« 日中友好親善(その9) | トップページ | 日中友好親善(その10) »

2016年6月15日 (水)

明恵(その11)

明恵について(その11)
(3)河合隼雄の「明恵夢に生きる」(その3)
 華厳思想の究極は、法界縁起にあると言われたりする。この法界という語は簡単には説明し切れないことのようだが、一応「望月仏教大辞典」を見ると、いろいろな意味が書かれている。そのなかで「華厳教学では」という項を示すと、「<現実のありのままの世界>と<それをそのようにあらしめているもの>との二つの相即的に表現する言葉として用いられる。云々・・・・」となっている。(註;相即的という言葉もあまり使わない言葉であるので分りにくいと思うが、相は二つ以上のものの関係をいい、即はぴったりくっついている様を言うので、相即的とは、相対的な関係にあるいくつかのものを本来はひとつであると理解する・・・・そのような理解の仕方をいう。)

 法界はまず出発点として、<現実のありのままの世界>であるが、<それをそのようにあらしめているもの>は何かを考え出すことによって、その意味合いが変わってくるのである。それを華厳思想では、事法界、理法界など四種の法界の体系に組織化している。 
 事法界はわれわれが普通に体験している<現実のありのままの世界>で、そこでは、それぞれの事物は明確に他と区別されて自立的に存在している。これは「華厳的な言い方をすれば、事物は互いに礙(さまた)げ合うということ。AにはAの本性があり、BにはB独自の性格があって、AとBとはそれによってはっきり区別され、混同を許さない」という状態である。

 ところが、このように事物を区別している境界線を取りはずして、この世界を見るとどうなるだろうか。『限りなく細分化されていた存在の差別相が、一挙に無差別性の茫々たる無差別性の空間に転成する。この境位が真に覚知された時、禅ではそれを「無一物」とか「無」と呼ぶのであるが、華厳の述語によると、このように見られた世界が「理法界」ということになる。・・・・・中略・・・・・。理法界の「空」は、「無」と「有」の微妙な両義性をはらんでいる。したがって、無限の存在可能性である「理」は、一種の力動的、形而上的想像力として、永遠に、不断に、至るところ、無数の現象的形態に自己分節していく。・・・・「空」(「理」)の、このような現れ方を、華厳哲学の述語で「性起」と』呼ぶのである。


« 日中友好親善(その9) | トップページ | 日中友好親善(その10) »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/66028835

この記事へのトラックバック一覧です: 明恵(その11):

« 日中友好親善(その9) | トップページ | 日中友好親善(その10) »