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2016年5月27日 (金)

天皇の権威(その2)

天皇の権威について(その2)

第2章 御成敗式目

御成敗式目(ごせいばいしきもく)とは、鎌倉時代に制定された武士政権のための法令(式目)のことである。貞永元年に制定されたため、貞永式目(じょうえいしきもく)ともいう。ただし、貞永式目という名称は後世になって付けられた呼称であり、御成敗式目と称する方が正式である。
鎌倉幕府成立時には成文法が存在しておらず、表向き律令法・公家法には拠らず、武士の成立以来の武士の実践道徳を「道理」として道理・先例に基づく裁判をしてきたとされる。もっとも、鎌倉幕府初期の政所や問注所を運営していたのは、京都出身の明法道や公家法に通じた中級貴族出身者であったために、鎌倉幕府が蓄積してきた法慣習が律令法・公家法と全く無関係に成立していた訳ではなかった。
承久の乱以後、幕府の勢力が西国にまで広がっていくと、地頭として派遣された御家人・公家などの荘園領主・現地住民との法的な揉めごとが増加するようになった。また、幕府成立から半世紀近くたったことで、膨大な先例・法慣習が形成され、煩雑化してきた点も挙げられる。
また数年前から天候不順によって国中が疲弊していたが、寛喜3年(1231年)には寛喜の飢饉が最悪の猛威となり、社会不安な世情であった。
そこで執権であった北条泰時が中心になり、一門の長老北条時房を連署とし太田康連、斎藤浄円らの評定衆の一部との協議によって制定された。
制定に関して、執権泰時は六波羅探題として京都にいた弟の北条重時に宛てた2通の書状(「泰時消息文」)で、式目の精神・目的を述べている。
制定当時、公家には、政治制度を明記した律令が存在していたが、武家を対象とした明確な法令がなかった。そこで、源頼朝以来の御家人に関わる慣習や明文化されていなかった取り決めを基に、土地などの財産や守護・地頭などの職務権限を明文化した。「泰時消息文」によれば、公家法は漢文で記されており難解であるので、武士に分かりやすい文体の法律を作ったとある。そのため、鎌倉幕府が強権をもって法律を制定したというよりも、むしろ御家人の 支持を得るために制定した法律という性格を持つ。また、鎌倉幕府制定の法と言っても、それが直ちに御家人に有利になるという訳ではなく、訴訟当事者が誰で あっても公正に機能するものとした。それにより、非御家人である荘園領主側である公家や寺社にも御成敗式目による訴訟が受け入れられてその一部が公家法な どにも取り入れられた。
鎌倉幕府滅亡後においても法令としては有効であった。足利尊氏も御成敗式目の規定遵守を命令しており、室町幕府において発布された法令も、御成敗式目を改廃するものではなく、追加法令という位置づけであった。
明治時代以降、近代法が成立し、近代国家として現在を迎えているが、現在の法律体系においても、天皇の権威と権力は分離されており、御成敗式目の思想、つまり北条泰時の思想が引き継がれている。天皇に立法、行政、司法という政治権力はなく、天皇は権威に生きる人となっている。ゆえに、私は、「もの言わぬ天皇」と言ったりしているが、私の真意は、天皇が政治権力から離れてただひたすら権威に生きる人であり、それが日本の民主主義を支えているというところにある。そのことについては、最後に、日本の政治のあり方、つまり民主主義の欠点を補う天皇の権威というものについて論じる。民主主義の欠点を補う天皇の権威というものに支えられた日本の国家構造は素晴らしい。

「もの言わぬ天皇」の権威、その基礎を作り上げたのは、北条泰時である。梅棹忠夫が北条泰時を日本で最初の政治家(ステイツマン)」と評したように、私は、北条泰時と御成敗式目は、日本の政治史のなかで、燦然と輝いているとつくづく思う。

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