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2016年5月10日 (火)

継体天皇の謎(その42)

継体天皇の謎(その42)

第5節 邪馬台国と朝鮮半島との繋がり(2)

この狗邪韓国の存在は三世紀邪馬台国の時代ことである。一般にはこれより後の時代になって、朝鮮半島南端部が倭国に所属するようになったと言われているが、中国正史の記録は三世紀時点で朝鮮半島南端部が倭に所属していたことを示している。中国正史の記録は倭に所属した直後であるような表現が見られないので、三 世紀よりはるか前に朝鮮半島南端部は倭に所属していたことになる。

さて、朝鮮半島には 加羅(から)という国があった。私は加羅について第2章で詳しく述べた。
弓月君が率いる秦一族が 加羅(から) から大挙大和にやってきたのは応神天皇の時代である。しかし、実は、応神天皇が産まれる以前から、秦氏は 加羅(から) から大和にやってきていたらしい。 加羅(から)は、百済と新羅に挟まれるようにして朝鮮半島の南端にある小国だが、伽耶(かや)とも呼ばれたりしている。加羅(から)と呼ばれる以前は、弁韓と呼ばれていた。
加羅は、弁韓ができる前の縄文時代から倭国の人々がいたところで、縄文土器、糸魚川の翡翠、九州腰岳産の黒曜石などが発見されている。したがって、加羅(から)は朝鮮といえば朝鮮だし、倭国といえば倭国であるという、まあ両方の国の人びとが住んでいた特殊な地域であったのである。だから、私は、加羅は加羅だと考えた方が良いと思う。無理に朝鮮だとか倭国だとか決めつけない方が良いと思う。中世の大阪の堺(さかい)のように、むしろ商人による自治組織の発達した特殊な地域と考えた方が良いのかもしれない。そこでは、私のいう大商人が活躍していた。加羅地域では、ヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏並びに在地豪族がともに協力し合って、当地で統治権を有していたことが学者の間でも有力視されているが、私は、加羅地域は、大商人による自治組織の発達した特殊な地域であったと考える次第である。その加羅に、秦一族がどのように定着していたのかは、明確な説明はできないが、私は、秦氏の始祖・功満王も加羅に定着し、リーダー的存在として活躍していたと想像している。

さて、その加羅であるが、加羅 は、『三国遺事』「駕洛国記」のことを載せている。金官国は、朝鮮半島における倭国の北端であり、魏志倭人伝における狗邪韓国(くやかんこく)の後継にあたる国であり、金官国を中心とする地域は、三韓すなわち弁韓、辰韓、馬韓の一部を含むとみなすのが通説である。

2世紀から3世紀にかけて朝鮮半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海市付近の金官国(元の狗邪韓国、後の加羅国)であった。任那の文化中心は、この金官国(金海・咸安を取り囲んだ慶尚南道海岸地帯)であり、現在も貝塚や土坑墓などの遺跡が散在している。

以上述べてきたように、邪馬台国の時代の狗邪韓国は、その後、ヤマト王朝および大和朝廷の時代になって、金官国、加羅と呼ばれる国に繋がっていくのである。つまり、大和朝廷における百済との関係の基礎は邪馬台国の時代に築き上げられたのである。そこにも歴史の連続性が見られる。

さらに、わが国と朝鮮半島との繋がりに関する歴史の連続性については、実は、縄文時代や旧石器時代まで遡って考えねばならず、この点については、この章の補筆として書いておきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/3nohohitu.pdf

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