆる存在の明確な区別、言い換えれば、関係性の截断が必要である。華厳宗というものは、そういう近代科学の原理とは全く違うことをやったのであり、近代科学が否定した関係性を重視する。全関係の総和としての存在というものは、名前がつけられないから「無」と言わざるを得ないが、華厳宗ではそれを「挙体性起(きょたいせいき)」という。生け花というものは、存在が挙体性起(きょたいせいき)するもっともいい形を求めるものであり、そういう意味で、「存在が花している」のである。こういう日本文化の存在論からすると、存在の現れとしてそこに花がある。すべてのものは存在から出てきた。私は、存在が岩井國臣しているのである。最後は、西洋文化と日本文化の共生の必要性を訴えられ、今後我々日本人は矛盾システムを生きていかなければならないと言われたのであるが、その思想的背景として、まあ、そういう日本文化の存在論、つまり挙体性起(きょたいせいき)ということをいわれたと思う。しかし、私は長い間、挙体性起(きょたいせいき)ということがよく判らなかった。どんな辞書を引いても出てこないのである。

 ところが、武家社会源流の旅の行き着く先に明恵(みょうえ)がいるのではないかとの考えから、私は、河合隼雄さんの著書「明恵 夢を生きる」(京都松柏社)を勉強して・・・・・やっと挙体性起(きょたいせいき)ということが判った。次に河合隼雄さんの説明を紹介しておきたい。

« 習近平の可能性(その10) | トップページ | 日中友好親善(その9) »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/66009534

この記事へのトラックバック一覧です: 明恵(その10):

« 習近平の可能性(その10) | トップページ | 日中友好親善(その9) »