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2016年6月22日 (水)

淮南子(その2)

淮南子の思想について(その2)

淮南子の内容については、「松岡正剛の解説」 に詳しい。
http://1000ya.isis.ne.jp/1440.html

松岡正剛は、淮南子の内容について、次のように解説している。すなわち、

『 儒家・法家・陰陽家の思想の歴史的な系譜をよく継ぎつつも、そこに楚の風土にもとづく価値観を大胆かつ慎重に加えてみせたのが、淮南王によってまとめられた『淮南子』だったのである。』

『 たしかに『淮南子』には、天文地理から神話伝説まで、政治論から処世術まで、みんな入っている。儒家・道家・法家のいずれの知識もまぜこぜの目で収集されている。
  その一方で、『淮南子』には独特の編集感覚が満ちた。このことは読み始めれば、すぐ伝わってくる。とくに目立つのは、アーカイブの全容を巧みに道家の思想 によって柔らかく統合しようとしていることで、そうすることによって、複雑多様な「事」(事象)を「道」(タオ)によっておしなべた。そう言っていいな ら、全体に老荘思想と神仙タオイズムの気配が漂っていて、百科いちいちの詳細を伝えるというよりも、つねにメゾスコピックな言語風致でつないでみせたの だ。』

『 楚国とは、淮南の時代をさかのぼる数百年前からの、この土地の国俗(くにぶり)の総称をいう。そこは老子や屈原が生まれた国であって、かつまた孔子や墨子が君子を求めて訪れた「風韻まつりごと」の地であった。その楚の国が『淮南子』の背景で動いている。』

『 とくに洞庭湖を望む楚の国には、山河に育まれた神仙や巫祝の文化が横溢していた。けれどもそこは、中華の国々か らみれば「礼教の外」であり、野蛮(南蛮=夷狄)の象徴でもあった。』

『 その周の基軸モデルから見れば、楚の社会文化なんてものは(呉や燕もそうであるけれど)、たんなる辺境なのである。』

『 そうした楚の地にいつしか「楚辞」(そじ)が生まれた。楚辞は土地伝来のシャーマニックな巫歌の伝承にもとづき、それ以前の古代中国にはまったく見られな かった新しい文芸の異風をつくりあげた。それまでの北の『詩経』が集団的な楽歌だったとすれば、南の「楚辞」は屈原や宋玉や景差といった強烈な個性を育 て、やがて滅びゆく楚風を偲ぶ「負の文芸」としての異色を極めたのである。』
『 楚王は代々「熊」の文字を名につけるようになっていく。わが国のアイヌやマタギ同様に、かれらが熊のトーテムを信仰していたことはあきらかだ。』

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