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2016年6月24日 (金)

淮南子(その3)

淮南子の思想について(その3)
松岡正剛は、淮南子の内容について、さらに次のように解説している。
『 斉・晋と 争った。その斉の威王や宣王の時代、都の臨輜(りんし=輜はサンズイ)の稷門の館に千人をこえる学士が集まったのが、諸子百家の黄金時代だったわけであ る。』
『 楚の窮状は亡国の憂き目の様相を呈してきた。懐王はなんとかこの苦境を凌ごうとするが、どうにもうまくない。ここに登場してきたのが屈原だったのである。 屈原は、孤立無援となった楚が存続するには六国が同盟して秦に当たるよりほかはないと懐王に提言するのだが、なかなか受容されない。それどころか、側近た ちの讒言も加わって2度にわたって放流された。懐王が秦に捕らえられて客死したのちに次王となった頃攘王(けいじょうおう)のときは、江南に流されて9年 もの流浪を強いられた(実際に9年間だったかどうかはわからない)。
 こうして屈原は公憤に震え、義憤に怒り、私憤に悶えて、ついに洞庭湖のほとりの泪羅(べきら)の淵に身を投げ、悲劇の生涯を了える。』
『 その屈原が綴ったのが、祖国を思い、万感無念の裡に楚辞文芸の傑作中の傑作『離騒』(りそう)だった。いまは詳しいことは書かないが、『離騒』は375句におよぶ長編詩で、すべての漢詩の半分はここに始まったとも思える特異な技巧と壮絶な内容を湛えている。 ちなみに『離騒』の前半は、屈原が自叙伝ふうに出自や学知を詠い、その後は王を扶(たす)けて理想を求めたにもかかわらず、讒言のために失脚したことを嘆 じる。そのうえで、王また当初の約束を忘れてしまった以上、いまや自分の心を知る者はどこにもいないという悲憤を訴える。
 後半では、こうとなってはいっそ現世を越えて天地の果てまで遍歴し、 新たな理念の理解に達しようとするのだが、その希いすらもはや叶わないことを知る。まるでバニヤンの『天路歴程』の一千年の先読みなのである。そこでいっ たん現世を見つめなおすのだが、時代が汚辱にまみれている以上はもはや祖国をも捨てざるをえないと決意する、しかし屈原という男、決して望郷の念も捨てら れず、ついに死をもって祖国に殉ずるほかないことを、みずから歌い切ったまま楚辞を了えていく。だいたい、こういうふうになっている。』
『 屈原が泪羅に身を投じたのち、楚はあっけなく滅亡し、50年後には秦の始皇帝による中国統一になる(前221)。その秦もわずか十数年で滅んでしまうと(前206)、時代は漢帝国の世になって、その武帝のときに淮南の王の劉安が「離騒についての解説」を頼まれるのである。なぜ武帝は、辺境の淮南王が楚辞の伝承の意味を紐解くことを期待したのだろうか。この謎、ちょっと難しそうであるが、ここには大事な暗合がある。実は楚に は「莫敖」(ばくごう)という重要官職があり、そこが国家祭祀を司っていたのだが、屈原の一族である屈氏がその職掌を担っていたのだった。』
『 楚辞とは、その莫敖が操っていた言霊技能の発露でもあったのである。淮南王とその膝下(しっか)にある者たちは、この格別な技能を継承した。』

『  しかしながら、それほど特異な才能を保持していた淮南王の劉安が、それならなぜ、自害せざるをえないほどの運命を背負ったのか。また、劉安が多くの者を集 めて『淮南子』をタオの香りに満ちた編集で満たす気になったのは、なぜなのか。そこには劉の一族の驚くべき悲劇があったのである。』

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