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2016年6月24日 (金)

明恵(その19)

明恵について(その19)
(6)明恵の一生 (その2)
明恵の生まれたところは、私が訪れたときは金屋町であったが、その後2006年1月の市町村合併に伴って有田川町になった。上の地図では、右端に歓喜寺と名所の印がついているが、その近くで生まれた。明恵ゆかりの寺で、重要文化財の仏像が二つもある。伝承によれば、寛和2年(986年)、『往生要集』の著者源信の開創とされている。源信は円仁の流れをくむ名僧であり、私にはなじみの人である。私は今まで源信についていろいろと書いているので、この際、明恵とも奥深いところで繋がっているということで、源信に関する私のホームページを参照願いたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/esin-in.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/rosanji.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/yokawa.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/esin-in2.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/ujitopo.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/2hongen.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/umegenji.html

明恵は、8歳のときに母、ついで戦乱で父を失う。母方の叔父の神護寺上覚に師事する。上覚は、天台座主慈円(関白藤原忠通の子)が著した歴史書「愚管抄」五によると、1159年(平治元年)平治の乱がおきた時には、父宗重とともに平清盛に加勢したという。出家したのはその後と見られている。文覚上人に師事し、文覚の神護寺復興に協力し、文覚の死後も神護寺の経営に力を尽くした。明恵は、文覚(もんがく)上人の孫弟子になるのである。
文覚上人:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%A6%9A

16歳のとき出家,東大寺戒壇院で受戒し,尊勝院弁暁・聖椿について華厳(けごん)・抑舎(くしや)を受学,また密教を興然・実尊に、禅を栄西について学んだ。
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/9dcf53979d0f26208a303d792fcaef4b

21歳ころに神護寺の別院栂尾(とがのお)山(十無尽院)に住し,東大寺尊勝院に赴いたが,寺僧間の争いをいとい,23歳のとき生誕地に近い白上(しらかみ)山地にこもり,あるいはときに神護寺に帰住するなどして,《華厳経》関係の仏典の研究をした。
神護寺:http://www.jingoji.or.jp/
白上(しらかみ)山地:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sirakami.html

 明恵はかねてインド仏跡参拝を計画していたが,1203年(建仁3)春日明神の神託(注9)により断念,05年(元久2)にも再度渡印の計画を実行に移そうとして《天竺里程書(印度行程記)》を作成したが,急病のため念願を果たせなかった。 !06年(建永1)11月に後鳥羽院から栂尾の地を賜り、弟子義林房喜海などを伴って移り、《華厳経》の〈日出先照高山嶺〉より高山寺と称することにした。まず金堂を造り,運慶・湛慶により釈梼や四天王像などが造られ,その後諸堂が整備された。金堂の裏山を楞伽(りようが)山と名付け,山中に花宮殿・羅婆坊と称する草庵を設け,巨石を定心石と名付けてときに寺中より逃れ,経疏を読み,坐禅入観の場とした。釈尊の遺跡になぞらえたもので、その旧跡が山中に現存している。
春日明神の神託:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kasumyou.html

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