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2016年5月17日 (火)

継体天皇の謎(その45)

継体天皇の謎(その45)

第4章 継体天皇の大和入りを支えた多賀の豪族(3)

京都府綴喜郡多賀の多賀神社は、その後、高神社と名前を変えるが、京都府綴喜郡多賀に人たちは今なお高神社に対する崇敬の念が強い。多賀大社と京都府綴喜郡の高神社の祭神・イザナギ・イザナミの2大神は同じであるが、京都府綴喜郡の高神社のほうはさらに 菊々理姫命が祀られている。 菊々理姫命 は一般に菊理媛(くくりひめ)と呼ばれているが、白山信仰の祭神である。白山信仰については私の論文があるが、菊理媛が祀られているということは、秦氏の関与を伺わせる。井手町のホームページには、高神社の社文書に改築の時に猿楽が舞われたとあるが、これは日本で最初の猿楽に関する記録の一つとなっている。猿楽が舞われたとあるのは「白山信仰について」という論文にも書いたが、秦氏によるものであることはほぼ間違いない。したがって、菊理媛が祀られているということと猿楽が舞われたということを考え合わせると、高神社の祭祀に秦氏が関与していることは間違いなく、この地域の人たちが金属技術者の集団であった可能性が高い。

高神社の由来については、延喜式神名帳をもとに作られた神奈備というホームページでは、『当神社は多賀集落の東南に位置する天王山に鎮座。本殿は北西に向かい多賀集落を見 守るように建てられています。 創立は人皇第29代欽明天皇の元年(西暦540年)東嶽に御神霊の御降臨により社 宮を建ててお祭りした事に始まります。その後集落の発展に伴い、元明天皇の和銅4 年(西暦711年)東村宮として多賀明神社が字川辺に建立され、次いで神亀2年( 西暦725年)字西畑に久保村宮が、神亀3年(西暦726年)字綾の木に谷村宮が 、それぞれ建立されました。聖武天皇の天平3年(西暦731年)勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に「多賀村」を「高村」 と名称が変更されました。元慶2年(西暦878年)8月谷村宮龍神祭の時に死者の 出る喧嘩騒動が起こりました。そのためその後相談が重ねられ、仁和元年(西暦88 5年)現在地の天王山に統合され三村がなか良くお祭りをすることになりました。こ の間宇多天皇の御真筆による「大梵天王社」の額と称号を頂き永く高村「大梵天王社 」と呼ばれて来ました。醍醐天皇の御代には神輿が三基あったと記されています。仲恭天皇の承久三年(西暦1221年)大乱の後「高村」を「多賀」に「高神社」を「 多賀神社」に改正されました。寛元3年後嵯峨天皇の時代には霊顕あらたかな神様と して「正1位勳1等」の神位と「大明神」の称号が贈られました。明治元年に神社制 度の改正により大梵天王社「多賀神社」が現在の「高神社」に改正されました。本殿 のご祭神は「伊邪那岐命」「伊邪那美命」「菊々理姫命」摂社14社ご祭神及び神社 名は「天照大神」「須佐之男命」「大国主之命」「応仁天皇」「仁徳天皇」「仲哀天 皇」「稲荷神社」「愛宕神社」「八幡宮」「春日神社」「恵比寿神社」「八王子神社 」「祈雨神社」「聖神社」であります。』・・・と書かれている。


以上のとおり、京都府綴喜郡多賀の古代地域の豪族は、秦氏に繋がる豪族であり、その配下は金属技術者の集団であった可能性が高い。したがって、私は、京都府綴喜郡多賀の古代地域の豪族を「多賀の豪族」と呼びたいと思う。この「多賀の豪族」が継体天皇の大和入りに際し、大伴氏、物部氏と協力しながら秦一族を挙げて力を発揮するのである。

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