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2016年6月18日 (土)

周恩来(その3)

周恩来(その3)

周恩来という人物(その2)

『 1920年パリに留学する。労働党の研究のためにイギリスに渡り、エディンバラ大学に入学を許可されるが、中国政府からの奨学金が下りずに断念しフランスに戻る。その後中国共産党フランス支部を組織し、ヨーロッパ総支部が作られるとその書記となった。この留学時代の仲間には、李立三や鄧小平、陳毅、朱徳など後の中国共産党の幹部となった者が多数いた。』

『 第一次国共合作が成立した1924年、周恩来は帰国し、孫文が創立した黄埔軍官学校の政治部副主任となった。ちなみに校長は蒋介石であった。翌1925年、五・四学生運動時代の恋人鄧穎超と結婚した。』

『 1926年、周恩来は上海に移り、ここで労働者の武装蜂起を指導して上海市民政府を樹立したが、入城した蒋介石の北伐軍に弾圧されて捕らえられ、処刑される寸前で脱出した。』

『 その後、国民革命軍の南昌蜂起を朱徳と共に指導した。1931年、江西省の瑞金に中華ソビエト共和国臨時中央政府が樹立されると瑞金に入り、軍事委員会副主席として活動、長征に妻と共に参加した。遵義会議では自ら自己批判をし、毛沢東が主導権を掌握するのを助けた。以来、最後まで毛沢東路線を支える役割を果たした。』

『 貴州省の北部地区(黔北地区:黔qianは貴州省の別名)の政治・経済・文化・通信の中心地が、遵義の町だ。州都・貴陽と四川省を繋ぐ川黔鉄道や川黔公路もこの遵義を通っているが、この町の名は広く内外に知られている。1934年10月から開始された長征途上、1935年1月にここ遵義で、中共中央委員会政治局拡大会議が開かれたが、この会議は、この結果、共産党の毛沢東指導体制が実質確立されるという歴史的な会議であった。』


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