« 山地拠点都市構想(その148) | トップページ | 宇宙との一体感(その4) »

2016年5月21日 (土)

継体天皇の謎(その48)

継体天皇の謎(その48)

おわりに(2)

この論文を終わるにあたって、私が「 聖明王は継体天皇のご恩に報いるため」と言ったその辺の事情と、「聖武天皇の苦労」について書いておきたい。

継体天皇の頃、朝鮮半島は高句麗、新羅、百済の三国に分かれており、対立を繰り返していた。仏教は、まず最も中国に近かった高句麗に伝わり、百済にはその後384年に伝わっている。新羅にはその後5世紀 初めに伝わった。仏教の宗派としては、三論宗、律宗、涅槃宗、円融宗、華厳宗、法性宗、法相宗、小乗宗、海東宗、神印宗などがあったらしい。

6世紀前半に即位 した百済の聖明王は、当初新羅と結んで高句麗に対抗していたが、次第に新羅の圧迫を受けることになり、新羅に対抗するため倭国に対して援軍を要求している。百済が倭国へ仏教を伝えたのは、日本へ先進文化を伝えることで交流を深めるとともに、仏教に心酔していた 梁(502~557)の武帝の歓心を買おうとしたためと思われるが、倭国に援軍を求めるのが最大の目的であったようだ。

年代に諸説があるのは日本書紀に従えば552年だが信憑性が薄く、より信頼性が高い『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に従えば538年となる。ただし、この年だと天皇は欽明天皇ではなく兄の宣化天皇の時代になる。この二人はその先の安閑天皇とともに、継体天皇の子供である。百済の王から欽明天皇が仏像を譲り受けたという548 年説は百済側から推察したもので、いずれも定説には至っていない。日本書紀に545年(欽明天皇の時代)に百済王が日本の天皇のために丈六(一丈六尺、5メー トル弱)の仏像を作成し任那に贈ったとの記述もあり、通常、これが仏教伝来の時期と考えられている。ただし、当時の日本には既に多くの渡来人が 定住していたが、彼らは自分達の私的なものとして、仏像や経典を既に持ちこんでいたようだ。522年継体天皇の時代に日本に来たと言われる司馬達等(しば たっと)は仏像を安置していて、それを見た日本人がその仏像を「大唐の神」と呼んでいたとの記録がある(「扶桑(ふそう)略記」)。

蘇我氏は、司馬達等(しば たっと)と結んで、仏教の普及に大きな役割を果たした。

聖明王は継体天皇の時代の人であり、私は、 聖明王は継体天皇のご恩に報いるため、継体天皇の子供欽明天皇に釈迦仏の金銅像や経論などを送ってきたのだと思う。そのお陰で、仏教国日本の現在がある。その功労者は継体天皇と聖武天皇である。

私は、第4章の終わりに、「井出の里」というホームページを紹介したが、そこで、私は、『 聖武天皇は、時の都であった紫香楽宮で大仏造立の詔を出した。大仏は最初紫香楽宮で造られ始めたが、都が平城京にもどったことに伴い、大仏建立が本格的に始まったのである。しかし、それには橘諸兄の了解が必要であり、聖武天皇はそれに苦労する。』・・・と述べた。

聖武天皇の即位は、724年であり、聖武天皇24歳の時である。藤原不比等が 亡くなって4年目のことである。興福寺が創建されるのは平城京に遷都した年(710年)であるから、興福寺が創建されてから14年がたつ。興福寺の五重塔 はまだできていないが、金堂や北円堂はできている。入唐僧玄ぼうが、法相宗を日本に持って帰るのが735年であるから、聖武天皇の即位のあと11年後のこ とである。このあと、741年には、国分寺、国分尼寺建立の詔(みことのり)が、そしてその2年後には、盧舎那仏(るしゃなぶつ)金銅像(大仏)の建立を 発願される。
まだ、春日神社はできていない。春日神社が創建されるのは、768年であるから、ずっとあとのことで、大仏開眼から16年、聖武天皇が崩御されて から12年・・・あとである。関東及び東北から、物部の勢力を藤原が乗っ取るのに相当の年月がかかったということであろう。不比等が亡くなってから、藤原 4兄弟の突然の病死あるいは藤原広嗣(ひろつぐ)や藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱という・・・藤原氏滅亡の危機がなくはなかったのだが、そこは不比等の引 いたネットワーク組織のおかげで藤原の勢力は着実にのびていった。そして遂に、768年、春日神社が創建されるのである。藤原の官僚としての力はものすご いもので、政治はなかなか天皇の思うようにはいかなかったようだ。皇親政治は夢の又夢である。
しかし、藤原の思うがままの政治を天皇として許すわけにはいかない。そこが聖武天皇のいちばんの思いではなかったか・・・。少しでも・・・皇親政 治に近づけたい。藤原の官僚ネットワーク組織が全国を支配する前に、何とかしなければならない。それは、中臣神道を否定できない以上又すべきでもないが、 盧舎那仏(るしゃなぶつ)金銅像(大仏)の建立して、何とか神道と仏教の習合を図る・・・ということではないのか。神道は藤原に任せるとして、仏教は天皇 自らがやろう・・・、聖武天皇はそう考えたにちがいない。人材が欲しい。入唐僧玄方(げんぼう)のほか、良い人物はいないのか? いるいる・・・。良弁と行基がいるではないか!
上に述べたように、藤原4兄弟というのがいた。最終的は流行り病(疫病)で4人とも亡くなるのだが、この藤原4兄弟は、4人とも、聖武政権下で活 躍する。亡くなるまで13年の永きに渡ってである。偉大な政治家・藤原不比等がいなくなっても、この4兄弟が聖武政権を牛耳っていく。聖武天皇は次第次第 に無力化していくのである。早くも危機は即位後5年目にくる。左大臣・長屋王が 自殺に追い込まれ、聖武政権に反藤原は一人もいなくなる。藤原4兄弟の思うままの政治が展開されるのである。聖武天皇は操り人形のようでまったく無力化し ていく。藤原4兄弟が亡くなった翌年、すなわち738年に、橘諸兄(たちばなもろえ)が右大臣になって、ようやく聖武天皇は皇親政治に舵を切ることが可能 となった。新しい聖武政権の誕生である。橘諸兄(たちばなもろえ)と吉備真備(きびのまきび)の活躍するときがきた。

« 山地拠点都市構想(その148) | トップページ | 宇宙との一体感(その4) »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/65597165

この記事へのトラックバック一覧です: 継体天皇の謎(その48):

« 山地拠点都市構想(その148) | トップページ | 宇宙との一体感(その4) »