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2016年6月22日 (水)

明恵(その17)

明恵について(その17)
(5)なぜ明恵なのか? (その3)
 さて、明恵がこんな面白い詩を残していおります。
   「あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月」
 月をこよなく愛し、月を歌った歌が多いため「月の歌人」とも言われています。この歌にはいろいろと解説がありますが、私は、ともあれ、この歌は理屈抜きで味わってほしいものと考えています。
   「あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月」 ! 
 さて、皆様も御承知のように、今、世界は・・・ほとんどのものがアメリカの力によって動いています。しかし、アメリカの力の政策によって・・・・、はたして、イラクに平和は訪れるのでしょうか。アメリカの力の政策によって・・・・、はたして、テロはなくなり、世界に平和はやってくるのでしょうか。私は、アメリカが好きで、親米派ですが、アメリカの力の政策だけでは、21世紀・・・・、世界はやっていけないと思います。自爆テロといいますか、イスラム原理主義も困ったものですが・・・・、アメリカのキリスト教原理主義も困ったものであります。自分の考えていることが一番正しいという・・・原理主義はいけません。相手のことも考えなければならないのです。人さまざまであり、違いというものを認めなければならないのではないでしょうか。

 明恵の思想「あるべきようは」というのがあります。やはりこれが一番いい・・・・。臨済宗には、白隠禅師や山本玄峰などのものすごい人が出ていますが、歴史的に見て、私は、栄西直伝の「座禅」を組んだ明恵の思想・・・「あるべきようわ」が一番すごいように思われます。
 親には親のあるべき姿があり、子供には子供としてのあるべき姿がある。男は男としての姿があり、女は女としての姿がある。イスラム教にはイスラム教としてのあるべき姿があり、キリスト教にはキリスト教としてのあるべき姿がある。人それぞれにあるべき姿があるのであり、相手のことをとやかくいうことよりも・・・やはり自分に厳しくした方が良い。

 明恵はおそらく、自分の生き方について多分こう言ったであろうと思います。「私はあの世の天国で済われようとは思っていない。ただ、現世において、今、あるべきようにするだけだ。修行すべきように修行し、楽しむべきときは楽しめばいい。今は何をしてもかまわない、念仏を唱えて助かればいい、などとはどの経典にも書いてない・・・」と。 

 やはり法然とは根本的に考え方が違っていたようです。法然の念仏思想は極楽往生を前提とした他力本願であり、明恵の「あるべきようは」は臨機応変の「自力本願」であります。
 きっと・・・これからのインターネット時代というものは・・・、臨機応変の「自力本願」というものが求められると思います。今後将来・・・、「あるべきようは」に込められた・・・・明恵の思想が見直され、きっと世界から注目されるに違いないと思います。
 「原点に帰る」という言葉がありますが、仏教は、やはりお釈迦さんの原点・「座禅」に帰って・・・・、或いは仏さんの前に坐って、静かにじっくりと・・・・、自分の「あるべきようは」をよくよく考えた方が良い。私はそのように考えるのですが、どんなものでしょうか。 』・・・というものである。


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