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2016年6月 7日 (火)

明恵(その3)

明恵について(その3)
(2)象徴天皇の源流 (その1)
 鎌倉時代という時代は、まさに古代から中世に代わる時代の節目であり、日本史上でもまれな変革期であった。文字どおり一所懸命に命を懸けて土地を守るという坂東武士が、奢侈柔和な古代貴族社会に決別し、質実剛健な中世武家社会を作りあげていくのである。
 そして武家社会は地方分権社会の始まりでもある。政治体制も、御成敗式目(ごせいばいしきもく)が示すように、権力は完全に武士たちの手にゆだねられた。「君臨すれど統治せず」の言葉どおり、天皇は権威に生きることとなる。地方分権社会と権威に生きる天皇・・・・ここが大事なところである。さて、この御成敗式目が提示した政治体制は、明治維新まで延々と続くのであるが、その源泉は明恵上人の哲学「あるべきようは」とそれを実践した北条泰時の政治によるものであった。 ! 明恵上人の哲学「あるべきようは」とそれを実践した北条泰時の政治について、山本七平の『日本を動かす原理「日本的革命の哲学」』の解説を書いたことがある。以下において、まずその要旨を述べ、その後で全文を紹介することにしよう。 !!! 御承知のように、保元(ほうげん)の乱は、大雑把にいえば、鳥羽法皇と崇徳(すとく)天皇との勢力争いであり、平家も源氏もそれぞれふた派に分れて戦った。平清盛は、鳥羽法皇の側についてのし上がるきっかけをつかんだ。そのあとの平治の乱は、藤原氏と源氏が結託して起こした反乱であり、平清盛はこれを討って、権力の座を手中にした。なお、源頼朝の挙兵は、源氏と平家の戦いであり、「乱」とは言わない。源頼朝が鎌倉幕府を開いたのちも後白河法皇と後鳥羽天皇の態勢はそのまま続いたのである。その後、後白河法皇はなくなり、後鳥羽天皇がそのあとを継いで後鳥羽法皇となりすべての実権を握った。その後鳥羽法皇を、武士の頭領でもない北条一族が処分したのである。 ! これは大変なことで、天皇を敬う立場からは、北条一族はケシカランということになる筈である。そこをどう理解するかということがポイントであり、問題の核心部分である。 !  ! さて、山本七平は、以上のように、「皇国史観」の源流とされる水戸学において、義時・泰時のとった行動を是認しているさまを紹介しているのだが、やはり・・・後鳥羽・土御門・順徳の配流ほど驚愕すべき事件はわが国の歴史上他に例を見ない。宝字の変(皇太后孝謙が天皇淳仁を廃す)は、皇太后が天皇を幽した事件であるし、保元の乱は天皇である後白河が上皇(崇徳)を配流した事件である。
 ところで、泰時は明恵の思想に大きな影響を受けたことはつとに知られている。明恵と泰時の邂逅は、余りに<劇的>で話がうまく出来すぎているので、これをフィクションとする人もいることはいる。しかし、明恵上人が何らかの形で幕府側から尋問されたことは、きわめてあり得る事件である。  というのは、いずれの時代も無思想的短絡人間の把握の仕方は「二分法」しかない。現代ではそれが保守と革新、進歩と反動、タ力とハト、右傾と左傾、戦争勢力と平和勢力という形になっているが、二分法的把握は承久の変の時代でも同じであった。まして戦闘となれば敵と味方に分けるしかない。その把握を戦闘後まで押し進めれば、朝廷側と幕府側という二分法しかなくなる。
そしてそういう把握の仕方をすれば明恵は明らかに朝廷側の人間であった。否、少なくともそう見られて当然の社会的地位と経歴をもっていた。その人間に不審な点があれば、三上皇を島流しにし、天皇を強制的に退位させた戦勝に驕る武士たちが、明恵を泰時の前に引きすえたとて不思議ではない。さらに彼に、叡山や南都の大寺のような、配慮すべき政治的・武力的背景がないことも、これを容易にしたであろう。  ところがこの明恵に感動して泰時がその弟子となった。このことはフィクションではない。

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