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2016年6月27日 (月)

淮南子(その4)

淮南子の思想について(その4)
松岡正剛は、淮南子の内容について、さらに次のように解説している。
『 そのほかいろいろなことが重なり、淮南王としては中央と対立せざるをえなくなり、王自身も謀反をおこす決断にまで追いこまれていった。しかし、こんな消極的な謀反がうまくいくはずがない。淮南王の“計画”はたちまち漢室に察知され、行き場を失った劉安は自殺する。謀反に加わったとされた者たちもみな死罪に処せられ、淮南の国は没収されてしまったのである。劉長母子が自害し、餓死していった宿命が、ここに三代にわたって踏襲されたような恐るべき結末だった。』
『 淮南王が命じた『淮南子』はその後も執筆や編集が進んだ。恐るべき悲劇によって死没した王ではあったのに、『淮南子』はあたかも王の直下の指導にもとづくように、進捗していったのだ。いやいや、それだけではなかった。そのうち、淮南王は謀反によって自死したのではなく、天に昇って仙人になったのだという感懐が淮南の世人のあいだに沸き上がっていくようになった。このことこそ驚くべきことである。わが国の早良親王や菅原道真の例にみられるような、いわゆる怨霊観念によるものではなかった。めっぽう陽気な昇仙幻想なのである。この噂はのちの後漢の王充の『論衡』にも綴られた。「淮南王は食客を好んだので、道士や方士が次々に集まり、奇方異術の蘊蓄をかたむけ、王またそれを会得して道(タオ)を悟り、家族もろともに昇仙していった」というふうに。
  むろん王充はこんな話を信じていたのではない。けれども、そんな昇仙譚が後漢の時代に伝わるほどに、死後の淮南王については神仙めく噂が付きまとっていた ということである。実際にも、干宝の『捜神記』にも葛洪の『神仙伝』にも、八公の手引きによって淮南王が羽化登仙した不思議な経緯がまことしやかに綴られ ている。これが何を意味しているかといえば、『淮南子』の執筆編集にもそうした神仙陰陽道を加味したミスティック・モードが次々に付与されたということなのだ。が、そこでは、たんに陽気な仙人が仕立てられただけではなかったのである。』
『 いまに残る『淮南子』はいろいろ散失があって21篇になっている。それでもまことにエンサイクロペディックだ。次のように構成される。1=原道(根本を問う)、2=俶真(めでたい真理)、3=天文、4=地形、5=時則(時の問題)、6=覧冥(見えざるものについて)、7=精神、8=本経 (大本の意味)、9=主術(人生と政治)、10=繆称(誤謬論)、11=斉俗(世俗同化論)、12=道応(タオについて)、13=氾論(広く論じるこ と)、14=詮言(要点の言葉)、15=兵略、16=説山(エピソードいろいろA)、17=説林(エピソードいろいろB)、18=人間(処世とは何か)、 19=修務(人としてのありかた)、20=泰族(大いなる帰結へ)、21=要略(まとめ)。これらの中身を今夜はいちいち説明はしないけれど、その大略は21=要略でわかる。その冒頭に、こう書いてある。「道を言いて事を言わざれば世とともに浮沈するなく、事を言いて道を言わざれば化と与(とも)に游息することなし」というふうに。
 深遠な道(タオ)を述べながら現実の事を言わなければ、世俗とともに生活することなどできないし、現実の事ばかり述べて深遠な道(タオ)を語らなければ、自然とともに遊び息(いこ)うことはできない。そういう主旨で編集したというのだ。これは、ずばり荘子の「逍遥遊」の思惟そのものであり、「斉物」の考え方そのものだ。1=原道で次のように言っているのは、さらに老荘的世界観そのものだった。 「道は、これを植(た)つれば天地に塞がり、これを横たうれば四海に弥(わた)り、これを窮まりなく施(もち)うるとも朝夕盛衰するところなし。これを舒 (の)ぶれば六合(=四方上下)に幎(おお)い、これを巻けば一握りにも盈(み)たず。約(つづま)やかにして而も能(よ)く張り、幽(くら)くして而も 能く明らかに、弱くして而も能く強く、柔にして而も能く剛なり。これ、甚だ悼にして潤、甚だ繊にして微なり」。』
『 しかし漢の帝国の形ができあがるにつれ、武帝はこれらのエンジンを取り込む面倒を感じ始めたのだったろう。国家経営からすると、辺境各地の特異なエンジンの適用をいちいち組み立てようとするのは、コストもかかりすぎるのだ。 それよりも第1には、中央からの「制度設計」をゆきわたらせさえすれば、これらのエンジンなど相手側が適当にアプリをしてくれる。それには優秀な役人をふ やして送りこめばよかった。また第2には、辺境の人材をそのままとりこんでしまえば(アメリカの移民政策のように)、そのもともと国々の由縁や由緒などど うでもよくなった。そして第3に、何にもまして儒教を拡張し、これに周辺の多様な思想をとりこんでしまえばいいだけなのである。
 これが武帝の古代帝国主義政策である。ということは、ここにおいて中央と辺境ははっきり切断されたわけである。辺境は見捨てられたのだ。では、それで淮南王はどうしたのか。』

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