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2016年5月 6日 (金)

継体天皇の謎(その39)

継体天皇の謎(その39)

第4節 葛城山麓の遺跡(2)

北葛城は二上山の東北方面、水平距離で6kmほどの所に、有名な馬見古墳群(うまみこふんぐん)がある。 葛城襲津彦の後裔たちの墓域ではないかと考えられている。さあここで葛城地方の地理的な説明を少ししておきたい。
葛城地方の西側は金剛山地である。金剛山地の最高峰は金剛山(1125m)で、北に向かって葛城山(959m)、二上山(517m)と続く。中央にあるのが葛城山で、その東側・御所市の秋津遺跡や葛城襲津彦の墓と見なされている宮山古墳がある。葛城山の北に二上山があり、その近くに 葛城襲津彦の後裔たちの墓域ではないかと考えられている馬見古墳群(うまみこふんぐん)があるという訳だ。
馬見古墳群(うまみこふんぐん)のマップについては、次を参照されたい。スケールを小さくすると二上山が出てくるでしょう。
http://kofun.info/kofun/775

一方、南葛城には、金剛山東麓に約1km四方にわたって展開する古墳時代中期の大集落・南郷遺跡群がある。1995年に発掘調査された南郷安田遺跡を はじめとして、さまざまな遺跡が見つかっており、5世紀の第2四半期には、葛城氏の手によって渡来系の技術集団が計画的に南郷地区の配置され、大量の手工 業製品を生産する当時の「工業団地」が出現したことをうかがわせる。南郷遺跡群についてはのちほど述べるとして、秋津遺跡の説明を続けよう。
このたび秋津遺跡で4世紀前半の祭祀(さいし)の場とみられる施設跡が発見されたことは、襲津彦以前の葛城氏の実態を探り出す手がかりになるかも知れない。和田萃・京都教育大名誉教授は、4世紀 前半の大和盆地に“東の纒向(まきむく)、西の葛城”の二大勢力があったことがはっきりした、とコメントしておられる。
橿考研の発表では、この遺跡の活動の中心は古墳時代前期の4世紀 前半とのことだ。近くに築かれた宮山古墳(室の大墓)の築造年代は古墳時代中期の5世紀前半とされている。仮に宮山古墳の被葬者が葛城襲津彦と仮定して、 襲津彦から1世紀もさかのぼる時代に、葛城氏はすでに南葛城を支配下におくことができたのだろうか。
この地域は古代氏族鴨族が盤踞していたとされている。弥生時代の中頃、鴨族の一部が金剛山の東斜面から大和平野の西南端にある今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波(かもつは)神社をまつって水稲栽培をはじめた。また御所市東持田の地に移った一派も葛木御歳(かつらぎみとし)神社を中心に、同じく水稲耕作を行っていたとされている。鴨都波神社のある付近には鴨都波遺跡がある。この遺跡では弥生時代中期(前1世紀)から末期(3世紀)さらに古墳時代前期(4世紀)に続く墓が見つかっている。鴨都波遺跡を営んだのは鴨族だったのか、それとも葛城氏だったのか。

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